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2025年3月3日月曜日

大井町稽古場閉鎖

今月末をもって大井町稽古場が閉鎖されることになったという。
京都に移ってくるまでの十数年を大井町稽古場で過ごしてきた私としては感慨深い。
なくなってしまう前に一度お別れにいこうと考えている。

大井町稽古場に関して書いた文章はないものかと、パソコンの奥を探ってみたら、「大井町稽古場の歴史をたどる」という文章が出てきた。東日本大震災の年、2011年に書いたものだ。どこかで発表したかどうか、誰かに読んでもらったかどうかも覚えていない。


【大井町稽古場の歴史をたどる】 

 大井町稽古場ができたのが1993年であるから、いまから18年前ということになる。本部稽古場が二子玉川につくられたのが1988年であるから、それから5年が経過している。つまり、身体教育研究所(当時はまだ整体法研究所と呼ばれていた)の本部稽古場が活況を呈し人が溢れはじめ、また助手として連日連夜、裕之先生のもとで稽古していた助手たちも育ってきたので、本部稽古場以外に活動の場を広げるために作られた、稽古場第2号というのが、大井町稽古場に与えられた立場である。スポンサーは剱持先生/整体コンサルタント(2008年に逝去)。裕之先生をずっと影で支えて来た四天王と呼ばれた古い整体指導者の一人である。

 助手三人体制による大井町稽古場の運営は順調であった。この時期(1993~1998)が一番活気があったかもしれない。その理由は、稽古会の受け皿が大井町稽古場しかなかったからである。稽古場3号となる鎌倉稽古場が開設されたのが1996年である。

 大井町稽古場第2期は整体法研究所が身体教育研究所と名前を変え、技術研究員制度が整備された1998年に始まる。従来の整体コンサルタントであった人たちが身体教育研究所に「移籍」し、身体教育研究所の技術研究員として活動を始めた。整体指導室も稽古場に看板を書き換えた。稽古場の数も一気に増えた。ここから担当者の一人であった戸村が京都に移る2002年までは、戸村を中心に据え、それに大井町稽古場に続いて1996年に開設された鎌倉稽古場との兼務になる松井、それに事務局との二足の草鞋を履くことになる角南が補佐する形で加わった。

 2002年、戸村は関西の稽古拠点となるはずだった山崎稽古場を担当するために大井町稽古場を去っていった。これを機に、大井町稽古場は松井を中心に据え、それを角南、剱持(小田原稽古場との兼務)が補佐するという体制に変わった。2003年に横浜稽古場が開設されて数年は、大井町/横浜/鎌倉三稽古場共通登録という試みもされ、稽古の裾野を広げることに貢献してきた。大井町に関していえば、十年間、松井/角南/剱持体制が続いてきた。活気のある時期、活気のない時期、様々であったが、概ね、登録者25~30名という範囲で稽古会が続いてきた。

 大井町稽古場の特徴をいくつか挙げるとすると、(1)参加者は関東一円の広い範囲からやってくるー言い換えると地元密着型でない、(2)若者の出入りが多いー本部への通過点になっている、(3)課外活動の多様さー田んぼ手伝いから句会まで、といった点である。この多様さが大井町稽古場のエネルギー源といってよい。

 そして2011年3月11日、震災がやってきた。東日本大地震は地面を揺るがしただけでなく、多くの人の人生を揺すぶった。大井町稽古場をも大きく揺らせ、新しい時代へと一気に押し出した。大井町稽古場第4期のはじまりである。

  2011/10

2023年10月15日日曜日

コモンズ(蔵出し)

 先月の裕之先生の公開講話で「富士見橋」の名前が出てきて、懐かしかった。そういえば、富士見橋からの風景を起点に、コモンズ=共有地について書いたことを思い出し、パソコンの奥を探してみた。2006年2月、20年近く前の文章だ。コロナを経験した後で読み返してみると、感慨深いし、観光都市京都の問題にも通じる。

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 上野毛から二子玉川に向かう途中、五島美術館を通り過ぎたところに富士見橋と呼ばれる陸橋がある。下の渓谷を東急大井町線が走っている。西の方角に多摩川の河川敷が広がり、晴れた日には丹沢の山々の上に、富士山を望むことができる。しかし、この風景も多摩川のほとりに高層マンションが建ったことで、大きく様変わりしてしまった。高台にある富士見橋からしてそうである。稽古場のある二子玉川から空が失われた。近代とはコモンズ(共有地)を囲い込むことで「資源」化し、それを稀少なるものと「仮定」することによって成り立っている社会であるとイリイチは言う。景観さえも囲い込まれ、高額なマンションとしてその眺望が切り売りされる、そのような時代である。

 そのような近代において身体の捉え方はどのように変わってきたのだろう。現代では人間を資源と捉えることは当たり前のものとしてある。「人的資源」といった言葉も一般に使われている。でも、よくよく考えてみると変ではないか。本来共有されていた土地や森が国家なり企業なりによって囲い込まれることによって「経済的価値」を生じ「資源」と呼ばれるに至る。そして資源化する働きのことを「開発」と呼んだ。それと軌を一にして、同様の単語が人間についても使われるようになり、人は開発される対象となり、最近では自分に「投資」するようにさえなった。経済用語と一般用語の境界線が曖昧になり、子供の成長と経済成長が同じ「成長」という言葉でくくられるようになったのはいつからのことなのだろう。これを変と感じなくなったのはいつ頃からなのだろう。

 現代日本人の多くは、現代医療制度によって囲い込まれた状況の中で暮らしている。囲い込まれたなどというのは生半可な言い方で、「植民地化」されているといっても過言ではない。なにもわざわざ我が身を差し出さなくてもよかろうにと思うのだけれど、司祭たる医者の見立てによって自らの身体を見、医者の処方する薬をのみ、栄養士のカロリー計算に沿って食べている。主権の放棄? 三十年以上前の話になるけれど、インフルエンザワクチンの集団接種の結果、その副作用によって重大な後遺症が残り、その親たちが国家賠償を求めて裁判を起こしたことがある。予防接種は国家の意向によって行われ、その結果障害が生まれた訳だから、賠償せよというのは論理的にはまったく正しい。しかし、はじめから我が身を差し出しているわけで、この一点に関し、整体の徒としては違和感を覚えてしまう。裁判の結果、国の責任が確定し、以後インフルエンザの予防接種は任意接種となった。そうして、いま流行の「自己責任」が声高に叫ばれるようになった。国民の多くが高度医療を受ければ受けるほど経済成長の指標とされるGDP増に寄与する。このような「成長」という言葉の空疎なこと。

  1970 年代後半、東京にイリイチやフレイレの教育論を研究しているAALA教育研究会という集まりが あり、しばらくお付き合いさせていただいたことがある。何年かの後、僕が整体の道に入ることを、この会を紹介してくれた楠原先生に報告したとき、「角南くんは整体の軍門にくだるのか」とやや感慨深げにつぶ やかれた言葉がなぜか印象に残っている。つまり、問題意識を社会に置かず、整体という「個人」の「健康」を求める方向に進んでしまうのかという、失望に近い気持ちが少しだけ込められていたように思う。僕自身は日和見に走ったという気分は毛頭なかったのであるが・・・。で、身体である。国家に自らの身体を差し出さないというところまではよい。じゃあ、この身体は私個人のものなのか? これを問うところから 整体の身体論に立ち入っていくわけである。

2006/2/18

2022年3月16日水曜日

韓日ダンスフェスティバル1995

韓日ダンスフェスティバル1995のDVDが回ってきた。
1995年、つまり27年前の映像。
室野井洋子さん、森(竹平)陽子さん、ふたりとも美しい。
楽屋でカメラに収まっている松井くん、榎田くんのハンサムぶりに驚愕。
え、こんなに男前だったっけ。

近々、等持院稽古場で上映会やります。

↓  当時の文章が出てきたので蔵出ししておきます。


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あざみ野通信 071 1995.11.13
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 韓国公演のための稽古をやっている最中に、何度か稽古場に足を踏み入れたことがある。なんとも形容しがたい空間がそこにあった。舞踏の室野井洋子さんと日舞の森陽子さんが一緒に踊る。こういう組み合わせは稽古場以外では考えられない。ダン先生曰く、室野井さんの踊りは、客体を消し、内観的身体だけを動かすもの、一方の森さんは逆に内観的身体を消し、客体だけを動かしていく踊りだと。僕が最初に稽古場で感じた、この形容しがたい空間はソウルでも出現した。そういう意味では、この公演は大成功と呼べるのではないか。踊りというものを「自己表現」として扱っている公演者が多かった中、稽古場組の出し物は異質だったと思う。「感応を用いた空間芸術」とでも呼ぶべきものだ。人は、その空間に形成される空気を感じることによってのみ、それを味わうことができる。

