2024年4月26日金曜日

your夜学

第一回目のyour夜学、無事終了。
参加者は11名で、うち等持院稽古場関係者が5名もいたので、アウェイ感はあまりなし。
等持院稽古場は、ずっと個人教授中心でやってきたから、横の繋がりはあまりない。なので、一昨日のyour夜学で初対面というケースもあったりする。僕の話が終わったあと、にんじん食堂さんに作っていただいた弁当をみんなで食べるという光景も新鮮だった。

話は総論で終わってしまった。
稽古らしきものもひとつ入れたが不発。
録音しておくつもりだったのに、緊張していたせいか、鞄から取り出すのを忘れていた。
次回5月22日(水)は、「体力とは」という話をしますと予告。
2回目からでも参加できます。

2024年4月25日木曜日

身体観の変遷

 これまで、身体観の変遷という話をする時に、「明治維新」「経済高度成長期」の二つを画期としていた。ところが、今回、外で話をすることになって、あらためて身体教育研究所の30年を振り返るなかで、この30年もまた、身体にとってとんでもない時代であったことに気づくことになった。

 ウォークマンの出現したのは、僕が留学生関係の仕事をしていた1980年の前半(初代発売は1979年)のことなのだが、学生と連れ立って出かける折、歩きながら、あるいは電車の中でウォークマンに聞き入っている様は、異様に思えたし、せっかく海外の地に身を置きながら、周囲の出来事に注意を払わないとは、なんともったいないことかとため息をついた覚えがある。

 そこから、時代はPCが跋扈する時期に突入し、さらには携帯電話、そしてスマホと移ろっていく。もはや、で電車の中でスマホ画面を眺める人間が多数派を占め、歩きスマホという言葉が出てくるくらい、人は、自分の周囲に注意を払わなくなってしまっているのだ。

ここ40年の新製品、新サービスの出現を時系列で並べてみると、こんな感じ。
1979 ウォークマン登場
1981 pc-8801販売開始
1986 ニフティサービス開始
1994 インターネット
2000 携帯電話
2007 iPhone登場

 僕自身、新しもの好きの元電気少年だったから、なんだかんだといって、テクノロジーを追いかけてきたし、仕事でも率先してパソコンを使ってきたから、目くそ鼻くそを笑う体なのだが、稽古することで、かろうじて体を失くさずにここまで生き延びてきたとも言えなくもない。ここからは、「便利」をひとつひとつ手放していくしかない。

2024年4月23日火曜日

1974年4月

 1974年3月を振り返るはずだったのに、気がつけば、もう4月の下旬ではないか。3月は飛ばして、まずは、半世紀まえの4月を振り返ることにする。

 フィールドプロジェクトは三ヶ月と定められていて、学生たちは、4月にはニューヨークのキャンパスで再集合する。しかし、自分は、三ヶ月でここで何を学んだというのだ。やっと、子どもたちとの関係ができあがってきたばかりではないか。もう少し、ここに留まりたい。アドバイザーに連絡し、こちらの希望を伝え、サンタフェ滞在を学期が終わる5月末までのばしてもらうことにした。4月の再集合(evaluation period)の代わりに8月にある編入生のためのオリエンテーションに参加すればよいとの許可も得た。

 4月前半は、こんなかんじ。

4月1日santa feu.s.a.料理当番 すきやき
4月2日santa feu.s.a.
4月3日santa feu.s.a.
4月4日santa feu.s.a.
4月5日santa feu.s.a.
4月6日santa feu.s.a.
4月7日santa feu.s.a.
4月8日santa feu.s.a.フィールドトリップ Rio Grande Zoo
4月9日santa feu.s.a.
4月10日santa feu.s.a.
4月11日santa feu.s.a.
4月12日santa feu.s.a.イースター休暇
4月13日santa feu.s.a.


 4月半ばでイースター休暇に入る。学校もしばらくお休み。この期間を利用してメキシコに出かけることにした。以下は、十年前に書いた記事。

1974年4月 To Mexco

2024年4月17日水曜日

【予告】能登半島地震被災者支援 輪島漆器展示頒布会

 糸魚川市在住の山田修さん(ぬなかわヒスイ工房)は、2月から能登半島地震の被災地支援に継続的に入っています。その支援活動の中で出会った被災者の一人から、災害関連ゴミとして処分される寸前の輪島漆器を大量に預かることになりました。ただそれを代行販売して義援金とするには、法的問題をクリアするとともに、膨大な労力が必要とされました。その活動を側面支援するため、今回、山田さんが販売にこぎつけた輪島漆器を等持院稽古場で展示販売する機会を設けることにます。売上金は全額、義援金として器の持ち主に手渡されます。


