2003年12月24日水曜日

大人の気分

■鎌倉稽古場のソファーに和服姿で、ゆったりした心地で座っている。この気分をどう表現すればよいのだろう、と言葉を探しているうちにたどり着いたのが「大人の気分」。 

 ■課外稽古として鎌倉稽古場で「着付け」をやっていることは、随分前から知ってはいたけれど、あまり興味を持たなかった。それが、来年の正月こそは和服で過ごそうと発願した結果、Hさんの指導する着付け稽古に出かけていくことになった。そこで、巡り会ったのが、「大人の気分」なのである。和服の「着方」を習いにいったつもりが、「大人の気分」と会う。得した気分ではあるけれど、同時にショックでもある。 

 ■今年はこんなことばかり。50を過ぎてなにもしらない自分と対面させられる。二年ほど前、「動法ー異文化としての日本的身体技法」と題した動法カリキュラム案を作成したことがある(気刊あざみ野通信178号)。当然のことながら、動法を通して日本文化の一端を「私は知っている」という前提で書いている。実際、そのように思っていた。ところが、ここまでたてつづけに、「無知さ加減」をおもいしらされると、そのような前提はいとも簡単に崩れ去る。崩されるというのは、快感ではあるのだけれど。

 ■Hさんの着付け指導は見事だった。着ること着せること自体が「技」の世界。肌着を着け、襦袢を着け、その上に着物を着る。衣が重なるごとに、その衣がなくなっていく感覚に、オーっと感嘆しながら、同時に、「つまり、僕はこれまで稽古着さえ、ちゃんと着たことがなかったのだ」ということをしる。帯を締めるとは、帯を引っ張ることではなく、芯をひきしめることだと、しっているはずのことを、「でもこうなのよね」とだめ押しされる。参ったな。 

 ■和服を着ると、その人らしさがより強調されるのも不思議だ。若旦那風のMさん、武芸者然としたAさん(武道系の人ではない)。洋装なら、そのファッションセンスといったもので表現される人柄が、和服だともっとストレートに表に出てくる。Hさんによると、着付け方によって、あるいは、誰が着付けるかによって、印象がまるで違ってくるそうだ。きっとそうだろうなと思う。

 ■整体の稽古からはじまり、お茶に出会い、和服に出会う。私の2003年は、このように暮れつつあります。

(気刊あざみ野通信 265 2003/12/24)