2020年11月30日月曜日

11月の読書

 手の倫理 伊藤亜紗 講談社新書メチエ 2020

たしかに今月は本あまり読んでないと思ったけれど、一冊だけとは。でも、この本はおすすめです。

来月のこの欄に載る予定の本たち



2020年11月24日火曜日

やまがあるいたよ

千葉に通うようになって、絵本を毎晩のように読む
これを繰り返しているうちに絵本に目覚めてしまった
どれもこれも、SFっぽくて、シュールで、スケールがでかい
なかでも、長新太の「やまがあるいたよ」のスケール感には唸った

今日、5年前に編んだ父の遺句集をパラパラとめくっていたら、
寝返りをうって見せぬか眠る山 (昧波)
という句が目に飛びこんできた
なんと、山に寝返りを打たそうとしているではないか

絵本と俳句
意外な共通点があった

2020年11月21日土曜日

亀岡散歩

今シーズンのうちにサンガスタジアムに足を運ぼうと思っていた。新たに建設された京都サンガFCのホームである。京都サンガの試合は何度か西京極で見ているのだが、J1を狙う力はまだないようだった。いかんせん、ピッチが競技用トラックに囲まれた環境でサッカー観戦というのは興醒めである。今年の京都は、李忠成やピーター・ウタカといった実力派の補強があったから、ひょっとしてと期待したが、結局中位に沈んでいる。来季、湘南ベルマーレの監督をしていた曹貴裁(チョウ・キジェ)を招請というニュースがネットに出ていた。期待できそうだ。対戦相手は徳島。J2 の首位を走っている。おそらく来シーズンはJ1に舞台を移すことになる。若いスペイン人監督は、いったいどんなサッカーをみせてくれるのだろう。ピッチは近いし、お天気は良いし(ちょっと風は冷たい)、あったかいチャイは作ってきたし、いうことなし。練習風景を見ながら14時のキックオフを待っている。

2020年11月20日金曜日

自発の在処

今月の月刊全生に晴哉先生の活元相互運動についての講義が掲載されている。活元運動、相互運動を追求していく過程で発見したことのひとつに、僕らが自発性と呼んでいるものは、自分の内部からの動きではなく、むしろ他所から、外からやってくるものなのではないのかというものがある。出発点を他者、環境と響き合う存在として人間を捉えているのであれば、自発性を中からの動きと呼んでいっこうに構わないのだけれど、近代人たる我々は、この身体を一個の独立した存在とみなしているので、あえて、「自発性とは他者の欲求を動くことである」と言い換えている。 

これまでの活元運動の理解、イメージは、体の奥に生まれた小さな動きが、だんだんと全身的なものに発展していくというものだ。現象的にも体験的にもこの図式は間違ってはいない。この最初の動きのことを自発性と呼ぶ、そのように理解する。しかし、相互運動になると、少し様相が変わってくる。相互運動の原型は活元操法にある。整体協会が社団法人化されたとき、治療を連想させる活元操法を両者坐った形態で行う相互運動に切り替えたと、月刊全生に掲載された講義録(2018年11月号)の中でロイ先生が述べられていた。うつ伏せに寝ている人が坐った状態に移行したわけだ。外形的には、相互運動において後ろに座る人は働きかける人で、前に座る人(活元操法においてはうつ伏せに寝る人)が受けの人であるように見える。しかし、それって根本的な誤解ではなかったのか。

大井町でさんざんやった稽古に「活元運動以前」というものがある。活元運動を稽古化しようと準備運動を動法的、内観的にあれこれ追求していったものだ。そんななかで、従来の活元運動において軽視されていたものとしてふれるときのカタの問題にいきついた。カタに入るということは、自分の意志を極限まで希薄化することで、つまり、カタに入ってしまえば自分で自分の体を動かすことはできなくなる。つまり、止まった状態。そのような集注でひとにふれ、活元運動に入る。すると、動きの源は、自分ではなく、ふれている相手から伝わってくるものであることを体験することになる。活元操法とは、手が勝手に動いて相手の悪いところにふれていくことではなく、寝ているひとの運動欲求をふれている人が代わりに動いていくものであると考えたほうが腑に落ちるのだ。しかも、その方が、ひとりで行う活元運動よりも充足感が生まれる。他者の運動欲求を実現するには、自己完結的=習慣的動きを打ち破る方向に展開していくしかないのだから。

