2019年6月27日木曜日

ソマティックス 3

ソマティックについて書こうとしているのか、片桐ユズル論を書こうとしているのか判然としなくなってきた(笑)

文化によって身体は変わるのか、ほんとうに「日本人の身体」というのはあるのか、というのは大問題だ。整体ではー少なくとも身体教育研究所においてー「ある」としている。一足飛びに普遍的な(科学的医学的生理学的と言い換えてもいいのかもしれない)身体に行く前に、身体を文化的な存在として捉えようとしている。もっというと、科学的身体観というのも今の世界に広がっているひとつの方言(dialect)に過ぎないという立場だ。「英語は世界共通語なんかじゃありませんよ、まず母語をちゃんと学びましょう」、というのが僕らのアプローチと言ってよい。

プロではないけれど、翻訳の仕事は随分してきた。でも、やってみればわかるけれど、母語が貧しいとろくな翻訳は生まれてこないし、自分の無教養さばかりがどんどん露わになってくる。ぼく自身は、翻訳は可能だし、母語以外の言語を学ぶことによって言葉世界が豊穣になるという立ち位置だし、これはもう変わることはない。でも、無教養であるって、なさけないんだ。無教養とは知識の欠如ではない。古典的感覚経験の欠落なのだ。

薄い膜の正体がすこし見えてきた。