 室野井さんに「表現する自分というものを意識していますか」と訊いてみた。「昔は、あったかもしれないけれど、今はない。料理をつくるのと同じ感覚で踊っています。下拵えをして、それを横に置いて、次の作業に移り、といった感じです」なかなか説得力のある答えであった。ソウルでの公演を見ているとき、「室野井さんはプロだなあ」と、ふと思った。なにをもってしてプロというのか、そこのところははっきり意識しなかったが、あとで考えると、舞台の上で何が起ころうと、すべて自分一人で背負ってやるという心意気、覚悟、そんなものを室野井さんの姿から感じたらしい。かといって、気負いとは違う種類のものだ。

(1995/11/1記)

2020年3月3日火曜日

新しい時代

コロナウイルスで巷はさわがしい
311直後の街の空気を思い出した
311のあと、僕はどんなことをブログに書いていたのか蔵出してきた
311のときは、「目眩まし停電」だったけど、今回は「目眩まし休校」なのだね

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新しい時代


駅を出て停電で暗くなった道を歩きながら、首都圏の意味も郊外の意味も変わってしまったことを自覚した。数ヶ月の不便で、生活が元に戻ることはもはやない。数千万人の人間が、放射能との共存を否応なしに強いられる世界。まだ誰も経験したことのない、そんな世界にすでに僕らはいる。これまで目隠しをされ、目を背けていたものが突然眼前に現れた。つまり、僕らが抱えていた嘘が露わになった。その嘘を再び塗り込めてしまおうとする力も強く働く。しかし、ここから始めるしかないではないか。新しい時代ははじまったが、旧い時代はまだ終わってはいない。
(2011年03月23日)


いつまでも寒い。何日かまえ、横浜でも雪が降った。冷えびえとした雪だった。地震から二週間、被災地の寒さは如何ほどであろう。計画停電を、ぼくは、「目眩まし停電」と名づけた。原発事故から目をそらさせ、原子力発電なしに都市生活は送れないよという脅しのメッセージ。でも、僕らは気づいてしまった。なんだ、これまでの明るさは不要だったんだ。電車も各停だけで十分じゃないか、と。停電のせいで経済活動は停滞するだろう首都圏の意味はまちがいなく変わる。
福島原発の動向から目が離せない。事故が起こったとき、誰も当事者能力を持てない。東電はもとより、政府もまた当事者能力を持てない。そのことが露わになった。原発はそのような怪物。国民の命を守ろうとしない政府にどのような存在価値があるというのか。各国の大使館が日本在住の自国民にどのようなメッセージを送っているか。この方が、政府発表や国内大手メディア報道より参考になる。なんと悲しいことだろう。
新しい時代ははじまった。じゃあ、どんな時代にしていくのか。
(2011年03月27日)


暴動が起きても不思議のない状況なのに、僕らは大人として振る舞おうとしている。なぜなら、僕らは、すでに自分たちが核の人質であることを理解しているから。暴力的手段に訴えれば、その先は破滅であることを知っているから。では、僕らにどのような表現が可能なのだろう。徹底的に非暴力で、徹底的に美しく、徹底的にたくましい。そのような道を見つけることなしに、新しい時代はやってこない。
当事者能力とはなんだろうと考えている。今回の原発事故でいえば、東電も政府もその当事者能力の欠如を露呈させた。当事者能力を持てない技術なんて怖いじゃないか。ふりかえってわが身をみれば、同じことだ。なにもかも他人まかせ、制度まかせにしてきたではないか。もし、僕らにできることが一つあるとすれば、この当事者能力を育てていくことにあるのかもしれない。新しい時代の担い手のイメージが少しだけ湧いてきた。
(2011年03月31日)


戦後生まれの私は、当然のことだが敗戦を知らない。なのに、いま私が体験している事象はまがうことなく「敗戦」である。一体全体この既視感はどこからくるのだろう。3.11から三週間、街は平静を取り戻してきた。あたかも、暫くすれば、3.11までの日常が戻ってくると信じているかのようだ。でも、そんな日が来るとは思えない。青天の霹靂ではない。きたるべき時が、やってきてしまった。僕らはすでにSFで読んだ不条理の世界の中にある。放射能予報をみてから洗濯物を外に干すかどうか判断する。そんな、へんてこりんな世界。夏場、公園のスピーカから流れてきていた光化学スモッグ注意報のなんとのどかだったことか。この落ち着きのなさとどう共存していくのか。SFで語られていた世界が現実になったとき、僕らはどんな文学を産み出せるのか。試されているのは僕らの文化力かもしれない。
(2011年04月02日)

2011年3月13日日曜日

地震当日

みなとみらいホールで行われる音楽会(佐渡裕+辻井伸行+BBCフィルハーモニック)に出かけて行った。半年も前に予約していたプレミアチチケット。ミーハーな父の奢り。

 【14時17分】あざみ野駅より横浜市営地下鉄。やけに心臓が苦しい。だれか、調子の悪いひといったけ? 妻と娘には時間を教えておいたのだが乗 ってこない。次の電車で来るのだろう。ありがちなパターン。 

【14時22分】父の携帯か ら着信。電車の中だったので受けず。一足早く桜木町に着いたのだろう。
 
【14時48分】桜木町到着。電車から降りたら目眩がする。改札を抜けると人が騒いでいる。地震だ!  速足で地上に向う。
 
【14時50分】桜木町改札前で父と合流。

【14時52分】大井町稽古 場にいる松井くんから電話。大井町もだいぶ揺れたらしい。松井くんと話していると、向 こうから横浜稽古場の小杉さんが歩いて来る! 電話で話しな がら、小杉さんに父を紹介する。 

【15時】妻から地下鉄が三ツ沢上町で止まってしまったという電話。父に予約していたホテルにチェックインしようと提案したが、腹が減ったと仰る。じゃあ、妻たちが着くまで 時間をつぶそうと、駅の脇にあるコーヒーショップに入る。次の地震が来て大きく揺れる 。客の多くが外に飛び出す。妻たちの乗った地下鉄は動いてない様子。しびれを切らして ホテルに向かおうとするが、タクシー乗り場には長蛇の列。バスはどうかと停留所に行く と、お客さんを降ろしたらパスは操車場に戻れという指示がでているという。

 【16時】あきらめて、会場方向に移動することにする。エレベーター、エスカレーターが 動いてないので、父の尻を押して階段を登る。妻たちは電車をあきらめ横浜駅方面の歩き 出したという。腹ごしらえと思ったが、なんとレストランも閉鎖。ファーストフード系のお店はやっている。音楽会は予定通り開催されるとのアナウンス。震災地の状況はよくわからない。
 
【17時】時間待ちを覚悟して、ホール横のコーヒーショップに入る。横浜駅を経由してみ なとみらい地区までバスと徒歩でたどり着いた妻と娘も合流。横浜駅周辺の混雑は尋常で はなかったらしい。 

【18時】開場の時間が近づいたので入口に向かうと、公演中止のアナウンス。そうだよな ~、と納得。未練たらたらの父。ではどうやって父をホテルまで送り届けるか。タクシー呼べば、とノーテンキなことを考える家族にイラツク。自分たちが置かれた状況をまったく理解してない。

 【19時】ホテルまで歩くか、それとも帰宅難民として開放されたパシフィコで一晩過ごす か。先遣隊としてパシフィコをチェック。遠い。避難所となっている展示場は超巨大な体 育館。帰宅を諦めた人が集まり始めている。毛布もない状態で85歳の父が過ごすには酷。それなら頑張って4キロ歩いた方がよいという結論。桜木町駅に向かって歩きはじめる。パシフィコめがけて歩いて来る人たちの群れとすれ違う。

【20時】桜木町駅前。タクシー乗場は長蛇の列。ところがパスは動きはじめる気配。ラッ キー、とバス待ちの列に加わる。バスが来る。動きはじめるが、上り方面の道路が渋滞していて公道にでられない。30分近く待ったあげく、ようやく動きはじめる。目の澄 んだ美人ーこの日の唯一の救い一に降りるべき停留所を教えてもらいバスを降りる。風が強い。 

