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2016年5月28日土曜日

技なし

いっとき「研究員」という肩書きで仕事してた時期がある
事務屋をしながら稽古も担当するという二足の草鞋を履いていた頃のことである
身体教育研究所の職員には「技術研究員」という名称が与えられている
つまり、「研究員」とは、技のない「技術研究員」ということだ

技術研究員になったのは、二足のわらじを辞めたときで、
ただ、そのときに、ちゃんと実技試験を受けたという記憶がない
もし、資格認定の査察が入ったら、
記録不備あるいは情実認定で資格を剥奪されてしまうのではなかろうか
いまでも、ビクビクしながら仕事をしている

一度、ダン先生に「試験受けさせてください」とお願いしたら
「おまえ落ちるから受けなくていい」というひどい答えが返ってきた
試験代わり、という意味だったと固く信じているのだが、ダン先生が刺客を送ってきたことがある
M画伯である
大井町稽古場で仕事を始めて間がない頃で、
操法受けさせてくださいと言ってきたときには、正直ビビった
これが試験でなくて何であろうか
操法中にあんなに汗をかいたことはない
冷汗三斗*という言葉があるが、まさに冷汗だった

それから随分時間が経ってしまった
その後、技が身についたのか?と問われると、
悲しいかな、そのような実感を持てぬまま現在に至っている
中身は「技のない」研究員のままである

*冷汗三斗(れいかんさんと)
 この文章を書くまで冷汗三升(ひやあせさんじょう)だと固く信じていた
 まさに、冷や汗もの
 こういう記憶まつがいというのが結構多い
 「唐突」を「からとつ」と読んだり...

2016年4月19日火曜日

ワーク考

ユズルさんの紹介もあったりしたせいか(べったりか...)、いわゆるボディワーク系の人たちがポロポロと現れはじめた。その人たちの言葉の使い方が面白い。たとえば、「ワークを受けたい」とおっしゃる。「稽古したい」「操法を受けたい」と比較すると、どちらかというと後者に近いニュアンスのようだ。workは仕事であり作品でもある。語感もイヤではない。ただ、英語のworkと、ここで使われてる日本語としてのワークは、意味合いがだいぶ違っている。意味のズレに注意がいってしまうのは、このところ読んでいる多和田葉子ののせいなのだけれど、はたして、「稽古」を他の言語で表現するとして、それはいったい何になるのだろう。稽古の原義である「いにしえについてかんがえる」というところまで遡らないと、ふさわしい言い回しにたどり着かないのではないか。さて、ぼくらは、原則的に受ける人にも坐法臥法というものをリクエストしている。つまり、「ワーク(?)の半分は貴方が担うんですよ」と言ってる。なぜぼくらが、自分たちの場所を稽古場と呼んでいるのか、新しい人たちと話すことで、その立処が少しだけはっきりしてきたような気がする。

2016年4月12日火曜日

断片

公開講話と初心者コースに一年以上通っている人がやってきて曰く、公開講話は楽しんだけれど、いろんな断片ばかりを受け取っている気がすると仰る。まったくその通りで、稽古を30年ちかくやっている我々にとっても同じである。その断片をどのように組み合わせて全体像を捉えていくか、創り上げていくか、それ自体が稽古ということになる。いちばん安易なのは、自分がすでに知っていること、やったことのあることに引きつけて理解することだが、これだと単なる矮小化でおわる。稽古を続けていけば断片の数はどんどん増えていき、混乱の度合いはより高まり、途方に暮れてしまうことになる。わかった!と思う場面は一瞬やってくるが、たいがいそれは単なる勘違いで、再び奈落の底に突き落とされることになる。像が結ばれそうで、なかなか結ばれない宙ぶらりんの状態にある自分をどれだけ愉しめるか、稽古を続けられるかどうかは、そこにかかっている。

2016年4月6日水曜日

きまらない

このブログは半ば自分の備忘録として書いているのだが、「稽古覚書」として稽古してきたなかで気づいたこと、覚えていることをメモしていくことにします。

【きまらない】
稽古会がはじまっても、まだやることが決まらない、そんなときがある。毎度ではない。そんなときは、皆の前で話しながら、同時になにをやるかを考えている。それでも決まらないときは、決まらないまま、エイっと、誰かを前に出す。「xxさん出てきてください」と声をかけると、スッと前に出てくる。その僅かな空気の動きが初動となって稽古がはじまる。問題なのは、誰を前に出すか、ということ。大井町稽古場でやっていた頃、スズキくんという、当時まだ学生だった若者がいて、随分、彼には助けられた。空気が動く人と、そうでない人がいるのだ。これで、空気が動かなければ、もう八方づまりである。ただ、土壷にはまりかけたことはあるが、落ちたことはまだない。

【正座】
正座はいまでも苦手である。ひとの話を聞きながら座っている時というのは、すぐ足がしびれてくる。いまでも公開講話2時間はつらい。ところが、話す側に回ると全然平気なのだ。おっ、あいつ痺れてきたな、くらいの余裕を持って眺めている。自分がつらくなってきたら、そこで休憩を入れればいいという余裕のなせる技なのか。

【サピア=ウォーフ仮説】
ユズルさんの傘寿のお祝いのときだったか、稽古場でやっていることを話ししたら、「ダン先生はトランスパーソナルのことをやりはじめたのね」、という反応が返ってきた。トランスパーソナルという言葉の前提になっているものは、もちろん、パーソナルという言葉であって、はじめに「個」ありきということだ。言語によって、その前提となるものが異なることを痛感した。「言語によって世界の切り取り方が異なる」というサピア=ウォーフ仮説というのがあるらしいが、いまでは昔の理論として忘れさられているとのこと。えっ、どこがだめなのと僕など思ってしまうのだが、このあたりの経緯をどなたかご教示いただければありがたい。