2015年2月27日金曜日

2月の読書

英国一家ますます日本を食べる* マイケル・ブース 亜紀書房 2014
日本劣化論 笠井潔・白井聡 ちくま新書 2014
空気の研究 山本七平 文春文庫 1983
女たちの審判 紺野仲右ヱ門 日本経済新聞出版社 2015
ビヨンド・エジソン* 最相葉月 ポプラ社 2009
九月、東京の路上で* 加藤直樹 ころから 2014
ある遭難者の物語*  ガルシア・マルケス 風の薔薇 1982

2015年2月19日木曜日

日経小説大賞授賞式

技術研究員仲間の紺野仲右ヱ門さんが日経小説大賞を受賞され、
その授賞式があるとのことだったので、小杉さんと連れ立って大手町まで出かけてきた
その時の映像がもう公開されているのでリンクをシェア
http://channel.nikkei.co.jp/businessn/150219novel/
授賞式の会場で受賞作を販売していたので、さっそく購入
今日、本屋をのぞいたら、もう平台に積まれていた





2015年2月11日水曜日

Dad, it's your turn now - 5

湯河原にやってきた
生前、父が懇意にしていた家族経営の温泉宿へのお礼参り
というか、私もお湯に入りたい

父が東京に移るきっかけとなったのが12年前の骨折
我が家に転がり込んできたのはよいが、
受験生を抱えていた身としては難問多発
交通整理役にくたびれはてた末、考え出したのが「湯治」案
その時に出会ったのが、開店直後のこの湯河原の宿というわけだ
最初のうちは、私も付き添って一緒に泊まっていた
温泉宿から出勤なんて、考えようによっては随分な贅沢してたわけだ
父の湯河原通いは、東京に引っ越してきたあとも続いていた

お嬢さんのアトピー治療のため、温泉宿を始めたという、亭主のこだわりは相当のもの
水は一切足さず、風を送ることで湯温を調整している
口コミで評判は広がり、最近では予約も取りづらくなっている様子

風薫る湯宿の童女は若女将 (昧波)

まだ小学生だったお嬢さんも高3で、現在受験真最中だとのこと
時間が経つのは早いものだ

2015年2月9日月曜日

ダナン

図書館に行く途中かかっている
跨線橋の階段を上りながら自覚した
オレ草臥れてる(笑)

4月のオフにしばらく日本から離れることを考えた
最初に思いついたのはニューヨーク
でも、時間がかかり過ぎるし、リラックスしにいくところでもないし
一週間で行って帰ってきて、時差ボケがおさまるまでもう一週間
これは却下

寒くて仕方がないから、暑いところを目指そう
寒いのは「今」の「この部屋」の話なのだが、
熱帯の風を浴びれば、この疲れも抜けるかもしれない
と、つい考えてしまうのだ
バリ? タイ? フィリピン? ミャンマー?
skyscannerといったアプリを使えば、あっという間に、格安航空券の値段が調べられる
ふとHND-SGNで検索をかけてみたら直行便が飛んでいる
しかも5万
ベトナムか〜

ベトナムというと
ベトナム戦争のイメージが強すぎて、
だから、これまで一度も行こうなどと思いつかなかった
僕の世代だと、ベトナム戦争は身近に感じていたはずだし、大なり小なり影響を受けている

1975年4月上旬、
インドからバンコク経由で日本に帰ってきた
カルカッタからバンコクに飛び、一泊
翌朝、バンコクを発ち、香港、台北と飛び石づたいで大阪伊丹にたどり着いた
機中、半年ぶりに日本語の新聞を手にし、貪るように読み、
ベトナム戦争がいまにも終わりそうであることを知った
なにより、その上空を飛んでいることが不思議だった
サイゴンが人民解放軍によって解放され、ベトナム戦争が集結したのは、その月の30日
それから40年

でも、大都市はいやだ
二年前タイに行ったときも、バンコクは素通りして、チェンライ、チェンマイだったし
ベトナムのチェンマイみたいなところはどこになるのだろうと
探してみたら、フエという町に行き当たった
南北に長いベトナムのちょうど真ん中あたりに位置する古都
最寄りの空港はダナン

ダナン?
激戦地ダナン
ベトナムの地名は、すべてベトナム戦争の記事の中で憶えたものなのだ
サイゴンもハノイもユエもダナンも...
なんと成田からではあるが、ダナンに直行便が飛んでいる
羽田発でないのは残念だが、
これなら大都市を経由せず田舎に行ける

念のためベトナム航空のサイトをチェック
skyscannerで調べたよりも、もっと安いキャンペーンプライスで出ている
気がついたときには、ボタンを押していた
ひょっとして、オレ毀れつつあるのかもしれない

2015年2月6日金曜日

Dad, it's your turn now - 4

四十九日の法要を終え一区切り
年末年始を挟んだせいか、父が亡くなって随分経ってしまった気がする
忌明けのお返しをどうするか妹と相談した末、
今半にお願いすることにした
忌明けに肉かい?

父が最後に外で食事したのが今半だった
11月に入ると、ほとんど食べ物も喉を通らなくなっていたのだが、
「食い気は最後まで残った」と自嘲しながら、
どこで仕入れたか、「今半」の名前を持ち出してきた
それなら、一度みんなで食事を、ということで一足早い誕生会を今半でやることになった
それが11月の23日
妹家族にうちの娘が加わった
残念ながら私は不参加
しゃぶ肉を二枚くらい食らったという報告をあとから受けた

それで出来上がったのが、
今半の存在価値の大きかり
という句
これじゃ辞世にならんだろと、オヤジをつついたのだけれど、
結局、これが最後の句になってしまった
オヤジらしい
といえば、らしい