2013年2月28日木曜日

なにもこんなに

図書館にいくと、ついつい借りてきてしまうのです
最近は、買った本も読み終えたら図書館に持ち込んだりもして...

そうそう、kindle paperwhiteは返品してしまいました
表示がほんの少しだけななめっていたのが理由のひとつ
それだけなら、交換でもよかったのだけれど、
ペーパートレイで食事しているような感じを克服できず、
一ヶ月目に返品手続き(そんなことができるとは、迂闊にもこれまで知らなかった)を取ってしまいました


2013年2月27日水曜日

野口晴哉が足らない!

 「野口晴哉が足らない!」と思った。去年の12月、稽古後の掃除で大井町稽古場の畳を乾拭きしていたときの話だ。「野口晴哉が足らない!」って、日本語としてちょっと妙だなとは思ったが、言葉がそのように浮かんできた以上、きっとその通りなのだ。

 といっても、僕は野口晴哉を直接知らない世代。それ故、「野口晴哉を知らない世代は、どのように整体を学び得るのか」を一貫したテーマとしてきた。身体教育研究所とずっと関わってきたのも、そのテーマを追求できる場はここしかないと思ってきたからに他ならない。

 この「野口晴哉が足らない!」と最近のテーマ稽古としてはじめた「活元運動以前」「合掌行気以前」がどう繋がってくるのか正直まだよくわからないのだが、今の段階で、この稽古スタイルにたどり着くまでの経緯を書き留めておこうと思う。このブログで既に書いてきたものと重複する部分も多いと思うが、その点は御容認を。

 なんといっても、去年、4月5月の二ヶ月、稽古から離れていたことが大きい。四国遍路の予定が病院通いに変わってしまったのは致し方ないとして、そこから稽古に戻るまでが大変だった。僕が大井町で稽古を担当し始めたのは1998年の秋からなのだが、以来、14年間、本部の稽古に出て、大井町の稽古を担当するというパターンでずっとやってきた。それが、丸二ヶ月稽古から離れることで、どう戻ってよいかまったくわからなくなってしまった。それまでなら、公開講話などを手掛かりにして、稽古を組み立てていたののだが、それもできない。途方に暮れた。

 たどり着いたのが、坐法、臥法といった基礎稽古。とにかく出発点に戻って、そこからやるしかない。そんな感じで、夏くらいから、「坐法臥法」「合掌行気と内観的愉気」などをテーマ稽古と称してやりはじめた。はじめてみると、何故これらが基礎と呼ばれてきたのかがわかりはじめた。つまり、基礎というのはなんでも盛り付けることができる大きな「器」なのだ。合掌行気1988と合掌行気2013では、かたちは同じ合掌行気なのだけれど、その内実がまるで違う。25年の間に産まれた知見体験をいかようにでも盛り込むことができる。「基礎が進化する」の意味が腑に落ちた。

 合掌行気や活元運動にたどり着いたきっかけはいくつか挙げることができる。一つは、ある活元会のメンバーを対象に定期的に稽古会をやらせてもらった経験。もうひとつは、海外での稽古会。活元会の人たちは、稽古会は毎回やることが違っているから敷居が高いと仰る。この感想を聞いた時には、その意味するところを理解できなくて、「え〜」っと思ったものだが、ある一定のプロトコルに沿って会が進んでいくことへの安心感、同じことを続けて行くことで育っていく微かな変化に対する感受性というものは確かにある。多方向から切り込み、即興性を重視する稽古会のスタイルだって、ひとつのプロトコルであるに相違ないのだが、稽古場25年の中で、それまでの整体協会にない文化を作ってきてしまったらしい。

 海外で稽古会をやってみると、ある一定のプロトコル=様式の持つ力を痛感せざるを得ない。指導室もない、指導者もいない環境で暮らしながら、活元運動と愉気だけを頼りに生活している人は実際に大勢いる。その覚悟は間違いなく大きな力になっている。だから、例えば年一回しかない稽古会でなにを行うかというのは大問題。そんななかで、整体協会の伝統として伝わっている活元運動、合掌行気を行うというのは理にかなっている。一方、整体協会本体は活元運動を、身体教育研究所は動法を、という棲み分けでやってきたから、活元運動にまったく触れることなく何年も稽古を続けているという人たちも増えてきた。「本部では活元運動ってのをやってますから、行って体験してみて下さい」という紹介のしかたもありだと思うのだが、できれば稽古として自家薬籠中のものとしたい。

 ただ、活元運動を「稽古」として提示しようとすれば、準備運動の説明のしかたひとつとっても従来と違ったものにならざるを得ないし、それによって、活元運動の新たな可能性を探求できるはずだ。そんなことを考えながら、1月から「活元運動以前」「合掌行気以前」をテーマ稽古としてやり始めた。稽古の進み具合は遅々としたものだけれど、手応えは感じている。

2013年2月22日金曜日

2月の読書

ちょっと早目の「今月の読書」
未読分も含まれているので、2月はこんな感じでしょう
先日、図書館に行って気づいたことの一つは、書架に新書の本が増えたこと
ここ数年の新書ブームが図書館にも及んでいるというのは当然のことか
振り返ってみると意外にも読書月間
ブログの更新より本に向っている時間が長かったということ

幕末・戦後という歴史の転換点における人の在りようは興味深い
『利休にたずねよ』の山本兼一が書いた山岡鉄舟を主人公にした小説があることを知り早速読んでみた
その流れで、幕末関係のものに手を広げつつある
そして、鴨下本で戦後をおさらい
このシリーズに出てくる映画や音楽のタイトルを吃驚するくらい記憶している
改めて、映画・テレビと共に育ってきたことを痛感