【21時】ホテルにチェックインして一息つく。少なくとも父の宿は確保できた。しかし、 我々三人の帰宅難民状態は変わらない。ホテルは満室。電車が動くことを祈って父の泊まる狭いシングルルームになだれ込む。テレビ報道を観て、ようやく今回の地震被害の大きさをしる。少なくとも部屋の中は暖かい。

【22時】フロントに電話して、最悪全員ここで夜明かししてもよいかどうかを交渉、「黙認します」という言葉をいただく。ここでの夜明かしを覚悟。娘は買い出しに行ってくる という。妻も同行。女たちはたくましい。おでん、中華まんじゅうを買って戻ってくる。 

【23時】ひたすらテレビを観る。

【24時】 TVKで交通情報を観る。東急線が動きはじめた気配。横浜駅まで出られれば帰宅可能か。
 
【25時】横浜市営地下鉄が動き出したとの情報。ホテルで一晩過ごすか、それとも帰宅す るか。家の中に閉じ込められている猫のことも気がかりなので、帰宅を決断。三人で外に 出る。夕刻よりも寒さが和らいでいる。関内めがけて歩く。日本大通りあたりにくるとなじみの風景になりほっとする。関内の駅に着いて間もなく電車が来る。車内は閑散としている。

【26時】あざみ野到着。早足で歩く。葛西の妹のところは家具が散乱したということだっ たので心配しながら玄関のドアを開ける。本棚の上に置いてあったipadもそのままの場所にある。食器棚の扉は開いていたが食器は落ちてない。猫も無事。ホッと胸をなでおろす。 

【27時】疲労感と安心感と高揚感がないまぜになって寝つけない。 身の丈に合わないことをしてはいけない、というのがこの日の教訓。 

 地震発生から48時間たち、報道されてくる被災地の状況は目を覆うばかりです。亡くなっ た方、行方不明の方も、大勢いらっしゃいます。数十万という単位の人たちが避難生活を 送っています。そのような状況のもと、平和ボケした文章を載せるのはいささかためらわ れたのですが、「その日の記録」として書き込むことにしました。今回の地震についての 考察は項を改めて書くつもりです。(2011/3/13)

2011年3月9日水曜日

ぼくが筆動法を稽古するわけ

 紙という平面に時間が込められている、それが書ー墨蹟というものだ。始めがあって終わりがある。書いた人の身体の運動の軌跡が線や点となって紙の上に残されている。さらにいえば、身体活動のもとになった、感覚の動きや質までが、その奥にある。

 ぼくらが書をみてなにかを感じるとき、それは、空間的な美しさもあるのかもしれないが、むしろ、書いた人の感覚や動きを自分自身の体でとらえているのだ。それは書に限ったことではない。音楽を聴いて感動するのだって、踊りを観て感動するのだっておなじことだ。野の草花に感動することだっておなじこと。

 筆動法は、ぼくらが書を観て感じることを、逆にたどって、実際に筆を手にして字を書いてみようという試みだ。上手な字を書こうなんてことはみじんも思っていないし、実際、上手くもならない。でも、感動する能力は、少し身につくかもしれない。

 筆動法をやるとき、手では書かない。無論、筆は持つ。ただし左手。左利きの人は右手で筆を構える。つまり利き腕ではもたないというのがルールその一。手では書かないといったけど、それは無理でしょうという質問がくる。すくなくとも書かないというつもりになる。なぜかというと、手というのは体からいえば末端にあたる訳で、末端から先に動いてしまうと、ナカの動きがわからなくなる。とりあえず、ここでいうナカというのは、胴体だと思っておいてもらえればいい。実際、手をどう扱うかというのは大問題なのだが、このことは後回しにする。

 そうそう筆を手にする前に、墨をすらなきゃいけない。墨汁でいいじゃないかという人も出てくるが、ここはまず墨をすってみる。これって結構基本。墨をするにしても、やっぱり手は使っちゃいけないという。手ですらず、体でする。足首を返して座りー跪座といいますー両手首を膝に押しつけたところからはじめる。手首を膝を離してはいけないとすれば、もう実際に手は封じられたことになる。これで、墨を硯の上で滑らせようとすれば、胴体を動かすしかない。墨は硯の上を水平に前後運動しなきゃならない。 ということは、胴体も前後に水平運動しなきゃならない。これは大変。

 ここからカタの問題が出てくる。これはかなり大事というか、このために筆動法をやっているといって過言ではない。跪座になって手首と膝をくっつけて墨スリするというのもひとつのカタ。つまりカタというのは、つまり動けなくしてしまうものなのですね。カタに入ると動けない。矛盾した言いかたになってしまうけれど、正確にいうとカタに入らないと動けない。ソトが止められてしまったら、あとはナカを動かすしかないですね。そう、ここからナカの感覚を動かすという稽古がはじまるわけです。

 もっとも、実際には、ここにたどりつくまでが大変で、どうしたって外側が動いてしまう。無理矢理動かそうとする。力づくで動かそうとする。大半の人はここで脱落してしまいます。脱落してもらっては困るので、このところは甘くして、「まあ、十年かけてやってきましょう」と先に進めてしまいます。

2009年6月19日金曜日

阿部青鞋

僕の最初の英語の先生は阿部青鞋(せいあい)という俳人だった
1960年代前半、岡山の田舎町での話である
以下は、このブログをはじめる大分前(2002)に書いた文章

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■阿部青鞋(せいあい)という俳人の名前を知ったのは数年前、父母の句集のなかである。母の略歴のなかに「阿部青鞋先生に短歌の手ほどきをうける」とあった。そこではじめて、私の最初の英語の先生が「阿部先生」であったことを思い出した。はたして、俳人阿部青鞋と「阿部先生」は同一人物であったのだが、どうして東京生まれの俳人が岡山の田舎町に住みはじめたのか。

■調べてみるとなかなか面白い経歴をもつ人である。大正三年(1914)に東京に生まれ、1945年の終戦直前に岡山に疎開するまでは、軍隊に召集されていた時期を除き、ずっと東京にいたらしい。そんな人物が、どいういう経緯で岡山に疎開したかは謎。しかし、以後、昭和53年(1978)までの33年間、岡山県英田郡美作町に居住したとある。美作町に住みはじめて14年後、「米人宣教師の通訳を務めるうち聖書に親しんで受洗」(1959)とあり、その四年後には自ら牧師となっている。私が英語を習ったのは、この頃らしい。住んでいた町内会の建物を寺子屋のようにして英語を教えていた。飄々とした風貌で、モダンな空気をいつも身にまとっていたのをうっすら覚えている。

■横浜市立図書館に唯一あった、『俳句の魅力ー阿部青鞋選集』(沖積社 1994)を借り出して読んでみた。妹尾健太郎という人が編んだもので、阿部青鞋の句、随筆等が集められ、前段の略歴はこの本の巻末におさめられている「略年譜」からの引用である。新興俳句の旗手であった渡辺白泉らとも親交が深く、昭和15年頃、新興俳句が弾圧を受けてからは、ひたすら古典の研究に励んだとある。

■極めて個人的なつながりから阿部青鞋という人の足取りをたどっているのだが、残された俳句は素人目にも面白い。俳句の世界では、おそらく傍流に属していたのであろうし、政治的に動くタイプの人物ではなさそうである。俳壇という閉じられた世界にこだわっていた様子もなく、どことなくコスモポリタン。カラッとしたユーモアが基音として流れている。

うかんむりの空を見乍ら散歩する (青鞋)

【気刊あざみ野通信 199 2002/8/14】

2004年5月29日土曜日

禁糖2004

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気刊あざみ野通信 288 2004/5/29 
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 ■「禁糖」を試みている。これは、梅雨前のある時期、ある体状況(腹部第二調律点の系統)の人にダン先生が申し渡していることで、僕自身どうも該当者。人の言葉には素直に従わないというのは、僕の特質みたいなもので、これまでなら、「そんなこともあるのかな」と聞き流していた類のものなのだが、なぜか今年に限って、素直に実践してみる気になった。ひょっとすると、もう少しましな身体になれるのでは、という期待があったからである。期間は二週間。コーヒー、アルコールも禁止である。

 ■単に紅茶に砂糖を入れない(普段でも入れない)、トーストにジャムを塗らない(最近はあまりジャムって食べてない)といった程度のことであれば、さほど難しくない。しかし、食材、調味料にまで範囲を広げるとーそうしない限り禁糖にならないーたちまち食べるものがなくなってくる。つまり、それだけ今の食生活は「砂糖漬け」になっているのだ。砂糖中毒といってもよい。禁煙なら煙草だけをやめれば済むことだけれど、「禁糖」となると、一気に食生活すべてを見直さなくてはならなくなる。果物が禁止項目に入ってないことが救い。

