2016年3月14日月曜日

土を喰う日々

 昨年12月、娘の結婚式に出たとき、新郎の父親が福井出身ということで、福井から親戚が大勢見えていたのだが、「なるほど、こういうのが福井顏なのか」と観察していた。その中に、新聞社だったかテレビ局で仕事をされているという渋い面構えの初老男性がいて、水上勉の顔を思い出した。水上勉は若狭の出身で、一時、等持院で小僧をしていた時期があったらしい。避けていたつもりはないのだが、これまで水上勉の著作はちゃんと読んでない。京都駅地下ポルタの本屋の棚に『土を喰う日々』というタイトルの文庫が置いてあったので、石川行きの旅の伴として購入し、車中読みはじめた。軽井沢暮らしの中での、四季折々の自炊生活を郷里若狭での幼少時代、京都での小僧生活を振り返りながら綴っている。名文である。基盤にあるのが小僧時代の禅寺での体験であるからして、そこらへんの男の料理本とは一線を画す。

水上勉は9歳でお寺の小僧に出されてる。連想ゲームのように井上道隆(どうりゅう)さんのことが思い出された。道隆さんは、整体協会の資料室で仕事をされていた方で、ひたすら晴哉先生の講義のマスターテープを作っていた。いま僕らが聴くことできる晴哉先生の講義テープは、すべて道隆さんの手を経たものである。僕が出会ったときには、すでに70が近かったはずだ。ときどき、裕之先生の講話の中に出てくる、空手の名人だった晴哉先生の妹の連れ合いである。道隆さんも、小学生くらいときにお寺に出されている。いまの常識からすれば、10歳にならない子供を親元から離すというのは残酷に見えるかもしれないが、戦前であれば、食い扶持減らしに子どもを寺に出すことは、取り立てて珍しいことではなかったはずで、子どもたちも、それを運命として受け入れていたはずである。

『土を喰う日々』の中に道元禅師の「典座教訓」が度々引用されている。道元禅師が南宋に渡った直後、港で出会った老僧とのエピソードは有名だ。20代の末、まだ京都に住んでいた頃、今は群馬に住む友人の竹渕進さんに連れられて亀岡の西光寺という小さな禅寺で僧堂生活を経験させていただいたことがある。当時40代だった住職ー田中真海和尚というーは、全国を托鉢して歩き、禅堂を建てたという方で、多くの若者が出入りしていた。その中には、仏教学者となり、今は早稲田で教えている山部真要さんもいた。僕自身は、座禅は苦手だし、結跏趺坐もできない、冬の寒さが苦手。端から出家するつもりはなかったが、禅の精神の一滴くらいは僕の中に入っているのではないか。今は福井の宝慶寺で住職をされている田中老師とは、30年を過ぎたいまでも交流がある。

お寺に手紙を出すときは、〇〇寺山内〇〇様といったように書く。そんな私が等持院の山門をくぐったなかの、いわば「旧山内」で暮らすようになったのは不思議な縁としかいいようがない。もっとも、この家が立っているところは、映画の撮影所(東亜キネマ等持院撮影所)があったところらしく、昭和のはじめ頃、ここを坂妻(田村正和のお父さんですね)が走り回っていた、などと想像を膨らませるとなかなか愉快でもある。

禁糖中は、普段より真面目につくり、真面目に食べていた。それでも。『土を喰う日々』に描かれている料理に向き合う真剣さに比べると、クックパッドだのみの子どもだまし。これ機に、等持院台所生活を修行として捉え直そうと思っている。そういえば、八百屋の店先にはもう筍が並んでいる。