2019年11月29日金曜日

11月の読書

記憶する体*  伊藤亜紗 春秋社  2019
「反緊縮!」宣言*  松尾匡編 亜紀書房 2019
天才ニコラ・テスラのことば* 新戸雅章編著 小鳥遊書房 2019
オープンダイアローグがひらく精神医療*  斉藤環 日本評論社  2019
宇沢弘文の数学*  小島寛之 青土社  2018
中世幻妖* 田中貴子 幻戯書房 2010
社会的共通資本* 宇沢弘文 岩波新書 2000
アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した* J・ブラッドワース 光文社 2019

2019年11月26日火曜日

京都映画館事情

自宅で映画を見られない性分である。リモコンが手元にあれば操作したくなるし、怖い場面などあれば、そこで停めてしまう。つまり集中力に欠けている。なので映画は席を途中で立てない映画館という強制力が働く環境下でしか観られない。年取ってよかったことのひとつに映画をシニア料金で観られることで、というか、これくらいしかメリットはないのだけれど、一本1200円。こないだまでは1100円だったから8パーセントも値上がっているのはけしからんと思うのだが、映画の適正価格ってこんなところだろう。

京都に戻ってきて4年になる。主に通っているのはシネコン3軒、ミニシアター3軒。いずれも、バス一本1時間以内にたどりつける距離にある。自転車漕いで行った方が便利な小屋もある。平日の昼間、映画館に行けば、当然のことなのだけれど、観客の年齢層は高い。ぼくもワンノブゼム。面白い映画はミニシアターに多くかかるけれど、できるだけ大画面で観るのが好きなので、シネコンに足を運ぶことの方が多い。今年はとくにハイペースで、一番映画を観ていた十代後半の頃に次ぐ頻度で映画を観ている。それでも、今年観た中で一番面白かったのは1982年に撮られた「ブレードランナー」であり、1968年公開の「ワンスアポンタイムインザウェスト」だったことを思うと、つまり、映画のピークは1960年〜80年くらいに終わってるのではないかとも思ってしまう。

この場所が映画の撮影所だったことを話すと、映画に興味を持っているひとは身を乗り出してくる。このことは、以前書いたのでそちらを参照のこと → 等持院撮影所年譜 https://dohokids.blogspot.com/2016/07/blog-post_5.html  たまに太秦映画村の近くを自転車で走っていると、大型バスが並んでいて賑わっているようだが、いちども足を踏み入れたことはない。でも、太秦界隈を歩くと、映画全盛時代の痕跡があちこちに残っている。昭和レトロな太秦商店街そのものが、映画のセットのようでもある。


2019年11月23日土曜日

お能

知り合いに譲っていただいた観能会のチケットを片手に、生まれて初めてお能を観に行った妻、帰ってきて開口一番、「わたし、お能を習ってみたい」とおっしゃる。来ました。チケットを届けてくれた方の伝手をたどって、そのお能の会にも出ていらっしゃった能楽師の先生を紹介していただくことに。ぼくの古い友人の友人の奥さんが、その先生に習っているというので、付き添いをお願いして稽古見学に。これには僕も随行。稽古場のあるお屋敷に入ると、なんとそこには能舞台。能舞台の横で、先生と生徒さんが差し向かいで謡の稽古をしている。謡に続けて、仕舞いの稽古。これは能舞台に上がる。なんと贅沢な環境。その場で入門をお願いして帰ってきた。初観能から十日目の出来事である。ことが運ぶときは、こんな感じ。とうとう一生ものと出会ったんじゃないかしら。初稽古は二週間後。

2019年11月11日月曜日

冬支度

グリーンカーテンを外し(9メートルにまで育っていた)、
火鉢に炭を入れ、ガスファンヒーターを箱から出してきて、点火を確認する


2019年11月7日木曜日

高度経済成長

経済学の本を立て続けに読んでいる。宇沢弘文を読んでいるというべきか。「資本主義と闘った男」(佐々木実著)は、宇沢の生涯を追いかけた600頁を超える力作。ケインズもマルクスも読んだことのない、経済学の素人にとっては、よき経済学の入門書であり、どのような経済学理がどのような歴史的背景の中で生まれ、それぞれの学理を主張する人間たちが、どのように覇権争いを演じていたか。そして、宇沢自身、これらの流れの真ん中にいた。

高度経済成長期とはどのような時代であったのか。その時代を経ることで、日本人の身体はどのように変容していったのか。僕自身の興味は、ここに絞られてきたようにも思う。日本の高度経済成長期とは、1954年から1973年の間を指すようだが、1952年生まれの僕は、まさに、この高度成長とともに成人したのだ。宇沢弘文は1956年から12年間におよぶ海外での研究生活を終え、1968年日本に帰ってくる。高度成長期の日本を留守にしていた経済学者宇沢の目に、豊かさに踊る日本はどのように映ったのか? 宇沢が目撃したのは豊かさと対極にある国土の荒廃であった。

晩年の父と付き合っていて、その年金額に驚いたことがある。公務員を長年務めた結果ではあるのだけれど、なんで?という疑問は消えなかった。高度成長期を担ったのは、まさに父の世代で、太平洋戦争が終わったときに二十歳くらいだった人たち。どうして、彼らの年金額は、ぼくらが受け取れる額よりはるかに多いのかという疑問に対する自分なりの解釈は、高度成長期を通して、それまで換金することなどできなかった環境・公共物といったものをお金に換えてきたからだというもので、おそらく、大きくは外れていない。この換金できないものこそが、宇沢が経済理論に取り込もうとしてきた社会的共通資本というものに相違ない。

高度成長期が終わったとされる1973年、ぼくは高専を卒業し、同じ年、海外へ飛び出すことになる。この選択は、高度成長によって「豊か」になったからこそ可能となったものでもあった。1ドル300円の時代である。