 ■三日もたつと、ものが本来持つ「甘み」が分かるようになってくる。アルコールを普段飲む習慣のない僕にとって禁アルコールはまったく苦にならない。しかし、禁コーヒーというのはなかなか厳しい。仕方なく、抹茶を点てて飲んでいる。あと腹が減る。これは間食をしなくなるためだと思うのだが、ともかく空腹感というのが新鮮。それと皮膚の感覚が変わってくる。これは意外。

 ■最初の三日間は快調。が、四日目くらいから、やや禁断症状らしきものがでてきた。甘いものに目がいく、他人の飲んでいるコーヒーから目が離せなくなる、等々。妙に尻が定まらず、気がつくとそわそわと部屋の中を歩き回っていたりする。禁煙を試みたとき(いまだに喫煙者ですが)に似たようなことは体験したことがある。やはり糖分摂取もある種の中毒なのですね。ようやく一週間経過。何度かしくじったー食パンも砂糖を使っているのだーけれど、腹部第二が「しっかり」してきた感じはあります。 

 ■あと一週間、なんとか続けられそうである。身に覚えのある人はやってみるといい。なかなか楽しい非日常的体験です。

2003年12月24日水曜日

大人の気分

■鎌倉稽古場のソファーに和服姿で、ゆったりした心地で座っている。この気分をどう表現すればよいのだろう、と言葉を探しているうちにたどり着いたのが「大人の気分」。 

 ■課外稽古として鎌倉稽古場で「着付け」をやっていることは、随分前から知ってはいたけれど、あまり興味を持たなかった。それが、来年の正月こそは和服で過ごそうと発願した結果、Hさんの指導する着付け稽古に出かけていくことになった。そこで、巡り会ったのが、「大人の気分」なのである。和服の「着方」を習いにいったつもりが、「大人の気分」と会う。得した気分ではあるけれど、同時にショックでもある。 

 ■今年はこんなことばかり。50を過ぎてなにもしらない自分と対面させられる。二年ほど前、「動法ー異文化としての日本的身体技法」と題した動法カリキュラム案を作成したことがある(気刊あざみ野通信178号)。当然のことながら、動法を通して日本文化の一端を「私は知っている」という前提で書いている。実際、そのように思っていた。ところが、ここまでたてつづけに、「無知さ加減」をおもいしらされると、そのような前提はいとも簡単に崩れ去る。崩されるというのは、快感ではあるのだけれど。

 ■Hさんの着付け指導は見事だった。着ること着せること自体が「技」の世界。肌着を着け、襦袢を着け、その上に着物を着る。衣が重なるごとに、その衣がなくなっていく感覚に、オーっと感嘆しながら、同時に、「つまり、僕はこれまで稽古着さえ、ちゃんと着たことがなかったのだ」ということをしる。帯を締めるとは、帯を引っ張ることではなく、芯をひきしめることだと、しっているはずのことを、「でもこうなのよね」とだめ押しされる。参ったな。 

 ■和服を着ると、その人らしさがより強調されるのも不思議だ。若旦那風のMさん、武芸者然としたAさん(武道系の人ではない)。洋装なら、そのファッションセンスといったもので表現される人柄が、和服だともっとストレートに表に出てくる。Hさんによると、着付け方によって、あるいは、誰が着付けるかによって、印象がまるで違ってくるそうだ。きっとそうだろうなと思う。

 ■整体の稽古からはじまり、お茶に出会い、和服に出会う。私の2003年は、このように暮れつつあります。

(気刊あざみ野通信 265 2003/12/24)

2002年1月3日木曜日

「動法」 ー 異文化としての日本的身体技法

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気刊あざみ野通信 178  2002.1.3
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■某大学で教えているIさんから、大学の授業で「動法」を組み入れる可能性を探りたいので「カリキュラム案」をつくってもらえないかという電話を受けたのが昨年10月の終わりのこと。はたして、大学の体育の授業で動法を受け入れる素地はあるのだろうか、半分いぶかりながら下のような素案を二日ででっち上げIさんに送った。Iさんの動機はきわめて単純。つまり、「最近忙しくて稽古場に来る暇がないから、だれかこっちで教えてもらえないかしら」というもの。不純、いや正直。それを一挙に授業に組み入れようとするところがすごい。すんなり実現する話とも思えないが、ものごとが実現するときというのは、大義名分ではなく、案外、こういう個人的な動機がきっかけになるのかもしれない、と思いながら素案を書いていった。すくなくとも、整体協会の活動と既存の大学が接点を持ちうるとすれば、当面、「動法」ということになるのではないか。将来的には、野口先生の教育論が取り上げられる日だってくるかもしれない。文章は、ややイタコ状態で、ダン先生の口調になってしまっている。しかし、切り口としては、角南風。このように、ひとりひとりの問題意識の持ち方によって、どのようにでも風呂敷を広げられるのが、動法の特徴でもある。結論は一月中にもでるらしい。

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「動法」 ー 異文化としての日本的身体技法

 かつて日本は「坐の文化」を持つ国として海外に紹介されていた。かつてといっても、たかだか20年前までのことであり、ひょっとすると現在でもそのように紹介されている可能性もある。しかし、翻って、私たちの生活を眺めてみれば、もはや畳のない家に住み、ベッドに寝、洋式トイレに坐ることを当たり前のこととして暮らしている。このような生活様式の変化は、明治維新以来、連綿とおこなわれてきたの西欧文明の導入に遡ることができるが、とりわけ1960年代の高度成長は、日本人とモノとの関係を決定的に変貌させ、同時に、日本人の身体感覚を大きく変容させた時期として銘記されるべきである。身体感覚の変化、あるいはその身体感覚の喪失は、その感覚に基づいて行われていた身体運用に変化をもたらし、あるいは、喪失させた。もはや我々は自分たちの祖父母の代の人間がどのような身体感覚をもちどのように身体を使っていたかを知らない。茶道、華道、書道など、日本文化と総称されるジャンルがある。しかし、これらを学ぶことは、いまや「英会話」を学ぶことよりもはるかに特別なものとなってしまった。つまり、先に述べた身体感覚の変化により、我々は「茶道」より「英会話」の方がより感覚的に近いと感ずるようになっているのである。極論すれば、日本文化は我々にとってもはや「異文化」なのである。

 動法と呼ばれている身体運用法がある。動法とは、かつて日本人はどのような身体感覚でどのように自らの身体を扱ってきたのかを研究する過程で生まれた「稽古法」である。身体研究の大半は、これまで生理学・医学的見地から行われてきた。しかし、動法は、そのような医学的知識から離れ、「感覚と動き」を追求していくことで発展してきた。人間の動きのもとには、ある「感覚」があり、その感覚が身体を経ることで「動作」となる。つまり、身体運用の技を学ぶとは、そのもとにどのような感覚があったのかを探る作業なのである。「日本文化は我々にとって異文化である」と述べたが、つまり、その元になっている感覚を我々は喪失してしまったのであり、その感覚を知ることなしに、「伝統芸能」も「日本文学」も味わうことができないのである。

 この「動法」の授業においては、正座の仕方、箸茶碗のもちかたといった日常生活における所作のなかに、どのような感覚が本来込められているのか、といったものを入口とし、先人の感覚、あるいは、異文化としての日本的身体技法を学ぶ機会としたい。

<参考文献>
 「動法と内観的身体身体」 野口裕之 体育の科学 vol. 43 7月号 1993
 「日本文化と身体」   野口裕之 体育原理研究 第31号 2001
 「身体の零度」      三浦雅士 講談社選書 1994

<カリキュラム案>
 1 歩く   すり足で歩く ナンバで歩く
 2 坐る   正座のもたらす感覚
 3 動く   躙り 膝行
 4 立つ   俯せに立つ、仰臥に立つ 
 5 構える 蹲踞 しずみ 仕切り
 6 持つ   茶碗を持つ、箸を持つ
 7 動作する 団扇なげ 竹の動法
 8 型はかたくるしいか
 9 脱力   リラックスと脱力 
10 身体観1 肉の身体、骨の身体
11 身体観2 空間的身体、時間的身体
12 身体観3 身体における自己と他者