「だっこ」を再体験することで、自分の中で、うまく言語化しきれてなかったものが、すこしまとまった感がある。孫に感謝ですね。ここで一区切り。

2020年11月17日火曜日

Seitai as an Art of Living

だっこ」でつかった、「Seitai as an art of living」という表現に何人かから反応があったので補足。 

 面白いもので、日本語で表現するより、いったん英語にしたほうが、ストンと肚に落ちることがある。「生きる技としての整体」よりも「Seitai as an art of living」のほうが表現としてきれい。もっとも、この場合、最初に英語があって、それを翻訳した風がある。つまり、日本語としてこなれていない。おそらく、「技」という単語と「art」という単語のズレに起因しているのだろう。「技」がより緻密さに向かうのに比べ、artの方には、もう少しあそびがある。 

そんなことを考えているところに片桐ユズルさんがやってきたので、しばし翻訳談義。僕が、artという単語の不思議さに気づいたのは、E・フロムの「愛するということ」を読んだときのことだから、1970年代の前半にさかのぼる。原題が「The Art of Loving」と知ってへぇーと思った記憶がある。一方、ユズルさんが翻訳したいと思っているもののひとつに、A・ハクスリーの「The Art of Seeing」という本があって、むかしむかし、「眼科への挑戦-視力は回復する」というタイトルで邦訳出版されたことがあるとのこと。これでは、いかにもハウツー本と思われてしまう。もし、いま付けるとすると「ものの見方」くらいになってしまいそうだが、いささかインパクトに欠ける。やっぱり、カタカナで「アート・オブ・シーイング」かね〜、とユズルさん。

それはともかく、「生きるためには技がいる」といっても、みんなピンとこない。この技というものは、文化の中で伝承されてきたものであるはずなのに、文化なき民となってしまった僕らの世代のところで、その技は途切れてしまった。テクノロジーがartを駆逐した状態。子どもを育てるにも技がいる。ちゃんと死んでいくにも技がいる。日々の暮らしにも技がいる。野口晴哉の著作の中に、あるいは、僕らがやっている稽古の中には、生きるための技=artが溢れているではないか。僕らが身体教育を謳う所以である。

(追記 ワザとアートという二つの単語によって喚起されるイメージの違いって、結局、音韻的なちがいに遡ることになるのではなかろうか 11/24)

2020年11月16日月曜日

だっこ 2

赤ちゃんにも運動欲求はありーとうぜんですね、その運動欲求を代替するものとしてだっこがある。首がすわりはじめると、その運動欲求はどんどん亢まってきて、見たい方向に首を動かそうとする。動くということは、安定を崩してしまうということで、首を動かすことでいったん崩れたバランスを胴体を動かす事で取り戻そうとするのだが、赤ちゃんは、残念ながら、まだここが自力ではできない。そこからが、だっこしている大人の出番で、バランスが取り戻るようー首の向きにふさわしい胴体の位置に動かしてやる、というか自分の体ごとそっちを向く。赤ちゃんの首のひとふり、大人のワンステップ、といった具合。急いで追いかけてもいけないし、遅れてもいけない。首を右に振ったかと思うと途中で左に戻る、という動きにもついてかなきゃいけない。おのずと、二人でダンスをしている風になっていく。だっこしている大人の運動量と同じ分、赤ちゃんも運動しているのだ、ということが実感される。それにしても、重力に対して垂直を取りたい、という欲求の強さには驚かされる。

2020年11月15日日曜日

石川合同稽古会(続報)

 コロナ禍の影響で8月は開催できなかった石川合同稽古会を再開します。会場はこれまで同じ、湯涌創作の森です。今回は1日3コマの開催になります。遠藤、角南に加え、もうひと方、稽古担当をお願いする予定です。宿泊も可能なので、恒例となった稽古会終了後の湯涌温泉入浴+食事コースは催行の予定です。 

*三人目の担当者は佐藤朋弥(国立稽古場)さんになりました。(11/8)
*1コマ目(13時〜15時)は公開講話とします。未会員の方の参加も可能です(11/15)