【日時】 5月を予定しています。詳細が決まり次第、あらためて告知します。

【場所】 等持院稽古場

【問い合わせ】 等持院稽古場・角南(すなみ)まで。


ぬなかわヒスイ工房 (https://nunakawa.ocnk.net/)から通販での購入も可能です


糸魚川タイムズに掲載された山田さんの記事 https://j-times.jp/archives/57703




2024年4月15日月曜日

マンサンダル

 ベアフットランなるものをやっている稽古仲間に教えられたマンサンダルを試している。無論、お遍路に使えないだろうかという目論見による。こんな薄いシートでコンクリートの硬さに対応できるのかという疑念はあったのだが、これを履いてー主唱者は纏うという言葉を使っているー歩いてみるとすこぶる良好。

 足の裏全体が感覚器となって、体全身で衝撃を吸収している。二重曲面の下駄に近い感覚だ。ともかく軽い。測ってみたら両方で100グラムに満たない。歩きながら、ほんと履いているのか時々足元を見てしまうくらいだ。体重50キロを移動させるためには、かなりの負荷がかかるはずだが、その負荷を分散させるには、足自体を細かく割っていくことが求められる。脚が喜んでいる感覚はある。

 第一号はオーダーしたのだが、第二号は自作することにして、さっそく素材を買い揃えてみた。あとは革細工用に使うポンチがあれば準備完了だ。

 以下は自分用メモ。ビブラムシート 8338 、 パラコード 7 strand core 550 4mm




2024年4月13日土曜日

稽古日程 2024年4月〜5月

等持院稽古場4月5月の稽古日程です。

等持院稽古場での集団稽古は以下の通りです。予約制です。
・公開講話 4月13日 5月3日 6月1日 7月6日 土曜日 
 11時〜14時 会費3000円
・筆動法 5月18日(土)14時〜17時 会費3000円

4/24 、5/22、6/19    水曜日 18時30分〜 
Your夜学 からだをなくした現代人のための身体教育論

 4月7日 5月12日 6月9日 7月14日 8月4日  いずれも日曜日
 10時〜13時 会費3000円 

下記カレンダーが最新です。このカレンダーが表示されない場合、ブラウザを変更すると上手く表示される場合があります。



2024年3月30日土曜日

3月の読書

茶の湯の冒険 森下典子 文春文庫 2024
オッス! 食国* 小倉ヒラク 角川書店 2023
MOCT 「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人*  青島顕 集英社 2023

2024年3月27日水曜日

遍路2024 その5

単調な国道をてくてく歩いていると歌が生まれてくる。
それとも、いつかどこかで聴いたことのある曲を口ずさんでいるのか。
Keep on walking, keep on walking,
You’ll be get there, 
Some time soon …
単純な歌詞をリフレインしてメロディーを変えながら繰り返し歌う。
ほとんど、70年代フォークのような歌詞が英語で出てくる。

歩き続けることで、詩が生まれる。
胸で芽生えたかすかな感覚が腹におり、腰に動き、
背中を上がって、首を通り抜け、口から言葉となって現れる。
なんだ、頭なんてなんもしてない。

歩き続けることで、人は哲学者にもなる。
-
体験と消費の違い。
体験によって人は変容する。
消費する人は変わらない人だ。
-
なぜ歩くのかと訊くのは愚問だ。
道があって、昔から多くの人がこの道を歩いていった。
何を想いながら、その人たちは歩いていたのだろう。
そんなことに思いを馳せながら歩く。

↓ 今回の唯一の写真。小雨の足摺岬。



2024年3月24日日曜日

遍路2024 その4

遍路の一日はシンプルだ。
朝6時前に起き出して出発の準備。
6時半、7時くらいに朝食をいただいて、7時過ぎには歩きはじめる。
お昼は、どこかのコンビニ、道の駅、スーパーなどに立ち寄って軽く食べる。
3時には宿に着いて、4時〜5時くらいに入浴。
洗濯がある場合には、この時間に並行してやっておく。
遍路宿の場合は、6時半くらいから夕食。
食事がつかない宿であれば、外に食べに行く。
7時には、もうやることがない。

部屋にテレビが置いてあれば、普段は観ないテレビを点けるが、観たい番組はない。
久しぶりに大相撲を観たが、数年見ないうちに力士の顔ぶれがガラッと変わってしまった。尊富士とか大の里とか、若手の力士が出ている。
ニュースを見ても、まるで遠い世界のことのようだ。
遍路とはいえ、出家者に近い感覚になっているようだ。

