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2024年4月23日火曜日

1974年4月

 1974年3月を振り返るはずだったのに、気がつけば、もう4月の下旬ではないか。3月は飛ばして、まずは、半世紀まえの4月を振り返ることにする。

 フィールドプロジェクトは三ヶ月と定められていて、学生たちは、4月にはニューヨークのキャンパスで再集合する。しかし、自分は、三ヶ月でここで何を学んだというのだ。やっと、子どもたちとの関係ができあがってきたばかりではないか。もう少し、ここに留まりたい。アドバイザーに連絡し、こちらの希望を伝え、サンタフェ滞在を学期が終わる5月末までのばしてもらうことにした。4月の再集合(evaluation period)の代わりに8月にある編入生のためのオリエンテーションに参加すればよいとの許可も得た。

 4月前半は、こんなかんじ。

4月1日santa feu.s.a.料理当番 すきやき
4月2日santa feu.s.a.
4月3日santa feu.s.a.
4月4日santa feu.s.a.
4月5日santa feu.s.a.
4月6日santa feu.s.a.
4月7日santa feu.s.a.
4月8日santa feu.s.a.フィールドトリップ Rio Grande Zoo
4月9日santa feu.s.a.
4月10日santa feu.s.a.
4月11日santa feu.s.a.
4月12日santa feu.s.a.イースター休暇
4月13日santa feu.s.a.


 4月半ばでイースター休暇に入る。学校もしばらくお休み。この期間を利用してメキシコに出かけることにした。以下は、十年前に書いた記事。

1974年4月 To Mexco

2024年2月5日月曜日

1974年2月

 僕にとって、「書く」という行為が習い性になってしまったのは、FWCでのジャーナルライティング(journal writing)をやり続けたいせいだ。おそらく、このブログも、その延長線上にある。それだけでも、FWCには感謝すべきなのかもしれない。

 数カ月の間キャンパスを離れ、学生はそれぞれのフィールド・プロジェクトに出向いていく。そこでの経験をジャーナルと呼ばれていたレポートにまとめ、毎月、本部キャンパスにいるアドバイザーに送り、フィードバックをもらう。フィールドプロジェクトを終えキャンパスに戻ったら、それをひとまとまりのレポートにまとめ上げる。このジャーナルに加え、アドバイザーによる評価、フィールド先の担当者による評価、そして自分自身による評価。それらが総合されて「単位」を取得していくシステムであった。

 体験学習をどのように評価していくのかは難しい。それを大学という枠組みでやろうとしていたFWCそのものが、「実験的」存在であった。大学を名乗りながら、泳げない子をいきなりプールどころか、流れのある川に放り込むような乱暴なプログラムであったともいえる。アカデミズムにはアカデミズムのカタというものがある。カタのない大学は可能なのか。学生の間でも意見は真っ二つに分かれていた。つまり、「大学は何もしてくれないではないか」という不満派がいて、他方、「これだけの自由が与えられてありがたい」という肯定派もいたわけだ。

 この年の8月に提出したジャーナルのコピーが手元に残っているのだが、思いの外、しっかりした英語で書かれているので驚いた。作文レベルでいえば中3程度のものなのだと思うのだが、ちゃんとしたものだった。持っていった辞書は研究社の英和和英小辞典一冊のみ。この辞書は旅の供となり、皮の表紙がボロボロになるまで使った。

1974年2月 Santa Fe

2024年1月8日月曜日

1974年1月

1974年の新年を僕はニューメキシコ州サンタフェで迎えた。
と、ここまで書いて、同じ文章を十年前に書いていたことを思い出した。
まったく懲りないというか、進歩がないというか、我ながら情けない。
それでも、十年前より今年の方が、「あれから半世紀!」という意味では懐古のしがいがありそうだ。なので、懲りずに十年前の企画を続けることにする。そもそも、10年前の2014年の8月という暴風雨が襲う直前のタイミングで、このような文章を書こうと思い立ったのか、今となっては謎である。今年一年かけて半世紀前の一年間を振り返ってみようと思う。すでに書いたものは、そちらにリンクを貼り、書き足りてないものは、新たに付け加えることにする。

1974年-序 why 1974?

1974年1月 Santa Fe


 十年前の文章を読み返してみて、「なんでサンタフェの地に降り立ったのか」という説明がない。なので補足します。

 工業高専を卒業したのが1973年の春。その半年後、僕はFriends World Collegeというクェーカー(Friends Society)が立ち上げた小さな大学のニューヨークキャンパスにいた。3ヶ月のオリエンテーション、3ヶ月のフィールドワーク、そして、キャンパスに戻って2ヶ月のまとめ、レポート提出。一年間をこのように区切ったカリキュラムが組まれていた。最初の3ヶ月は悲惨そのもので、ただただ英語と格闘していた。課題図書として、フレイレの「Pedagogy of the Oppressed」、イリイチの「Deschooling Society」、デューイの「Experience and Education」をポンと渡された。日本語で考えることができなくなっていく。なのに英語は出てくる気配はない。言語の空白地帯を彷徨っていた。

 第二期のフィールドワークは、学生各自の関心に応じて、学生たちはアメリカ国中に散らばっていく。今でいうインターンのようなものか。僕をボランティアとして受け入れてくれたのがサンタフェにあるSanta Fe Community Schoolというフリースクールだった。キャンパスでの寮生活もカオスであったが、サンタフェで待っていたのは更なるカオスだった。ちなみに、当時の僕の英語力は極少である、というか、今でも英語力は十分低い。