1992年3月12日木曜日

百年という時間

 なぜか、この頃、百年というスケールでものごとを考えられるようになった。「自分が生まれ育った1950年代という時代が、”歴史”の一部になってしまったからだ」というのが、僕の得た答なのだがどうだろう。40年前を客観的に見られれば、それを時間軸の反対側に伸ばせば80年前まで遡ることができる。そうなれば、百年、一世紀という時間もすぐそこだ。 最近読んだ、『人間の測りまちがい』という本のなかに、百年前の学者・政治家の考えが沢山出ていた。多くは、現在の常識からするととんでもなく人種差別的であったり、女性差別的なものである。かといって、僕が、そのような見方に憤慨したかというと、そうでもない。むしろ、今、僕が持っている常識などという代物も、あと百年経てば、現在の僕が百年前の人間の残した文章を読んであきれる程度のものかもしれないと思えたのだ。

     * * * * * * * 

『情報の歴史』(NTT出版)という年表で構成されている本がある。国境というものをとっぱらい、ジャンル別に出来事を並べている。ボーダーレスの時代にふさわしい編集の仕方だと思うし、現代に限らなくても、世界各地の出来事というのは、”連関性”をもち、また、”共時性”を有していたということがわかる。 その本の1952年の頁を開いてみる。僕の生まれた年であり、昭和でいうと27年になる。そのなかで、目につくところを列挙すると次のようになる。 
 ○吉田首相、自衛のための戦力は憲法第9条に反しないと答弁 
 ○血のメーデー事件発生 
 ○ナセルらクーデーターに成功 
 ○初の原子力潜水艦ノーチラス建艦着工 
 ○日本電電公社発足 
 ○ビデオテープ登場 
 ○ペンフィールド、ヒトの脳の機能地図作成
 ○フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』
 ○クレマン『禁じられた遊び』
 ○チャップリン『ライムライト』
 ○ヘミングウエイ『老人と海』
 ○手塚治虫『鉄腕アトム』
 ○ラジオ受信契約台数1000万台突破

 これらの出来事の羅列を一瞥するだけで、いかに自分が「時代の申し子」であったかを理解する。PKOも第3世界もマス・コミュニケーションも、現在あるものの全ては1952年にすでにあったのだ。ただ、胞子の段階から、60年代、70年代の高度成長期を通過することとで、「量的」に一気に拡大し、その量が生活の「質」を変えてしまった。僕の世代の成長は、この拡大の波とと共にあったといってよい。1952年、僕の父親は27才、母親は21才だったはずであるから、現在の僕の歳よりもひと回り若い。この世代の人たちは、自分たちの生きてきた時代をどのように捉らえているのだろうか。

 ここから、更に40年遡り、1912年の頁を開く。明治から大正へのかわり目の年である。同様に、目につく出来事を列挙する。
 ○中華民国成立
 ○犬養毅・頭山満、孫文と会見
 ○チベット独立運動
 ○明治天皇崩御、大正天皇即位
 ○ラスプーチン、宮廷に進出
 ○ベスト・ポケット・コダック発売、世界各国に普及
 ○早川徳次、金属加工業を設立(のちのシャープ)
 ○ユングとアドラー、フロイドから離脱
 ○大杉栄、荒畑寒村ら「近代思想」創刊
 ○マリア・モンテソッリ、モンテソッリ学校運動創始
 ○乃木希典大将夫妻殉死、文壇を震撼
 ○新世界、通天閣完成、吉本興業誕生

 ここから52年までの40年の間に、第一次、第二次の二つの世界大戦を経験することになる。父母はまだ生まれておらず、祖父母の時代である。これくらい遡ると、90歳をこえた人とでも話さない限り臨場感をもった話はもはや聞けない。逆にいうと、この時代を生きていた人は、現存するわけだから、歴史の彼方の時代とはまだ言えない。僕の祖父母は、父方、母方、それぞれ80近くまで生きていた。とくに母方の祖父は身近にいたから、「町に汽車がはじめてやってきた日」の話など、 当時のことを沢山聞いた。 日露戦争には行ったのだろうか。夏目漱石が『彼岸過迄』『行人』を朝日新聞に連載していたのがこの年。野口晴哉という人も、この時期に生まれているはずだ。

 もう一度、40年ジャンプして1872年を開いてみる。現在から120年前、明治4年になる。
 ○徴兵令公布、学制発布
 ○日本の人口3300万人
 ○福沢諭吉ー『学問のすすめ』
 ○ガス灯、横浜で点火
 ○東京ー品川間鉄道開通 ○バクーニン、無政府党を創設
 ○ルイ・パストゥール、微生物と醗酵作用に関する論文発表
 ○イエローストーン、アメリカで最初の国立公園に指定される
 ○セザンヌ、モネ

 さすがに、ここまで遡ってくると、かなり想像力を働かせないと、時代の雰囲気というものは思い浮かんでこない。しかし、印象派の画家たちの名前が出てくると、身近に感じてしまうから面白い。江戸から明治へ時代が変ってすぐの頃である。

     * * * * * * *

 20代後半までの僕は、ひたすら空間的、地理的に動くことをよしとしてきた。今頃になって、時間、歴史というものに興味が向いてきたというのも、単純に、空間的に移動できないことへの不満(僕の行動能力と元子の可動性とは明らかに連動している)と、年取ったという諦観がないまぜになった結果と言えるのかもしれない。ただ、空間的に動くということ自体、すでに時間軸を動くことを含んでいる(こう書いてしまうと、あまりに藤原新也的であるようだが、どう考えても、東京とケララでは時間の流れかたが違うし、生きている時代も違う)から、これまでも、時間を駆ける旅をしてきたことになるのかもしれぬ。
 去年は、モーツァルト没後 200年で賑わったし、今年は、芭蕉の「奥の細道」から 300年だそうである。遥か昔の人たちのようだが、その時代を同時代人として生きた僕ら自身の先祖がいるのかと思うと何だか愉快である。

【あざみ野通信 049 1992.3.12】

1988年4月1日金曜日

学びの原型としての活元運動

 当時、教育を学んでいた私にとって、相互運動くらい興味をそそられる対象はなかった。書物の中の「学ぶ者と教える者の共同作業としての教育」という理念に惹かれていたものの、実際のところ、何をどうすれば、そうなるのか、暗中模索の状態にいた。人間関係を意識と意識の関係としか見ていなかったのだから当然かもしれない。そんな私にとって、二人で行うことで、活元運動が深くなり、しかも、必ずしも、前-受ける人、後-させる人とはならない相互運動を体験することは一大発見だった。相手を動かそうと意識的に力を使えば反発が生まれ、運動も不自然になる。かといって、対等な関係に身を置きながら、相手の中の自発性を妨げることなく誘発することもできる。まさに、理想的な教育形態の雛型を発見したような興奮があった。私にとって、人と人を結ぶ「気」の発見である。

(整体十年 月刊全生 1988年4月号から一部転載)


Katugen Mutual exerecise as a Basic Form of Learning

 As a student of education at the time, there was no subject more intriguing to me than Sogo Undo - mutual movement. Although I was attracted to the idea of "education as a collaboration between learners and teachers" in books, I was still in the dark about how to make it happen.  Perhaps this was inevitable, since I saw human relationships only as relationships between consciousness. It was a great discovery for me to experience mutual Katsugen Undo, where the Katsugen movement deepens when two people work together, and also does not necessarily mean that the person sitting in front is the passive person and the person sitting behind is the active person. If you consciously use force to move the other person, you will create a repulsive action in him, and the movement will become unnatural. On the other hand, we can induce spontaneity in the other person without interfering with it, while keeping ourselves in an equal relationship. It was truly an exciting experience, as if I had discovered a fundamental form of learning in education. For me, it was the discovery of the "ki" that connects people.