10時には布団に入る。
2時間おきくらいに目は覚めるのだが、その都度、脚の疲れが抜けていくのが実感される。いつもとは違ったレイヤーの夢をみる。それだけ、深く眠っているということだろうか。
目覚ましを6時前にセットしていても、必ずアラームが鳴る前には目覚めている。

さて、今日も歩こう。

2024年3月23日土曜日

遍路2024 その3

1日25キロ歩く。おそらく、これが今の自分の適正移動距離。江戸時代の旅日記などを見ると、皆、一日八里32キロを普通に歩いていることを思えば、僕はまだまだひ弱な現代人だ。健脚の人もいる。どこかの宿で一緒だった82歳だという男性など、もう20回も八十八ケ所回っていて、今回は28日で歩く計画だという。1日40キロにもなるではないか。なんか記録に挑戦しているアスリートのよう。

僕が遅速であることは間違いないのだが、その原因が休憩を取りすぎる点にあるのだと気づいたのは、歩き始めて4日目くらいのこと。1時間歩いて10分休んでいたのでは、平均移動速度は上がらない。そうか、もっと長い時間歩き続ければよいのだ。歩みを止めれば体が休まるかというと、あまり関係ない。一旦休憩してしまうと、そこから元の速度に戻るまで、時間が取られてしまうのだ。それからは、休憩の回数を減らしてみることにした。

歩く体になるまで5日くらいかかる。区切り打ちの場合、歩くことに慣れたなと思うころには、もう帰る日が近づいている。おそらく、通し打ちでないと見えてこない風景というのもあるに違いない。

2024年3月22日金曜日

遍路2024 その2

遍路が歩く道には大まかにいって3種類ある。
ひとつは国道。つまり、車が走ってる脇を歩く。もうひとつは旧道。住民の生活道路。もともと車もいっぱい走ってた道なのだろうが、新しい道路ができて車の通行量は少ない。そして、昔ながらの遍路道と呼ばれているもの。多くは峠越えの山道で、昔の名残りをとどめている道だ。多くは土の道だが、中には整備されて砂利やコンクリートが敷かれているものもある。

遍路として歩く距離は、圧倒的に国道が多い。おそらく8割くらい。旧道と遍路道はそれぞれ1割くらいではないだろうか。9割くらいはコンクリートの道を歩くことになる。これは脚にとっては結構な負担になる。やはり、コンクリー道は車のためのものだ。車道を歩くときは、できるだけ側溝の上を歩く。足の下に空気の層があるだけで脚の感覚は随分と違う。車道から一段高いところに歩道を設けているところもあるが、この歩道が曲者で、走っている車から身を守るには有効であるに違いないのだが、歩道自体の中に小さなアップダウンが形成されていることが多く、これは脚への負担を増す。

長いトンネルを歩くと、文明の暴力性を体感することになる。今回、一番長いもので1.6キロのトンネルを抜けたが、苦行以外の何ものでもない。ゴーゴーと重量感のある音が前後左右全方向から襲ってくる。シュシュシュシュという高速回転するタイヤがコンクリートを削る音が加わる。どうして、そんな重い乗り物が、どうしてそんなに急いで、いったい何を運ぼうとしているのか。現代文明の強迫症がダイレクトに伝わってくる。

今回は、高知市から足摺岬まで歩いた。帰途は、その同じ道をバスと電車で運ばれていく。窓の外の風景を眺めながら、時計の針が逆回転していく。やだな。

2024年3月21日木曜日

遍路2024 その1

3年目に入った四国遍路、高知市内の雪蹊寺から足摺岬を目指す。
脱Googleマップが今回のテーマのひとつ。スマホの画面見ながら歩くというのは、かっこ悪い。とはいえ、連絡用のスマホは携帯しているから、100%脱Googleマップとはいかなかったし、最近は、お遍路アプリというのもあるようで、それを頼りに歩いている外国人お遍路さんに道を教えてもらうことも一度ならずあった。持参したスマホのカメラはしょぼくて、今回、写真もほぼ撮らず。

モンベルで決めているお遍路さんが多い。僕にしても、リュック(十年前に購入したもの)に、ポンチョと帽子はモンベル製だ。たしかに、荷物の軽量化を考えると、山歩きスタイルに落ち着く。荷物を軽くするには、まず衣類を減らすことが近道で、一日歩き、宿に着くやいなや、浴衣に着替え、着ていたものは洗濯機に放り込み、その後乾燥機に入れてしまえば、翌朝には同じ格好で出発できる。合理的だ。僕のような稽古着スタイルは、ちょっと中途半端。稽古着姿で歩き、宿に着いたらラフな洋服姿に切り替えるというのは、みなさんと逆。今回の土佐路は温度変化が大きく、朝7時に出発する時にはダウンのベスト、ジャンパーを着込み、陽がさして身体が温まってくると脱いでいく。稽古着と洋服を重ね着するという、この折衷が不愉快。稽古着用のアウターを考えなくてはいけない。

