2012年11月29日木曜日

タイ再び

henroと名づけたiPod一台を鞄に入れて空港に向かう。カミさん連れてどこか暖かいところへと考えたのが発端だったのに結局一人旅。なぜタイだったのかというのもいい加減。たまたまFacebookで繋がった30年来の友人がチェンライという街に住んでいることを聞いたからだ。チェンライという音の響きに惹かれただけかもしれない。

夜行バスならぬ飛行機の夜行便で羽田発。防寒着は鞄に放り込み、そのまま荷物を預けてしまったはよいが、飛行機までバスで運ばれることになり、軽装のまま寒い外気に晒されることになる。翌朝バンコク着で乗継便まで3時間。入国手続きを済ませ空港内をウロウロする。コーヒーを飲もうとしたら円が使えない。店員の対応もぞんざい。日本の存在感って薄くなってるのかしらねなどとつぶやきながら待合室で待つ。

で、チェンライ到着。

2012年11月26日月曜日

11月の読書

今月は読みかけの『ピダハン』で手一杯だと思うので、ちょっと早めにup

ピダハン ダニエル・L・エヴェレット みすず書房 2012
 やっぱりサピア=ウォーフでしょう
ウェブで政治を動かす! 津田大介 朝日新書 2012
時速250kmのシャトルが見える 佐々木正人 光文社新書 2008
弱いロボット* 岡田美智男 医学書院 2012 
ガラスの煉獄* 壇上志保 新潮社 2010
日本を捨てた男たち* 水谷竹秀 集英社 2011
美の壺ー魯山人の器* NHK出版 2006

2012年11月24日土曜日

ぼくが企画書を書けない理由

発信力の時代だそうで、外に向かって発信していかないと生き残れない、と皆が言う。うん、そうかもしれない。大井町稽古場は存亡の危機にあるし、ここはひとつ自分たちに何ができるか企画書を書くべきでしょうとパソコンに向かうのだが一向に筆が前に進まない。

これまで頼まれて外で稽古会は何度もやってきているはずなのに、いざ積極的に外に向け発信しようとすると、どう書きはじめてよいかわからない。生きているということは身体と共に生きているということで、つまり、僕らの稽古は万人に応用できるはずのものだし、実際、普通のお母さんたちから芸術家まで幅広い層を対象に稽古会を開いてきた。

ところが、いざ「発信」しようと試みると、そこで止まってしまう。僕の文章力に問題があるのかなあとも思うのだが、それだけでもなさそうだ。よく考えてみると、頼まれて稽古会をやるという場合、その時点である程度参加者の層が決まっていて、その顔を空想しながら稽古を組むという手順を踏んでいる。つまり、あらかじめ対象が想定されている。あと、もう一つは、ことのはじまりは常に受身なのですね。これって結構、僕らの存在理由にかかわる根源的な問題のような気がする。

実のところ頼まれ稽古会というのはなかなか楽しい。「こういう人たちを対象にした会をやりたいので稽古考えて下さい」という話を持ち込んでくるのは多少なりとも稽古に触れたことがある人なのだが、「じぁあこんな感じでやりましょう」と応じて、いざチラシが刷り上がったのをみて驚く。僕との話やメモ書きをもとに出来上がったものであるはずなのに、相当にズレているケースが結構多い。この企画者の曲解というか誤解のしかたというのが素晴らしい。ある時など、若い母親の会だというので出かけていったら、会場入口に「整体で美しくなる」と大書された看板が立っていた。いったいどこから、こういう題が出てきたのか謎である。で、あの看板に偽りありかというと、二時間びっちり動法の稽古をしたのだが、皆さん美しくなって帰っていかれた。ただ僕らの理念を理解してくれたかどうかは別次元の話である。

そうか、汎用的であるが故に、そして受身である故に、企画書という形に向かって行かないのだ。でもこれって言い訳にしか聞こえないだろうな〜。それが問題だ。

2012年11月20日火曜日

妄想

時々妄想することがある。整体協会の会員500人と一般人500人を抽出し、もちろん年齢性別等を揃えた上で一年間の医療費支出を比較してみる。はたして有意の差は観察されるだろうかという研究。うちの組織が厚生省管轄だったら多少の可能性はあったかもしれないが、いかんせん文科省なもんで無理筋なのか。今、内閣府に公益社団化を申請中ということのようらしいのだが、この「公益」とは何なのかがわかりづらい。上述の研究が実施され、有意の差が確認されれば、国にとって喫緊の課題となっている医療費削減への貢献という一点をもってして「公益性」を証明するものになる。こちら側としても、医療費支出とQOLは関係ないぞ、ということが証明されれば存在理由は補強されることになるだろう。実際これくらいの研究なら学部生の卒論で十分できることじゃないのかな。もっとも、有意の差が出るだろうというのは、私の身勝手な予断に過ぎないわけで、いずれにしても一度やってみる価値はあるんじゃないかな。差が出るのか出ないのか、もし出るとすればどれくらいの差が出るのか、ちょっと興味ある。万一、差がないという結果が出たら、次の戦略を考えればよい(笑)。最近観た劇作家平田オリザを追いかけた『演劇2』(想田和弘監督)の一シーンに平田氏がメンタルヘルス学会に呼ばれて講演するシーンがあった。文化に「投資」することでメルタルイルネスへの予防になりますよと主張しているのだが、それくらいの方便はオレたちも使っていいんじゃないかと思い、この温めていた妄想を思い出した次第。つまり、今の世の中、お金の使われ方が間違ってんじゃないのかなと主張したいだけなのです。