(an excerpt from Gekkan Zensei, April 1988)

1987年8月14日金曜日

河上さんのこと

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あざみ野通信 014 1987.8.15

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●河上さんのこと

 河上綾子さんは、僕が京都時代の一時期住んでいたアパ-ト「明美荘」の管理人さん。明治生まれのはず だから70歳代の後半か。いまでも、かくしゃくと管理人としての仕事をこなしている。コ-ヒ-が大好き で、専門店にコ-ヒ-豆を買いに行き、自分で挽いてはサイフォンで入れる。一時期流行った「自立した 女」の先駆者のような人で、コ-ヒ-をご馳走になっては 昔の話を聴かせてもらっていた。 京都市の北、大原の大きな材木問屋の末娘として生まれた河上さんは随分やんちゃな子供だったらしい。お 兄さんと一緒に通っていた柔道を無理やりやめさされ、書道を習いに行かされ面白くなかった話、中学時代 のある夏休み、結婚したお兄さんの住む東京へ親に無断で行った話、そして、京都に帰ろうとした直前、関 東大震災にでくわし足止めをくってしまった話..... 武勇伝は数知れない。

 そんな河上さんも、女学校卒業と同時に、お見合い、そして結婚。もっとも、河上さんに言わせると、ある日、突然、訳も分からず大勢人のいるところに連れて行かれ、後になって、そこにいた一人の男性と結婚するのだと言い渡されたという。ちゃんと顔も見てないのに嫌だと言ったけれど、「そんなことは、結婚してみないと分からないだろう」と言われ、「なるほど、そんなものか」と自分で納得して一緒になったという。

 結婚した相手は商社マンで、この人についてアメリカまで行くことになる。昭和 10 年前後のことらしい。 勿論、船で行く訳で、ハワイまで一週間、そこから、また一週間かけてサンフランシスコに着いたという。 船酔いもひどく、アメリカ本土に到着したた時はさすがにホッとしたそうだが、帰りにも、また二週間船に 揺られるのかと思うと、今度はゾッとしたという話は随分昔のこととはいえ笑えなかった。ご主人の任地は ポ-トランドだったらしい。サンフランシスコから、今度は、汽車の旅である。

 戦争は河上さんの暮らしにも大きな変化をもたらした。夫を戦争にとられ、子どもと二人だけで暮らすことになったが、それで生活が苦しくなったかというとそうでもなかったらしい。それまで、夫の手から渡さ れていた生活費が、今度は、夫の会社から直接送られてくるようになり、それで初めて、夫の給料の額を 知って驚いたという話も聞かせてくれた。面白いエピソ-ドは他にもある。頼まれて軍用犬を飼い始めたら、 その犬のために肉の配給が沢山届き、肉には不自由しなかったとか、請われて専売公社で働き始め、ここで は煙草をもらい、近所の人に分けてあげると、お礼にお米が返ってきたとか、戦争中でも物質的には随分恵 まれていたようだ。この平和な(?)暮らしも戦争終結前後になって崩れていく。まず、一人息子を病気で 亡くし、更には、復員してきた夫が、還ってきて僅か三日目にメチルを飲んで死んでしまう。息子を死なせ てしまったことをどう伝えようかと悶々としていた矢先の出来事で、正直ホッしたともいう。暗いはずの話 なのだが、語り口に悲惨さは微塵も感じられない。過ぎ去った時間の長さもさることながら、河上さんのさ ばけた人柄のせいだろう。

 河上さんの戦後は「独り暮らし」を始めるところから出発する。親戚の人の紹介で病院の付添婦として出るようになるのだが、物事をはっきり言ってしまう性格が災いして敵も多かったが、同時に、ひいきにしてくれる人も多く、時には、指名されて名家に出張にも出かけたそうである。休暇をとって香港に行ったこともあり、その時はその時で、団体行動からはずれ、香港人と結婚している日本人女性と知り合い、その夫婦のやっているレストランを手伝うことになったとか。結局、香港には丸一月滞在したという話だ。

そんな河上さんがどういう経緯で明美荘の管理人になったか、そこのところは聞き漏らしてしまった。特別愛想がよいわけでもなく、むしろ、表面的には不愛想な部類に入る人かもしれない。アパ-トの住民は20代の男女が多かったから、時には苦言を呈してくれる河上さんを煙たがるむきもあったが、僕などは不思議に相性が良かった。

 明美荘を出てからも、仕事場から近かったので、年に数回の割りで話に伺っていた。京都を離れてからは、さすがに会うチャンスは少ないのだが、5月末、僕の結婚記念パ-ティ-を京都でやって貰った時、声をかけたら出かけてきてくれた。旧明美荘のメンバ-も集まっていたのでちょっとした同窓会気分を味わうことができた。その時聴いた話では、河上さんは最近、ボケ防止にと三味線を習い始めたそうである。

○明美荘 東海道線西大路駅の近く、京都市南区にある木造二階建の古いアパ-ト。昭和の初めに近くの工 場で働く工員のための寮として建てられたそうである。広い廊下を挟み、四畳半プラス板間一畳の部屋が並ぶ。 総部屋数18。各階に共同炊事場とトイレ、一階に洗濯機有。若い独身者が多いが中高年の単身者、夫婦づ れも住んでいた。家賃は1万3千円(現在も同じらしい)。78 年9月から 82 年2月までの3年半ここで 暮らした。小栗栖さん、済木夫妻も一時期このアパ-トで一緒で、不思議な半共同生活を送っていた。我々 四人を訪ねてくる人たちも多く、京都の宿泊所の機能も果たしていたように思う。料理好きの済木さんを中 心にパ-ティ-も頻繁に催され(来客があれば即パ-ティ-)、僕の主催したカレ-パ-ティ-に20人 (四畳半の部屋に!)集まったこともある。ここに出入りしていた顔ぶれのうち今でも京都に住んでいる人 はほんの一握りになってしまい、時代の流れを感じてしまう。

1987年5月1日金曜日

異文化を通して見えてくるもの

まだ京都に住んでいる頃、米国に本校のある小さな大学のアジアプログラムで働いていました。学生の数は二十名程度でしたから規模としては小さなものです。それでも、毎年春と秋の二回やってくる学生の面倒をみていくのはなかなか骨が折れるもので、三人の職員が「何でも屋」になって仕事をこなしていました。カリキュラムやプログラムを組んでいくことに始まり、ホ-ムステイの依頼、日本語クラスのアレンジ、 研修旅行の引率、 カウンセリング、更には、この学校が「体験学習」という「現場主義」を旗印にしていたため、各々の学生が関心をもっている分野の「現場」で勉強できるよう、その道の教師・専門家なり団体(墨絵の先生から貿易会社まで)に学生ひとりひとりを紹介していく必要もありました。一方、学生の方は、風俗習慣の違った国に住み、日本語を学び、専攻分野の勉強もし、その上、学校に提出するレポ-トも書いていくわけですから、やりたいこととやらなければならないことの板挟みになることはしょっちゅうです。これに、カルチャ-ショックが重なってくるので、程度の差はあるにせよ、殆どの学生が一時的なパニック状態を経験していました。

カルチャ-ショックというのは風邪のようなものに違いありません。カルチャ-ショックは「異文化と接触することによって引き起こされる不安」とでも定義されているのでしょうが、当然体の変動としても現われてきます。実際に風邪をひいて熱を出すこともあり、私は「カルチャ-ショック熱」などと呼んでいました。生活する環境が大幅に変わるわけですから緊張もしますし、新たな調和へ移る過程の中で身体的反応が起こってくるのは自然なことでしょう。ひどく活動的になったり、感情の起伏が烈しくなったり、本の世界に閉じ篭もってしまったり、食べものに走ったり、学生によっていろいろな調整反応がでてきますし、落ち込みに、二週間目、一ヵ月目、三ヵ月目というような法則性もあるようでした。風邪と同様、あまり焦らず自然に経過させるようにすればいいわけですが、待つことの下手な学生も多く、また、困ったことに、学生を日本に導いたところの「学校」という制度が、学期という人為的な期限を設け、それまでに学習の「成果」を目にみえるかたちで提出するよう学生に強要するものですから、ますます、自然の経過を邪魔する結果になっているのです。残念ながら、一応、進歩的教育をおこなっていると自称しているこの大学にしても、人間の自然のリズムや「間の活用」に考えが及ぶほど進歩的ではなく、まだまだ短期展望の実利主義から抜け出ていませんでした。学生の裡の自然と、学校制度をなんとか折衷させるのを仕事と考えていた私ですが、本来、相入れることのできないこの二つの要素を両立させることには、自ずと限界がありました。

「国際教育」とか「異文化交流」と呼ばれているものが、今流行っているようです。これだけ、交通・通信網が発達し、複雑になり、実際に人間や物や情報が多量に往き来している時代ですから、確かに国際教育の必要性はあるに違いありません。でも、これに人間の理解というものが伴わなければ意味をなさないということが存外忘れられていて、言語の習得であるとか、むしろ技術的なことばかりが前面に出ているのは不思議です。結論じみたものを最初に言ってしまえば、「人間は所詮人間だということに気づくこと」、更に言えば、「人間が一人一人違うことに気づき、自分自身のことをもっと知ること」が国際教育の目的ではないかと思っています。このようなことをいうと、あまりにあたりまえのことなので、とりたてて国際教育を持ち出す必要はないと思われるかもしれません。実際、その通りで、国際教育と呼ばれているものは、この自明さに気づくための一つの方便に過ぎないと考えています。でも、使い方によっては、この遠回りが有効性を発揮することも確かなのです。