何回かに分けて、今回の遍路旅を振り返ってみることにする。

2024年3月20日水曜日

身体論講座

4月からご近所のシェアキッチンで「身体論」の講座を始めます。
座学ってやったことがないので、はたしてどういう展開になるのやら。
身体論といっても、「極私的身体論」になることは必定。
今日(3/20)、プレトークをする機会があったのですが、2冊の本を持参し、「私の話は、この2冊の本の間を往き来することになるでしょう」と予告して来ました。一冊目はエリック・カールの『はらぺこあおむし』(偕成社)、そして、もう一冊が田中聡の『身の維新』(亜紀書房)です。



2024年2月28日水曜日

2月の読書

ほびっと 戦争をとめた喫茶店 中川六平 講談社 2009
 はじめて岩国に行ったのは1977年のことで、韓国の労働運動を支援するアメリカ人運動家にくっついてソウルに向かう途中だった。そこにもうほびっとはなかったけれど、セレンディピティという喫茶店があったと記憶しているのだが、定かではない。舞台になっているのはベトナム戦争末期の基地の街岩国。ベ平連も活動拠点として作られた喫茶店のマスターとして大学生の中川六平くんが京都から移り住むことになる。奮闘記であり挫折記でもある、70年代前半の空気が活写されている。著者中川六平氏(1950-2013)の「いちご白書」。

中井久夫 人と仕事* 最相葉月 みすず書房 2023

スノードロップ* 島田雅彦 新潮社 2020
 島田雅彦 とか平野啓一郎 とか文壇に連なってそうな有名どころの人たちの書いた小説って読んだことがない。たまたま図書館の返却ラックに並んでいたので借りてきたこの「スノードロップ 」、皇室を舞台とする思考実験的な小説なのだが、意外に面白かった。直近で天皇制が危機に瀕したのは安倍政権の時代であったが、この時期の皇室の置かれた状況をうまく小説化している。最後はアメリカ大統領まで登場させるドタバタ喜劇風になっていく。スノードロップ妃にはもっとダークヒーローとして活躍してほしかったな。

天路の旅* 沢木耕太郎 新潮社 2022
犬橇事始* 角幡唯介 集英社 2023
 一人の男はグリーンランドの氷原を犬橇で四苦八苦しながら走っている。もう一人の男は、80年前、ラマ教の巡礼僧に扮して中国奥地の砂漠地帯を駱駝と共に歩き、チベットからインドへヒマラヤを徒歩で超えていった日本人密偵の足跡を辿っている。両者スケールデカすぎて目眩してくる。

身の維新 田中聡 亜紀書房 2023
 どのような医学こそが「国民という身体」を作るのによりふさわしいのか。明治政府が国家モデルを西欧列強に求めた時点で、漢方、皇医道に勝ち目はなかったということか。しかし、国家が強いる身体観からはみ出たものこそが「身体」なのだ。田中聡 さんの代表作になるかもしれない。

2024年2月27日火曜日

十三佛行「種袋」

来月3日、「片桐ユズルさんを偲ぶ会」をやるという。
やるというか、実行委員会に組み込まれていて、準備段階から関わっている。

この会を前に、ユズルさんに縁のある連句仲間三人で十三佛行
をやろうということになり、今月に入ってから巻きはじめた。
歌仙に比べ短いものなので、十日ほどで巻き上がった。

なかなかよいものが出来上がり、「種袋」の巻と名付けることにした。
せっかくだから「偲ぶ会」で皆に配るのはどうだろうと提案したところ、賛同を得た。最初は、コピー用紙に印刷してペラで渡せば良いだろうと考えたのだが、当然のことだけど安っぽい。せっかく配るのであれば、少し厚手の紙に両面印刷して、それを二つ折りにすれば冊子っぽくなるのでは。どのフォントを使おうか、サイズはどうしようか。紙の色はどうしよう。こういう作業は楽しくて、最後の折りの作業も、また楽しい。

連句の先生まで巻き込んで進めるうちに、先生の息子さんがかつて「ほんやら洞」でバイトしていたということまであらわになって驚いた。当日は、この十三佛行をベースに、頼まれているスピーチをやるつもりだ。