命もいらず名もいらず(幕末篇)* 山本兼一 NHK出版 2010
命もいらず名もいらず(明治篇)* 山本兼一 NHK出版 2010
幕末史* 半藤一利 新潮社 2008
氷川清話* 勝海舟 講談社学術文庫 2000
誰も「戦後」を覚えていない* 鴨下信一 文春新書 2005
誰も「戦後」を覚えていない [昭和20年代後半篇]* 鴨下信一 文春新書 2006
誰も「戦後」を覚えていない [昭和30年代篇]* 鴨下信一 文春新書 2008
ユリ・ゲラーがやってきた* 鴨下信一 文春新書 2009
昭和史* 半藤一利 平凡社 2004

幸せの条件 誉田哲也 中央公論社 2012
自分を生かす古武術の心得 多田容子 集英社新書 2008
イタリアからの手紙*  塩野七生 新潮社 2003
帝国以後*  エマニュエル・トッド  藤原書店 2003
そうはいかない* 佐野洋子 小学館 2010
英国セント・ギルダ島の何も持たない生き方* 井形慶子 講談社 2003
教育者・今村昌平* 今村昌平著 佐藤忠男編著 キネマ旬報社 2010

2013年2月14日木曜日

漏電始末

「風呂桶に手を漬けるとビリビリくる」と言い出したのは、たまに帰ってくる娘
かみさんも「そういえば」と娘に同調
「体が冷えてるから、そう感じるんじゃないの?」と私
何日かして、私が風呂に入るとき、改めて確認してみると、ピリピリくる
やっぱり漏電らしい
ラジオ少年の頃、300ボルトに感電していたから、低電圧の感電に鈍感になっていたのか

慌ててテスターを取り出し、風呂場の床と風呂桶の水にプローブを接触させてみると、針が触れる
これで漏電は確定
床を濡らして、電気の通りをよくしてから測ると電位差10ボルト
これで感電死することはないだろうが、危険であることに違いはない
火災の原因にもなりかねない
ではどこから電気は回って来ているのか?
まず警報器が電源に繋がっているガス管を疑ってみる
どうやら無関係
台所や洗面台のスイッチを切っても、洗濯機や冷蔵庫の電源を抜いても変化なし
二系統あるブレーカーうちひとつを落としてようやくテスターの針がゼロに戻る
やはり台所周りだ

翌日不動産屋の営繕部に電話したら、即電気屋さんに連絡してくれた
ところがである
現れた電気屋さん、「配電盤のこれ、漏電ブレーカじゃないですね、取り替えましょう」と言い残して帰って行った
おいおい、漏電はどうなったんだ?
漏電ブレーカに替えれば漏電しているとブレーカは落ちる
でもそれじゃ解決にならないじゃないかと突っ込みを入れたくなる

同系統に繋がっている電気器具を探っていくうちに、玄関灯にたどり着いた
30年以上使われている代物なのだが、ずっと不調で、最近まったく使っていない
屋外で風雨にさらされていたものだから、本当なら真っ先に疑わなきゃいけなかったものだ
玄関灯のスイッチをオフにしてみると、テスターの針が元に戻った

やっと犯人にたどり着いたのだが、電気屋さんはまだこない

(付記)
電気屋さんが配電盤を丸ごと替えていった
玄関灯も外して持っていった
漏電騒動は収束

2013年2月11日月曜日

禁糖8日目

禁糖淡々と進行中
今日で8日目
禁断症状もなく、ただただ御飯が美味しい
これまで何度もやってることを差し引いても
この淡々とした心地というのはなかなかよい
はじめて禁糖をしたときの(禁断症状を含む)劇的な変化はないが
その分、細やかさは増しているようにも思える
禁糖本来の意味、つまり、度合いの確かさを取り戻す上での度合の目盛が
細かくなってきたのか
仕事はすごくやり易く、なにより目が楽で視界が広がってくる
このまま禁糖をデフォルトにした方が上達しそうだが
聖人君子になってしまうのはイヤだな
外食できないと社会生活も営めないし
期間限定が禁糖の良さである
あと一週間続けてみることにする

2013年2月9日土曜日

後ろ向きを磨く

ぼくが企画書を書けない理由」を書きはじめたのは、僕らの活動を知らしめるにはどうすればよいのだろうという切実かつ前向きな理由からだ。まず、ブログを読んでもらおうと、facebookやtwitterを使ってブログへの誘導を試みた。たしかに、ブログへのアクセス数は増えた。でも、ちょっとステマっぽいし、やっててしっくりこない。結局すぐに止めてしまった。この「しっくりこなさ加減」ってなんだろうと考えているうちにたどりついたのが、メディアがもつ特性と僕らがやっていることの親和性のなさなのだ。SNS、ことにfacebookは「前向き」のメディアだ、と思う。facebookにボヤきを書き連ねている人をたまにみかけるが、内容とメディアの特性が合ってない印象を受けてしまう。ボヤくならtwitterの方がましかな。一方、僕らがやっていることは、根源的に「後ろ向きに」なのですね。「ぼくが企画書を書けない理由」の結論として「受身である故に、企画書という形に向かって行かないのだ」と書いたが(頼まれれば、きっと喜んで受けるけど)、これはもう宿命として諦めて、この「後ろ向き」を磨いて行くのが稽古人としての正しい在り方ではないかと思いはじめている。 ただ、これが生存戦略として正しいかどうかについては全くもって自信がない。