外国に行くと先ず目に入ってくるのは「異い」です。異なった言語、異なった習慣、異なった思考回路....自分の常識が通用しない世界を発見するのは新鮮な驚きです。でも、暫くすれば人間としての共通の基盤も視えてきます。生まれ、成長し、愛し、働き、年老い、死んでいく生活。友達もできれば、外国人として一つに括っていたものが、段々、ひとりひとり異なった顔を持った生身の人間として見えはじめ、同じ時代に生まれあわせていることを実感します。。相手がどの国の人間であろうと十人いれば十の個性があるのです。事あるごとに、日本人の代表選手として「日本人ならどう考えるの」と意見を求められると「日本人」と「私」のあいだに隙間があることにも気づきはじめ、私達が「文化」と呼んでいるものに、人を育んでいくのと同時に、人を枠の中に閉じ込めていく側面があることに思いが及びます。「私イコ-ル日本人」ではなく、まず在るのは「私」という個性なのです。そうしているうちに「日本人は....」、 「アメリカ人は....」、「韓国人は....」といった議論がいかに乱暴であるかということにも目覚めてきます。勿論、文化の違いを否定したり、無視するつもりはありません。現在、国際教育の現場で広く使われている、人間集団の行動様式をパタ-ン化・一般化していく文化人類学や社会学の理論は、未知の文化に入って行く個人に有効な手掛りを与えてくれるものです。しかし、同時に、平均的パタ-ンからはみだしている人間を例外として認識するよう作用したり、あたかも、民族性・国民性と呼ばれているものが個々人の個性以前に存在してるような幻想を与えてしまいがちです。「典型的xx人」というのはイメ-ジとしてあるだけで、現実にはいないのです。

共通なもの(同質性)と違うもの(異質性)の関係性を外国(人)という存在を通して学んでいくのが国際教育ではないかと思います。ことばを使って暮らしている私達は、ことばの分類作用のために同質性と異質性が独立していて重なり合わないものだと思い込んでいる節があります。でも一つの現象には両方が含まれていて、その中の何処をみるかによって共通点でも相違点で掴み出すことができるのです。国際教育の現場で、人間や文化の共通点だけを取り上げていれば、人間皆兄弟的な「夢」をふりまくだけで、現実的付き合い方は生まれませんし、逆に、相違点だけに目を奪われていれば、貧しい民族優劣論が導き出されてしまうことになりかねません。「外人」といった国籍という属性や文化的背景まで取り去ったラベルを生身の人間に貼りつけて、人間としての共通性を無視したり、逆に、「日本人同士なら話は通じる筈だ」と勝手に思い込んでみたり、単純明快な安心を求めるあまり、便利な言葉の世界に逃げ込んでしまう傾向が私達のなかにあります。でも、共通性と異質性は不可分の関係にあるのです。共通性があるからこそ、異質さも感じられるといえばよいでしょうか。このことに人間関係のなかで気づいてくれば、違いは違いとして認めたまま、付き合い方を工夫できるようにもなりますし、同質性や異質性を大上段に振りかざす理論に、眉に唾をつけて耳を傾ける知恵も生まれてきます。

他人のことは見えても、それを見ている自分がどんな姿をしているか、一筋縄では見えてこないものです。私達は「他」と出会うことで初めてこの「自分」に気づくのかもしれません。国際教育における外国・異文化も、普段の暮らしの中での他人という存在も、自分の姿を映し出してくれる鏡であるといえるのかもしれません。それにしても見えてこないのがこの自分の姿なのです。
(初出 『月刊全生』 1987年5月号)

1986年5月30日金曜日

【蔵出し】韓国への旅 1986.5

<白雲山上蓮台へ> 

一旦東京に移ってしまうと、T和尚との約束を何時果たせることになるか分からないので、引越荷物をバタバタと一週間でまとめ、ソウルに向け旅立った。これまで、学生を連れて韓国を旅したことは何度もあるのだが、今回は、京都にある小さな禅寺のお坊さん達と一緒に韓国仏教の名刹や修行道場を廻ることになっている。

KE721 便で大阪空港を出発。金浦国際空港到着後、定宿の雲堂旅館に電話したのだが、満員で部屋はないという。夜までにはまだ時間があるので、とりあえず、市内までエアポ-トバスで行き、光化門の近くにある知人の仕事場に電話。突然のことにさすがに驚いたらしいが、構わないというので仕事時間中ではあったがお邪魔する。H女史は言語教育研究院という語学学校の韓国語セクション責任者で、ソウル在住の外国人(日本人も外国人です。念のため)にサイレントウェイという方式で韓国語を教えると同時に、教師を指導養成する立場にもある40代後半の女性。いつもながらエネルギッシュに仕事をこなしている。再会を喜ぶとともに、共通の友人知人の消息を伝え合う。ここに来ると流れるような綺麗な韓国語を耳にすることができる。教師は皆、年令に関係なく知的でユ-モアに溢れている。しかも、研究熱心。

曹溪宗(禅宗)のお坊さんであるM和尚には、あらかじめT和尚たちと一緒に来るからと連絡しておいたのだけれど、なかなか居場所がつかめない。ソウル市内には居るはずなのだけれど。若い友人に手伝ってもらい、知り合いの仏教書籍の店や、M和尚のお弟子さんのお寺に電話するのだがそこにも居ない。とにかく、旅館の電話番号を教え連絡を待つことにする。連絡が入ったのは翌晩。いつもながら便利とは言い難いところに部屋を借りている。とにかく、地図を頼りに市内バスに乗り、打ち合せにでかけることにする。教えてもらったバス停の名前だけを手掛りに夜のソウルを動くのは難儀で、結局、バス停をひとつ乗り過ごし、また戻るということをしながら、なんとか目的地に辿り着くことができた。相談の結果、僕が単独でプサンまでT和尚一行を迎えに行き、その足で、慶尚南道にあるM和尚のお寺、白雲山上蓮台に案内することで話がまとまった。

ソウルからプサンまで高速バスで移動。アジア大会とオリンピックを控え、ソウルの地下鉄も路線があっというまに増え、漢江の南にある高速バスタ-ミナルへも地下鉄でに行けるようになった。韓国の高速バス網は驚くばかりで、ソウル-プサン間 450キロを5時間半で結び、しかも、朝6時から夜6時まで5分間隔で出ている。そして低料金。すざまじい数の人間が毎日動いている訳だ。途中何箇所かには、緊急時(理論上、韓国は今でも戦争状態にあります)に滑走路として使えるよう中央分離帯のない直線路も設けられている。夕刻6時プサン到着。宿は愛隣ユ-スホステルと決め、早速、西光寺に電話してみる。あちらも準備万端整っているらしい。夜のプサンへ。魚市場近くの食堂へ夕食に入り刺身定食を頼むと、小骨が残っている魚の切身が皿に山と載ったものが出てきた。夕食後、安聖基主演の映画を観る。

プサン金海空港に僧衣にバックパックとスニ-カ-姿で現れたT和尚を出迎える。R和尚も一緒。Rさんは日本の外に出るのが文字通り初めて。でも、その割りにはリラックスしている。これから三人で白雲山上蓮台禅院を訪ねる。咸陽行直行バスは晋州までは高速道、その先は田舎道を走って行く。咸陽まで、途中の休憩を入れて3時間半。乗客にはお年寄りや子供連れも多く幹線のバス路線と違い生活の匂いが溢れている。咸陽から白雲山の麓の村まではタクシ-を使い、そこからは徒歩。麓で雑貨屋をやっている人がお寺に連絡の電話を入れてくれた。途中まで誰かを迎えによこしてくれるとのこと。実にのどかな田園風景。韓国の田舎にくると、自分が育った昔を思い出す。畑あり、田あり、牛がいて犬も散歩している。畑の間の小径を山に向かって抜けて行く。晩秋の紅葉も見事だったが5月の新緑も美しい。小川を石づたいに渡り、ますます細く、急勾配になっていく径を登っていく。半分くらい登った頃だろうか、上の方から人が下りてくる。M和尚の弟子のSさん、それに、お寺に住んでいるらしい若者。我々から無理矢理荷物を取り上げて運んでくれる。最後の胸突八丁の坂を登りきると視界がさっと開ける。白雲山上蓮台に到着。汗びっしょりの体も、まるで毒素が抜けていったようで快い。時間はすでに夕刻。食事の支度か、それとも、オンドル用に燃している薪か、煙突から白い煙が上がっている。