予告 身体教育講座

座学 からだを失くした現代人のための身体教育講座

    野口晴哉の整体育児論を参照軸にして


 これから結婚するという人がいたので、ちょっと気が早いとは思ったけれど、お祝いに晴哉先生の「育児の本」を差し上げようと本棚を探ったら一部も残っていない。出産間際で駆け込んできた方に譲ったばかりだった。整体協会の本部に問い合わせてみたら、なんと在庫切れだという。これは困った。


 であるならば、自力で育児講座をやるしかない。僕自身の子育ては1988年、娘が生まれたときにはじまる。稽古場が始まった年のことで、整体の稽古と子育てが並行して進んでいった。幸か不幸かーいやまったく不幸な出来事が始まりだったのだがー数年前から孫育てに図らずも深く関わることになり、それは今も進行中である。そこらへんの体験もふまえ、もう一度、子育てについて考えてみようと思う。


 野口晴哉の育児論では、ヒトが成長するとはどういうことなのか、ヒトが体験し学ぶとはどういうことなのか、そのあたりの根源的なものが説かれている。ならば、育児の現場にいる人のみならず、体を失っているーつまり、からだとの付き合い方がわからなくなっている多くに人にとっても有用な話になるのではないのか。今回、あえて稽古場を出て、近所の喫茶店の片隅をお借りしてはじめてみようと思う。座学でどれだけのことを伝えられるのか、不安である。


 日時 4月24日(水) 夜(時間は確定していません) 

 会場 スウィングキッチンYour 右京区龍安寺衣笠下町29

 会費 未定       

2024年2月11日日曜日

禁糖2024

禁糖前半戦終了。
今年はなぜか肉食系に変身。
毎日のように肉買ってきて食っている。
一昨日は、普段買ったことにない鶏の骨付きもも肉を焼いて齧りつき、
昨日など、カセットコンロの上に鉄板を載せて一人焼肉。
ちょっと胸やけしてしまった。
糖分を油で補おうとしているのだろうか。
菜食の連れ合いは、ひたすらチーズ。
いつものことだが、量に対する「適」がまだ大雑把すぎるのだ。
さて、あと一週間。

2/9 
禁糖明け。さっそくザッハトルテの箱を開け、8分の1に切り分け皿に載せる。フォークでひと口食べる。美味い。ふた口目を食べる。おいしい。三口目を口にしたところで、首をかしげる。もう、これ以上食べられない。一切れのまだ半分も食べていない。なるほど、度合いを知るとは、そういうことなのだ。砂糖はすぐにエネルギーになるとは知っていたが、確かにその通りだ。飢餓感は雲散霧消し、食事の量は半減。渇望していたコーヒーも一回飲むと充足し、また紅茶中心に戻る。わが家の主たる食事はもともと禁糖食であることを確認。さて、この度合いに対する感受性は、どれくらい保持されるだろうか。

2024年2月8日木曜日

ザッハトルテ

 禁糖がもうすぐ明けそうという2月7日、郵便屋さんが海外からの小包を届けてくれた。ずっしりと重い。差出人は、先月、僕のところを訪ねてきたオーストリア人女性。鮮やかな包装紙を開けると木の箱が現れる。そして、その箱の蓋を開けると、でかいチョコレートケーキ。本家ザッハトルテ! 添えられていたメッセージカードには、「早めにお食べください」とある。そんなこと言ったって、まだ禁糖明けてないのだ。

 その女性が訪ねてきたのは1月の半ば。どのように、僕のところにたどり着いたのか不明なのだが、東京でダン先生とも面会したとのことだったので、整体協会を知る人が間にいることは間違いがない。ヨーロッパで活動していたキシさんという治療家に師事していたことがあり、ウイーンで開業しているという。ちょっと聞き齧っただけで、すぐに自分の仕事に使おうとしたり、野口晴哉の弟子を名乗ったりという手合いは洋の東西を問わず多い。なので、ちょっとお茶を濁すつもりで、かといって誤解されることは極力避けるように対応していった。

 そういえば、ドイツ人の知り合いは大勢いるが、オーストリアの人って会うのは初めて。中身の詰まった体が現れるのかと思いきや、意外に柔らかい。はじめてきた人と必ずやる、指に集注する、指の間の空気に集注するといった稽古から初めてみた。

 話が通じる感じというのはなんだろうね。英語を共通語として会話していくのだけれど、通じる感がある。ノンバーバルなものに対する感覚がちゃんと育ってる人だったから、僕の拙い英語であっても、十分理解してもらえたのだと思う。2時間ほど稽古したら、次の日も来てよいかという。2日目終わったらもう一日。なんと3日間連続で現れた。ほんとは会員外指導はしちゃいけないことになっているのだが、乞われたらnoといえない。