2012年11月19日月曜日

演劇1、演劇2


映画「演劇1」「演劇2」を観てきた
観察映画の想田和弘監督が劇作家平田オリザを撮ったもの
体調最悪で、一本だけ観てくるつもりで出かけたのだが、結局2本まとめて観ることに
2時間50分x2、延べ6時間、映画館のシートに座っていたことになる 

「演劇1」の冒頭で出てきたのが、「冒険王」という作品
アジアの安宿に集まった日本人バックパッカーの会話で構成されている
この会話劇でいきなり「既視感」ー正確に言うと、既視感ではなくて昔の自分の姿なのだがーがいっきに押し寄せてきて、体調の悪いことなど忘れてしまった
80年代のイスタンブールが舞台らしい
僕がイスタンブールを通過したのは74年のことなのだが、イランのビザを取るのに手こずり、十日間この街の安宿で過ごしたことがある
世界をさすらっている日本人の溜まり場で、日本を離れた期間が長いほど大きな顔ができる、妙な社会ができあがっていた
そのさすらい人たちの会話を聞いて「ちゃんと日本に帰らなきゃ」と決心した
そんな体験がいきなり甦った

平田オリザの名前はもちろん知ってはいるが、青年団の舞台って見たことがない
一方、想田監督の作品は、「精神」「選挙」と何本か観てきて、観察映画と呼ばれている方法論のもつ透過性に共感してきた
その想田監督が平田オリザを撮ったとなれば、観に行くしかない
半日映画館に座っていて、観察映画って、観客が体験する映画、
映画を体験するんじゃなくて、素材を体験する映画なんだろうと思い至った
きっと、「カタ」のもつ引き算の役割に注目している監督なんだろうね
そうそう、それと猫たち

2012年11月16日金曜日

Thailand 1980

タイにはじめて行ったのは1980年。より正確にいうと、その5年前、インドからの帰りに乗り継ぎでバンコクに一泊だけしているのだが、空港とホテルの往復だけだったから、とても行ったとはいえない。ただ、ホテルで出された肉をガツガツと食ってしまい、お腹をはげしく下したことだけは鮮明に覚えている。ほぼ菜食で半年過ごしてきた胃袋に肉は強烈すぎたのだ。


1980年のタイ行きは水先案内人がいたらから楽だった。バンコク、プーケット、チェンマイとタイ国内の三地方でそれぞれ一週間過ごした。ローカルの知り合いもいて、普通の観光旅行では見られないところも案内してもらった。プーケットが巨大リゾートとして開発される前の話である。


32年ぶりにタイに行ってみることにした。その時の水先案内人がチェンライというタイ北部の街に移り住み、遊びにおいでと声をかけてくれたからである。30年の間に東南アジアの旅行事情は大きく変わっていて、夜中に羽田を発てば、バンコク乗り継ぎで翌日の午前中にチェンライに着いてしまうのだ。航空運賃も30年前と変わらない。


30年前の旅行で撮った写真はおどろくほど少ないのだが、数年前にデジタル化してもらったネガのなかにかろうじて十枚ほどタイのものがあったので、このブログに載せることにした。撮影地は不明。私自身が写ったものもあるのだが、20代の私は、ずいぶんふっくらしている。
 



空間現代2

こいつら〜
http://kukangendai.boy.jp/top.html

2012年11月14日水曜日

お手本

指導者仲間のKさん逝去
先週水曜日の稽古会の途中でいきなり倒れ、
少しして意識を吹き返す
何人かの仲間の手で自宅まで送り届けられ、
「自分で階段を登って自室に入られました」というところまでは報告を受けていた
翌朝不調を訴え病院に運ばれ、そして土曜日の明け方に亡くなったとのこと
整体指導者とすれば理想的な逝き方
見事としか言いようがない
享年75歳

稽古中、私を含む何人かの人たちが前に出され、
その時、補助についてくれたのが、なんとKさん
普段組むことなんてなかったのにね
Kさんが倒れたのはその直後
しばらく傍で様子をみていたのだが、ちょっと頭痛がした
その日、稽古から帰り、夕食は食べたものの、すぐ横になりたくて布団にもぐりこんだ
まだ9時とか、そんな時間
結局、こんこんと眠ってしまい、目覚めたのが翌日木曜日の朝8時
頭痛は抜けていた

船橋稽古会があったのが、その翌日の金曜日
初参加の方も含め、これまでで一番多い8名が参加
実はこの稽古会、一年半前にKさんから引き継いだ会
「私はもう歳だから、若い人にお願いするわ」
と言われた私だって、すでにジジイを名乗っている