白雲山という1200メ-トル程の高さの山の中腹にあるこの小さな禅院は、随分長い間放置されていたものをM和尚が再興したものだとという。再興の途中と言ったほうが正確かもしれない。急な斜面に簡素な建物が三棟だけ建っている。在家の人も何人か住み込んでいて、食事をはじめ、日常生活の世話をしてくれている。本尊の置いてある棟が本堂であり、座禅堂であり、また、食堂でもある。食事はオンドルの床の上にステンレスの食器を並べていただく。勿論、菜食。山菜は新鮮で豊富。それにご飯がとにかく美味しい。山の清水-「薬水」と呼ばれている-を使って炊いているせいだろうか。韓国だけあってキムチ(但し、ニンニク抜き)も欠かせない。
コツッコツッという歯切れのよい木魚の音が山に谷に木霊する。時刻は早朝4時。寺の一日が始まる。セ-タ-を着込み、懐中電灯を手に外に出る。息は白い。夜明け前の星が空いっぱいに輝いてる。暗闇のなか、三三五五人々が本堂に集まってくる。M和尚が現われたところで朝課開始。三帰回文に続き、般若心経を詠み始める。同じ般若心経なのだが韓国語読みでやると随分違ったものになる。節まわしも独特。石牛さんの声は朗朗としている。でも、無虚和尚がやると、なんだかコミカルに聴こえてしまう。小さな木魚を左手に、ばちを右手に持ち、礼拝とともにポクッ、ポクッ、ポクッ、.... と鳴らしていくのも面白い。お経の詠み方にしても日本のお寺(といってもT和尚の寺しか知らないのだが)で聴く丁寧、正確無比のお経に比べると、いかにも素朴で骨太なかんじ。お経が終わると座禅。座布団の上にめいめい座る。暝目してもしなくてもいいらしい。今度は、竹を割った扇のようなものを手で打ち、バシッと音をたてて、開始終了の合図とする。朝課が終わる頃には朝もしらんでくる。朝食までは休憩。部屋に戻り、また布団に潜り込む。

午前中、お寺から少し離れたところにある土窟とよばれている暝想室に行ってみる。いわば独り篭もって「摂心」をやるような小さな庵。見晴らしも抜群によい。T和尚、Rさんはかわるがわる部屋の中央に坐り、坐り具合を試している。午後、皆で白雲山に登ることになる。木立の間の細い道を登って行く。傾斜は麓から上蓮台までの道よりずっと険しい。しばらく行くと平坦な草地に出たのでここで休憩。もう既に汗びっしょり。頂上はまだ遠い。また少し登ると、今度は、見晴らしのきく大きな岩のところに出る。そして、この岩からほんのちょっと離れた処にもう一つの岩が見える。座禅石、つまり、その上に坐って座禅をする岩だという。さっそく、Rさんはその岩に坐り座禅のポ-ズ。Rさんの後に下界がパノラマとなって広がる。

M和尚とT和尚は、因縁のライバルのようなところがある。実際、お互いを、評価しながら、批判的に眺め、張り合っているような面があり、双方をよく知っている僕としては、こうして二人のお坊さんと一緒に旅すること自体とても興味深い。

<海印寺へ> 
白雲山を下り、海印寺へ向かう。まずハミャンまで戻り、そこからバスを乗り継いで行く。我々三人にM和尚とSさんが加わり総勢五名。海印寺は韓国三大古刹の一つに数えられている由緒あるお寺で、特に八万大蔵経で有名である。欝蒼とした森のなかにあり、大小の寺院、僧堂、それに僧侶養成のための大学もある。僕にとっては3回目の訪問。 僕が初めて韓国に来るきっかけとなった76年夏のFIWC (フレンズ国際) ワ-クキャンプに参加した際、日帰りのバス旅行で訪れ、また、84年冬には、出会った次の日に無虚和尚に連れられて来たことがある。真海和尚によると、この海印寺は永平寺の雰囲気によく似ているとのこと。海印寺ではM和尚の師匠にあたるI禅師の知足庵にお世話になる。我々が着いた時には、日本を遅れて出発したYさんが既に到着していた。Yさんは、インド哲学、実質は仏教学を専攻している大学院生。授業の関係でT和尚とは一緒に出発できず、海印寺で合流する予定にしていた。プサンからちゃんと一人でここまで辿り着いたようだ。

I禅師は「宗正」という海印寺で一番高い地位にある方で、永平寺でいえば「管主」に相当する地位にいることになる。禅師は永平寺を訪れたこともあるそうで、日本仏教の事情にも詳しい。日本ではあまり知られていない韓国仏教の歴史や現状を親切に教えていただいた。出家仏教が中心の韓国仏教者にとって僧侶が妻帯する日本仏教の現状はある種の堕落に映るらしい。それでも、仏教研究学における日本の学者が果たしている役割は大きいそうで、日本で発行された仏教研究書がI禅師の書架に所狭しと詰まっている。

そもそもT和尚が韓国、特にこの海印寺を訪ねてみたいと考えたのには理由がある。曹洞宗の開祖である道元禅師から数えて六代目にあたる肥後の大智禅師というお坊さんがいた。そのお坊さんは、修行のため中国に渡り、その帰国の途中、船が難破してしまい朝鮮半島に漂着する。結局、朝鮮のある僧院で修行を続けることになるのだが、在高麗時に詠んだ漢詩数篇が残っているだけで、はたしてどのお寺で修行をしていたか判らないでいた。ところが、そのお寺が海印寺であり、また、詩にでてくる高僧は、現在、海印寺白蓮庵に居住されるL老師のようなお坊さんに違いないという説が十年程前、日本のある仏教学者によって言われるようになった。

T和尚のお寺で在日韓国人の若者を引き受けたり、韓国からM和尚が訪れてきたり、T和尚の在家の弟子が無虚和尚の許で暫く修行することがあったり、様々な縁が絡み合い、T和尚自身も韓国を訪れる気になったらしい。そこで、海印寺に来たからには、是非、L老師にお会いしたいと、I禅師を通して面会を願い出た。

L老師というのはめったに人に会わないことで知られており、国の大統領が面会を求めても、会いたくない時には会わないそうである。逆に、国の大臣を呼びつけることさへあるという話だ。伝説じみた人であることは間違いない。案の定、T和尚の面会希望は断られる。しかし、T和尚も情熱の人、三千拝(過去・現在・未来の計三千の仏の名前を一つ一つ詠みながら五体投地を繰り返す修行)をすれば面会を許されるでしょうかと食い下がる。それでも否定的な返事しか戻ってこないので、ついには、白蓮庵に押しかけるという非常手段をとることになった。総勢6名で白蓮庵に向かう。知足庵から一度谷を降り、そこから、再び山を登ったところにある。まず、M和尚が白蓮庵の若いお坊さんに声をかけ、面会を申し入れる。「老師はお会い致しません」との答えが返る。これを何度か繰り返し、結局、庵の中の一室にに通される。皆の緊張が更に高まる。特に普段はのんびりしている無虚和尚が何時になくピリピリしているのが伝わってくる。お茶が運ばれ、果物が運ばれる。「いつまでお待ちになっても老師はお会いになれません」と取次役のお坊さんは答える。「そこをなんとか」とM和尚は食い下がるのだが、とりつくしまもない。一時間たち二時間近く待っただろうか。結局、諦め、白蓮庵を辞することになる。帰り道、「お会いできなくて良かったのかも知れない」とT和尚。これで良かった、という思いが僕の中にもあった。こうしてT和尚が念願の海印寺を訪れただけで十分、この上、L老師に会ってしまえば、逆に、次に繋がっていかない、そんな気がしていた。僕にとっては、T和尚の仏教者としての真摯さ、M和尚の献身的とさえいえる態度に接することができただけで有難いと思った。

知足庵に二泊した後、僕は、T和尚一行と別れ、大邸経由でソウルへ戻り、帰国の途につくことになる。こうして、僕の十ウン回目の韓国旅行は終わることになるのだが、それまで学生を引率してあちこち回ったのとは一味違う旅となったことはいうまでもない。T和尚一行は、その後、慶州・釜山を回り、フェリ-で日本に無事帰って来たそうである。僕は、ソウルから東京へ直行し、その翌日から整体協会で働き始めることになる。つまり、東京暮らしの第一歩を踏み出した。1986年の5月28日のことである。

宇奈根通信 #10 1987.4.20  + あざみ野通信 #13 1987.7.5