 海外における整体の伝播の仕方って不思議。そもそも、整体協会がコントロールできる類のものではない。晴哉先生の時代に津田さんがフランスで、眞峰さんがスペインで、それぞれ活動を始め、そのあとには竹居さんがドイツで始める。その他にも、いろんなかたちでヨーロッパには入ってるはずだ。いつか事務局にスウェーデンの人がやってきて、「スウェーデンのインテリはみんな活元運動をやってます」と話していたという逸話ーそんなわけねぇだろうーがあるくらい。以前なら、そりゃいかんだろうという整体協会的な考えを僕もしていたのだけれど、いまはもう、「勝手に進化しろ」という意見である。

ああ、禁糖明けが待ち遠しい。



スマホは必要か? 続き

12月にスマホは必要か?という文章を書いた。
ひょっとして、このまま脱スマホも可能ではないか、とも思った。

が、結論からいうと、スマホは使い続けている。
緊急連絡用に携帯はあった方がいいだろう。
最近は、認証のためショートメールを使うサービスも増えてきた。
スマホによる電子マネー利用を強引に推し進めているコープの戦略にも抗しきれない。

となれば、挙動不安定なiPhoneを諦めるしかない。
つなぎとして、ネットの中古専門店で見つけた rakuten miniという超小型のAndroid端末を試してみることにした。

はじめてのAndroid端末。余分なアプリはどんどん削除して、通話とメールとメッセージ専用の端末にしていった。ともかく軽くて小さい。胸ポケットにすっぽり入るくらいの大きさ。心配なのは電池の持ちだが、待ち受けだけなら2日くらいは大丈夫そうだ。でも、アプリを使っていくと、電池残量はどんどん減っていく。これで緊急用になるのか?

Android端末を使うということは、Googleのエコシステムに加わるということで、これまで、どれだけAppleの便利すぎる、つまり依存したエコシステムに組み込まれてきたのかを思い知らされる。しばらく、このRakuten mini + povo 2.0 という組み合わせでやってみることにする。はたしてこれだけで、来月再開予定のお遍路で困ることはないのか、それが問題だ。



2024年2月5日月曜日

1974年2月

 僕にとって、「書く」という行為が習い性になってしまったのは、FWCでのジャーナルライティング(journal writing)をやり続けたいせいだ。おそらく、このブログも、その延長線上にある。それだけでも、FWCには感謝すべきなのかもしれない。

 数カ月の間キャンパスを離れ、学生はそれぞれのフィールド・プロジェクトに出向いていく。そこでの経験をジャーナルと呼ばれていたレポートにまとめ、毎月、本部キャンパスにいるアドバイザーに送り、フィードバックをもらう。フィールドプロジェクトを終えキャンパスに戻ったら、それをひとまとまりのレポートにまとめ上げる。このジャーナルに加え、アドバイザーによる評価、フィールド先の担当者による評価、そして自分自身による評価。それらが総合されて「単位」を取得していくシステムであった。

 体験学習をどのように評価していくのかは難しい。それを大学という枠組みでやろうとしていたFWCそのものが、「実験的」存在であった。大学を名乗りながら、泳げない子をいきなりプールどころか、流れのある川に放り込むような乱暴なプログラムであったともいえる。アカデミズムにはアカデミズムのカタというものがある。カタのない大学は可能なのか。学生の間でも意見は真っ二つに分かれていた。つまり、「大学は何もしてくれないではないか」という不満派がいて、他方、「これだけの自由が与えられてありがたい」という肯定派もいたわけだ。

 この年の8月に提出したジャーナルのコピーが手元に残っているのだが、思いの外、しっかりした英語で書かれているので驚いた。作文レベルでいえば中3程度のものなのだと思うのだが、ちゃんとしたものだった。持っていった辞書は研究社の英和和英小辞典一冊のみ。この辞書は旅の供となり、皮の表紙がボロボロになるまで使った。

1974年2月 Santa Fe

2024年2月3日土曜日

追悼 橋松枝さん

橋松枝さん ご逝去 享年88歳
稽古場草創期期からの稽古仲間であり、私にとってはお茶の手ほどきをしていただいた先生でもあった。稽古場がはじまったのが1988年、その時、橋さんはすでに五十代だったはずだが、あの怒涛の動法時代を一緒にくぐりぬけてきた。ご冥福をお祈りします。

