室野井さんの「ダンサーは消える」を読み進めていくうちに、ローマでのワークショップの中で、イタリア人記者/研究者との対話が出てくる。その人-Maria Pia D’Orazi-の書いたものをネットで探してみたら、室野井さんとも繋がりのあった笠井叡についての論稿があり、その中では裕之先生の「The Idea of the Body in Japanese Culture and its Dismantlement」の論文にも言及されている。論文のタイトルはなんと「Butoh Training and the Quantum Body」。やっぱり、こういっちゃうんだと、妙に腑に落ちた。
身体教育研究所の前身となる整体法研究所が設立されたのが1988年。それとほぼ同時に、「内観法」という言葉が生まれ、それに対峙する言葉として、「客観法」という言葉が置かれた。当初は、なんとも身も蓋もない言い方だなあ、という印象だったが、こうして、30年以上稽古していると、内観と客観という対比のしかたは、やはり正しかったのだと思う。内観法に代わる、つぎなる名称も考えられているらしい。
身体観を取り替えるというのは一朝一夕でできることではない。稽古稽古で、いってみれば、デカルト=ニュートン的古典物理学思考から、量子力学的思考へ頭の中を切り替えようとしているわけだ。現実世界は、前者を前提として組み立てられているから、いっとき後者的経験をしても、あっという間に、前者に引き戻されてしまう。この繰り返し。僕のように中途半端な者にとっては、これが腑に落ちるまで長い道長い道のりだった。一度腑に落ちると、なんだこんなことだったのかと思うだけで、特段、達成感があるわけではない。これまでやってきた稽古の意味が「わかる」だけ。これで、やっと出発点にたどり着いたということなのかもしれない。
英語で書かれた論文を読んでいると、身体の活動をどのようにデカルト=ニュートンから離れて表現しようとしているか、その苦労のあとが読み取れて興味深い。量子力学の援用にはアナロジー以上のものがあると思っているけれど、キワモノに堕す危険性を常に抱えている。今年も、バラッド「宇宙の途上でで出会う」を読み進めていくことにしよう。