2017年7月1日土曜日

「その他」の多様性

テーマ稽古をはじめたらで、「稽古場は所詮ダン先生+その他しかいない」と書いてしまった。間違ってはいないが、「その他」で括ってしまってはあまりに雑すぎるのではないかと反省。今回は「その他」の多様性に書いてみようとおもう。

一度、回り稽古に出てみればわかるが(残念ながら私は参加したことがないーきっと修様養講座も同様)、指導者10人いれば、整体の理解のしかたが、文字通り十人十様であることに驚くことだろう。だれも間違っていないことはわかるが、正解がどこにあるかもわからなくなる。間違っているのは、そこに正解があるにちがいないという最初の設問の方で、つまり正解はない。正解は自分でみつけるしかない、そういう世界。ここに至るまでだいたい十年くらいかかる。

ダン先生以外の指導者は、互いに相補的な存在であるともいえる。得手不得手もあるし、興味の持ち方もそれぞれ違う。ぼくなど、下手五人衆のリストに載るくらい下手である。なのに、指導者を名乗っている。下手は自慢すべき事柄でないことは自覚しているし、だからこそ稽古しているわけで、その稽古に付き合ってもらうとで学べることはきっとある。

稽古場がはじまったとき、ダン先生の「僕は僕の稽古をします、あなたたちは僕の稽古に付き合う人です」という表現には驚かされたが、実際、自分が人前に立つことになると、稽古のあり様は、これ以外にないことがわかる。人の稽古に付き合って、それを自分の稽古とするところが、稽古場の眼目なのです。