お茶

2024年1月31日水曜日

片桐ユズルの字体

 片桐ユズルが1967年から1992年までの25年に渡って発行していた「かわら版」のデジタル化が3年がかりで完了した。資料化をはじめたはよいが、本体が見つからず、5年分を残したままになっていた。ところが、年が明け、歴史的資料としての「かわら版」に興味があるという研究者と出会い、あらためてユズルさんの書庫から引き揚げてきた資料を再チェックしているうちに、1974年から1979年の欠番部分を見つけてしまった。3月3日に片桐ユズルを偲ぶ会をやる予定にしているのだが、このタイミングで出てきたかと驚いている。

 「かわら版」の特徴といえば、ほぼ全部、片桐ユズルの手書きによって作られている点が挙げられる。1980年代に入ると、ワープロ文字も増えてくるのがが、それまでは基本手書き。活字の部分というと、新聞の切り抜きで、手書きと活字のコントラストが、とても面白い。ユズルさんの字はちょっと丸みをおびたやさしい字体で、ペンの太さもロゴ、見出し、本文と、それぞれ違ったペンを使い、とても読みやすい。あれこれ工夫していたことがよくわかる。

 ともあれ、デジタル化した資料は、チラシ等も含め計1883頁。われながらよくやったものだ。




 

2024年1月28日日曜日

読書ノート 201401

私のものではない国で* 温又柔  中央公論社 2023

ヘルシンキ 生活の練習* 朴沙羅 筑摩書房 2021
 今年最初の一冊。図書館で予約してから手元に届くまでなんと16ヶ月。3年越しの予約。これはこれまでの最長待ち時間。図書館で本を予約するときには、所蔵冊数と予約数を見れば、大体、いつくらいに届くか見当がつけられる。半年待ちで本が届いて、一気読みして三日後に返却というパターンも多い。つまり本によって回転速度が違う。この「ヘルシンキ生活の練習」は、そういう意味で回転が超ゆっくりだった。手にとってみて合点がいった。これは手元に置いてゆっくり読みたい本だ。返却期限がきても、あと何日か延ばしたくなる気持ちもわかる。保育園に入る権利が保護者である親の労働状況に紐づけられている日本と、子どもの教育を受ける権利に紐づいているフィンランド。つまり保育園の位置付けがはなから違っている。このような社会に小さな子ども2人と一緒に分け入っていく極私的フィールドワーク。

イラク水滸伝* 高野秀行 文藝春秋 2023
 高野秀行 はどんどん「探検家」から「学者する探検家」にシフトしてきてる。もちろん褒め言葉。イラク水滸伝 は、イラク南部に広がる(年々縮小)湿地帯に入り込み、舟を作り葦の生える水路を移動し、人類最古ともいわれるシュメール文明と現代との連続性に思いを馳せる。反国家というか脱国家の民が生きてきた湿地帯のありようは、インドシナ山岳地帯のゾミア を彷彿とさせる。そういえば、この地域もまた高野の縄張りではないか。

狩りと漂泊 裸の大地* 角幡唯介 集英社 2022
 冒険家は極寒のなか、犬と共に橇を引きながらひたすら哲学する。なぜ43歳(当時)のオレはここにいるのか。哲学するとは、ひたすら言い訳を考えることなのだ。日本で待つ妻子を心に想いながら。その女々しさ(今どき、この言葉を使うと性差別的だと糾弾されるのだろうか?)が読者の母性(僕にも母性はある)に響く。

2024年1月22日月曜日

好調不調低調

年の瀬によりによって仙椎をしたたかぶつけた。
以来、自分が好調なのか不調なのか低調なのか、そのあたりの分別がつかなくなっている。

年末、娘が男の子三人連れて来京。
まあ、賑やかな正月になったのだが、ある日、孫3人のやりたいことが分裂し、僕は、結局、小1の長男と一緒にアイススケートに行くことになってしまった。

30年ぶりのスケートである。娘が小さい頃、こどもの国のスケートリンクに行って以来。リンクの外から見ているという選択肢もあったのだが、好奇心が勝り、大枚4000円を払い、小1男子と一緒にリンクに立ってしまった。三周くらい、手すりの掃除をした後、こわごわ手すりを離して歩き始める。膝を抜いて、後ろ足で蹴ると、前に進む。孫の相手をする余裕はない。前に進んでいくと、なぜか、どんどん手すりから遠ざかっていく。2周3周滑っていくうちに、真ん中近くまで進出してしまった。