まあ、これも因縁なのか
「あれあれ託されちゃったよ」という気分
いいお手本を示して下さった
そんな逝き方だった

合掌

*今日になって、吉祥寺稽古会をお手伝いされていたTさんの訃報に接する。奇しくも、Kさんと同じ日に逝去されている。ご冥福をお祈りします。

2012年11月9日金曜日

なぜ身体教育なのか? 6

【客】

 先日、大井町稽古場を見学に来たスイスの人に、「あなたがやっていることは治療なのか」という質問を受けた。手を触れる人がいて、触れられる人はうつ伏せに寝ている風景を見れば通俗的な治療形態に見えてしまうのかもしれない。ただ、治療という概念には、あらかじめ治療する人と治療されるという役割分担が内蔵されている。そのような役割分担のない関係をつくりあげ、そのような関係の中で起こる出来事を体験することが、私たちの目指すところであり、そういう意味において私たちの行なっていることは治療ではない。
 動法の稽古等、動きものの稽古風景をみれば、私たちのやってることは体育として理解されやすい。しかし、前述の風景を含め、体育と称している。まず受ける側にそれ相応の嗜みを求めている。坐法臥法というものを定め、毛氈の上での立ち振舞をまず覚えていただく。いわばお茶室に入るように毛氈の中に入っていただく。お茶室に客として入った人間が、放縦に振舞っていたのではお茶会が成り立たず、客としての素養が問われることになる。それと同じである。この客としての嗜みを育てることこそが、私たちが体育とよんでいるものであるのかもしれない。
 いつから客という言葉が消費者を意味する言葉になってしまったのか。伝統芸能とよばれているものが衰退の道を歩んでいるのも、この客という感覚が薄れていっていることと対応している。客という言葉の本来の意味を今一度噛み締める必要がある。

2012年11月8日木曜日

漫才のような日々

娘の友だちのダンス発表会を見に行くという妻に
「今日の発表会に鳳なんとかさんもでるんだっけ」と訊ねると
「そうよ。元宝塚の...」
「鳳唄子だっけ?」
「えっ?」
「いや、あれは京唄子だ」(鳳啓助とまぜこぜになっている)
「ふたりとも口大きいよね」
「???」(東の人である妻に上方漫才の話は通じない)
「鳳蘭だったのか。そういえば、月刊全生の昭子さんの文章に鳳さんの名前が出てたよね? あれって、鳳蘭なの? 鳳蘭っていくつ?」
「50代じゃないの?」
(wikiで調べる)
「60代半ばじゃないか。それならアサちゃんが5歳として、年代的にはあり得るね」
(再びwikiで調べると、宝塚卒業後の初舞台が1981年になっている)
「ちょっと時代が合わない」
(再びwikiで「鳳」「宝塚」「劇団欅」で調べる)
「鳳八千代か? 知ってる? 水戸黄門に出てた人らしいよ」
「しらない」

と、こうやって文字化してみると、結構一方的な会話だ
しかも中身がない
この中身のなさこそが、夫婦の会話の真髄であるとも言えるw

*発表会じゃなくて「公演」と呼ばなきゃいけなかったようです
 主宰者は名倉加代子さんという著名な振付家だそう

2012年11月7日水曜日

why body education? III


[Colds and their Benefits]

 Noguchi wrote a book called "Colds and their Benefits" a half century ago. I think this book describes his philosophy well. Simplifying what written in the book in one sentence, "you catch colds because you need. And going through a pass-through process, you will be refreshed."  Sound good, doesn't it?  And many people understood and still understand Seitai as a natural healing art. I do not say this recognition of Seitai is wrong. But if you read the book carefully, you will find that this is the book on education. Over 30 years ago, I was working at an american college program in Kyoto as mentioned in part I of this essay.  Many students were experiencing what I called "culture shock fever" when they came into a new culture and this is what exactly happened to me in my intercultural experience. This phenomena can be explained easily as an adjustment phase one goes through. It interests me a lot  and eventually led me to the world of  Seitai.
 Now I have got to the starting point.
 (to be continued)

2012年11月2日金曜日

京都

二年四ヶ月ぶりに京都の稽古会に参加してきた
白山稽古会と日程が隣り合わせになったので、
公開講話初参加の人を含む白山の人たち三名と一緒に松任から京都に車で移動
駐車場から京都研修会館の建物に歩く途中でもう懐かしさ一杯

二年も間が空くと、顔ぶれも随分変わっているさ
顔見知りの人でも、若者だったと思っていた人が、オジサンぽくなっていたり…
その一方で、微塵も変わらない人もいる
この個体差というのは、どこに起因するのだろう
でも会全体が「大人」の雰囲気になってましたね

三日間、集注が保てるか若干の不安はあったものの、
(なんせ、夜中の特訓から宿に帰ると深夜2時というスケジュールなので)
無事最後までたどり着けました
三日間連続の稽古はよいですね