日時 2020年12月5日(土曜日)13時〜20時 
会場 湯涌創作の森  
会費 1コマ2000 円 通日5000円 
担当 遠藤日向(金沢稽古会)
   角南和宏(等持院稽古場・白山稽古会)
   佐藤朋弥(国立稽古場)

2020年11月13日金曜日

だっこ

三十年ぶりに赤ちゃんをだっこしている。 
もちろん、これまで赤ちゃんを抱っこする機会は多々あったけれど、生活の一部として抱っこする時間を持つという意味では、やはり三十年ぶりといってよいだろう。 三十年前に比べて、だっこが上手くなっている。えへん。 

生後2ヶ月になって、孫の首の座りはよくなり、仰向けで寝転がっているよりも、抱っこされ、体を垂直にしている状態の方を求めるようになってきた。お兄ちゃんたちが食事しているテーブルに仲間の一員として加わりたがる。 接触はしても、拘束しない抱き方ー言い換えれば、さんざん稽古してきたカタをもって抱けば、赤ちゃんの快を妨げることなくーつまり、赤ちゃんが望む方向に体を向けることができる。赤ちゃんが、抱いている腕の中で寝落ちしてしまうというのは、抱いている側にとっても至福の瞬間で、どのように自分自身を内観すれば眠りが深くなっていくかを探求している。最後のところで、拘束感を少し強くすればーシメの感覚を使うということだがー深い眠りに入っていけるようだ、などなど。 

生きる技としての整体ーSeitai as an Art of Livingーこれは生活のあらゆる場面に適用できるものなのだ。

2020年11月7日土曜日

学ぶということ

1
いまここで、こういうことをしていることの始まりを探っていくと、1973年から75年にかけての海外での経験にたどり着く。岡山の田舎から、ポッとアメリカに飛び、次、インドで過ごし、日本に戻ってきて京都で暮らしはじめた。この数年の間に自分自身が攪拌され、ぐちゃぐちゃにされた。このような状態から、どのように自分自身を再構成していくかという試行錯誤が半世紀近くたった今に至るまでつづいている。つまり、テーマが、その時の自分の能力では解決するに大きすぎ同化吸収できなかったものがライフワークになっていく。きっとそういうことだ。

 2 
もっとも、なにかが毀されるためには、まず毀されるべきなにかが形成されていることが前提になる。ひとはどのように、自分自身を形成していくのだろうか。そのような疑問を抱いていたときに出会ったのが、野口晴哉の育児論。おそらく、この育児論・成長論と出会っていなければ、ここまで整体に深入りすることはなかっただろう。僕が整体協会の事務局で働きはじめたのは1986年のことなのだが、最初に任されたのが、裕之先生の育児講座の受付だった。妊娠期に始まり思春期に至るまでの子どもの成長を、整体的視点で講義された。1日3時間x14日間というマラソン講座だった。 

 3 
身体教育研究所が誕生したのは1988年。当初は整体法研究所と呼んでいた。整体の技術を伝承していくには、なにが必要なのか、それを追求するために設立された。追求には稽古というスタイルが採られた。つまり、「いにしへについてかんがえる」。稽古は、とりもなおさず、学びというものが、どのような過程を経て生成されていくのかの追求でもあったといえるだろう。そして、整体の体っていったいなんなんだ、という問が最初に置かれる。 

 4 
このように、自分自身の半世紀をふりかえってみると、異文化教育ー育児講座ー身体教育という流れに乗って、いまにたどり着いている。もちろん、これは私のたどってきた道筋がそうであったというだけのことで、いま一緒に稽古している人たちは、またそれぞれの流れの中に身をおいた結果、それぞれの今にたどりついたということになる。生きるというプロセスに身体というものが不可欠である以上、身体教育はだれにとっても開かれているジャンルといえる。

 5 
これまで、このブログで書いてきたことは、多かれ少なかれ、上に挙げた事柄とリンクしている、というか一断面を切り取ったものの集合体が、このブログであるといえる。ただ、それぞれの断片がどのように繋がっているのかは見えづらいし、僕自身、ちゃんと見えてなかったように思う。しばらくの間、この断片を繋げていく作業をやってみようと思う。

2020年11月6日金曜日

糸魚川ヒスイ展

盟友、山田修さんが、来週、東京谷中で個展を開くそうです
開催中は在廊とのこと
東京の方は是非