リンク掃除の中断があり、その後、もうひと滑りしようと小1男子と一緒にリンクに入る。凸凹が削り取られた氷はツルツル。相変わらず、前足は止め、後ろ足で蹴るスタイル。転ぶこともなく順調に滑っている。また知らぬ間にリンク中央に出てしまっている。そこに、初心者と思しき二人組が接近して来たので、その人たちを避けようとして、見事に転んだ。氷って、こんなに硬かったけ、と空を眺めながら思った。仙椎をしたたか氷に打ちつけた。それでも、面としてぶつけたから、衝撃は最小限のはずだった。

うん、この打撲だと、一週間は風呂無理だなと、尻をさすりながら家路につく。実際、大晦日正月をはさむ一週間風呂無し。こんな正月は初めてだ。元旦に能登で大きな地震が起き、京都もしっかり揺れた。被災地にいる人たちのことを思えば、風呂に入れないくらいなんだ。年明けて、孫たちは千葉に帰り、今年の初風呂は5日。体が温まるのはよいのだが、翌日になると仙椎周りが疼きはじめ、まだ風呂は早いと警告してくる。実際、入浴せずとも、それは苦にならない。

稽古会もはじまり、普通に仕事して、普通に白山稽古会もこなしてきた。打撲の影響は思いのほか長引いていて、この調子だと半年一年付き合うことになりそうだ。去年の秋の大風邪、年末の打撲といろいろ起こる。そうしているうちに暦は進み、禁糖の季節到来である。

好調?不調?低調?
そんなことはどうでもよろしい。

2024年1月8日月曜日

1974年1月

1974年の新年を僕はニューメキシコ州サンタフェで迎えた。
と、ここまで書いて、同じ文章を十年前に書いていたことを思い出した。
まったく懲りないというか、進歩がないというか、我ながら情けない。
それでも、十年前より今年の方が、「あれから半世紀!」という意味では懐古のしがいがありそうだ。なので、懲りずに十年前の企画を続けることにする。そもそも、10年前の2014年の8月という暴風雨が襲う直前のタイミングで、このような文章を書こうと思い立ったのか、今となっては謎である。今年一年かけて半世紀前の一年間を振り返ってみようと思う。すでに書いたものは、そちらにリンクを貼り、書き足りてないものは、新たに付け加えることにする。

1974年-序 why 1974?

1974年1月 Santa Fe


 十年前の文章を読み返してみて、「なんでサンタフェの地に降り立ったのか」という説明がない。なので補足します。

 工業高専を卒業したのが1973年の春。その半年後、僕はFriends World Collegeというクェーカー(Friends Society)が立ち上げた小さな大学のニューヨークキャンパスにいた。3ヶ月のオリエンテーション、3ヶ月のフィールドワーク、そして、キャンパスに戻って2ヶ月のまとめ、レポート提出。一年間をこのように区切ったカリキュラムが組まれていた。最初の3ヶ月は悲惨そのもので、ただただ英語と格闘していた。課題図書として、フレイレの「Pedagogy of the Oppressed」、イリイチの「Deschooling Society」、デューイの「Experience and Education」をポンと渡された。日本語で考えることができなくなっていく。なのに英語は出てくる気配はない。言語の空白地帯を彷徨っていた。

 第二期のフィールドワークは、学生各自の関心に応じて、学生たちはアメリカ国中に散らばっていく。今でいうインターンのようなものか。僕をボランティアとして受け入れてくれたのがサンタフェにあるSanta Fe Community Schoolというフリースクールだった。キャンパスでの寮生活もカオスであったが、サンタフェで待っていたのは更なるカオスだった。ちなみに、当時の僕の英語力は極少である、というか、今でも英語力は十分低い。

2024年1月4日木曜日

地元

今年のテーマのひとつは「地元」になりそうだ。
ご近所の古くから住んでいる人たちには「お客さん」として見られている。
それでも、京都暮らし9年目にして、神社のお祭りで配られるお餅を取り置いてくれるようになったり、少しづつ受け入れられている感はある。

わが家を起点に半径500メートル、1キロの同心円を描いてみた。
自分たちがどの範囲で動いているのかわかるだろう。

1キロ圏内に、龍安寺、仁和寺、妙心寺、北野天満宮といった名刹古刹。
金閣寺にしても1キロ強だ。観光客が生活圏に入り込んでくるはずだ。
買物に行くコープさん、イズミヤも1キロ圏内。

500メートル圏に立命館大学がすっぽり収まる。
このエリア、近年ずいぶん充実してきた。
単に馴染みのお店が増えたということなのだが、徒歩圏内に知り合いのお店があるというのは心強い。

もうひとつ外側に半径2キロの円を描けば、豆腐屋さん、やさいの佐伯さん、豆屋さん、中央図書館も収まるし、生活の9割は成り立ってしまうのではないだろうか。

今年は、解像度をもう少し上げてみよう。