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2026年1月15日木曜日

Quantum Body?

室野井さんの「ダンサーは消える」を読み進めていくうちに、ローマでのワークショップの中で、イタリア人記者/研究者との対話が出てくる。その人-Maria Pia D’Orazi-の書いたものをネットで探してみたら、室野井さんとも繋がりのあった笠井叡についての論稿があり、その中では裕之先生の「The Idea of the Body in Japanese Culture and its Dismantlement」の論文にも言及されている。論文のタイトルはなんと「Butoh Training and the Quantum Body」。やっぱり、こういっちゃうんだと、妙に腑に落ちた。

身体教育研究所の前身となる整体法研究所が設立されたのが1988年。それとほぼ同時に、「内観法」という言葉が生まれ、それに対峙する言葉として、「客観法」という言葉が置かれた。当初は、なんとも身も蓋もない言い方だなあ、という印象だったが、こうして、30年以上稽古していると、内観と客観という対比のしかたは、やはり正しかったのだと思う。内観法に代わる、つぎなる名称も考えられているらしい。

身体観を取り替えるというのは一朝一夕でできることではない。稽古稽古で、いってみれば、デカルト=ニュートン的古典物理学思考から、量子力学的思考へ頭の中を切り替えようとしているわけだ。現実世界は、前者を前提として組み立てられているから、いっとき後者的経験をしても、あっという間に、前者に引き戻されてしまう。この繰り返し。僕のように中途半端な者にとっては、これが腑に落ちるまで長い道長い道のりだった。一度腑に落ちると、なんだこんなことだったのかと思うだけで、特段、達成感があるわけではない。これまでやってきた稽古の意味が「わかる」だけ。これで、やっと出発点にたどり着いたということなのかもしれない。

英語で書かれた論文を読んでいると、身体の活動をどのようにデカルト=ニュートンから離れて表現しようとしているか、その苦労のあとが読み取れて興味深い。量子力学の援用にはアナロジー以上のものがあると思っているけれど、キワモノに堕す危険性を常に抱えている。今年も、バラッド「宇宙の途上でで出会う」を読み進めていくことにしよう。

2025年7月11日金曜日

整体3.0

今回のヨーロッパ遠征のテーマは整体3.0。
なんで3.0なのかに、あまり意味はない。敢えていえば、new schoolの整体。

とはいえ、稽古としてやったのは、ただひとつ「隙間をとらえる」という「整体以前」と呼ぶべき稽古のみ。紙風船を使い団扇を使い、手を変え品を変え、ひたすら、体を捌き、間に集注するという稽古のみ。

活元運動を知っている人もいるようだったので、その準備運動を動法的にやろうかとも思っていたのだが、ある稽古の途中、脱力的な動きが出てきたと思ったら、それが、よく見かける、観念運動的活元運動まがいのものに変わってきたので、こりゃダメだと、活元運動には触れずじまい。習慣化された自発運動ーhabitualized spontaneous movementsなんて語彙矛盾に決まってる。

愉気の型で人に触れることを教えようとしたら、それまで受動的な感覚で人に触れる稽古をしていたはずなのに、掌が相手の体に届いた途端にやる気満々の能動の集注に変わってしまったので、これも中断。触れられている人が触れている人を身体集注に導く稽古に切り替えた。日本の稽古会でもよく見かける風景なのだけれど、整体3.0は難しい。

整体はmethod方法ではない。整体を生きるためのartなのだと強調してきたけれど、はたしてどのように受け止められたのか。そうそう、稽古場を説明するのが面倒で、整体協会にはold schoolとnew schoolがあって…と話することにした。使い勝手はすこぶるよい。その二つはどこが違うんだという質問が次に飛んでくることからは逃れられないけれど。

2025年5月20日火曜日

身体観を変える

出発まであと三週間。

ヨーロッパ行きが決まったのは去年の10月だったから、十分な準備期間はあったはずなのに、あっという間に時間が過ぎてしまった。この間なにしてきたかというと、稽古の内容を考えるというよりも、自分の整体人生を振り返り、稽古場の歴史を辿っていた。

2回稽古会をやることになっているのだけれど、後半の方は、整体になじみのない人に、しかも通訳なしの英語でやるという無謀な選択をしてしまったので、体とはなんぞや、カタとはなんぞや、内観とはなんぞやといったことを英語で話そうと作文に励んでいる。考えれば考えるほど、頭の中はカオスに向かう。

内観を英語で説明しようとすると、えらいことになってしまう。なんで、身体観を変えろ変えろと言われ続けてきたかやっと分かった。身体観が変わらなきゃ、内観なんてできない。今ごろそれ言うかと突っ込まれることは重々承知。でも、身体観が変わるとは、世界観、人生観が変わることでもある。

途中から、紹介されて読みはじめた難解な量子論の本は補助線として有効。客観と内観は、ニュートン力学と量子力学ほど違う。つまり、世界の記述の仕方が異なっているのだ。

今更ながらの発見の連続。

2025年3月11日火曜日

紙風船

 講義の中で「室伏くんが紙風船の稽古を流行らせててね〜」という師匠の話を聞いて、ググってみたら、なんとスポーツ庁のホームページで紙風船エクスサイズなる動画までアップされている。スポーツ庁長官って、ひょっとして偉い人なのか。

 彼が稽古会にはじめて現れたのは足柄で合同稽古合宿をやったときだと記憶している。1996年10月開催、参加者318名という記録が残っている。あれから30年近く経つのだ。本部稽古場にハンマーの球がゴロゴロ転がっていた時期もある。時に京都の研修会館の稽古会に現れ、女性陣に取り囲まれている写真も残っている。

 それにしても、あんな凶器にしか見えないものを、ブンブン振り回す競技ってなんだろうと、その後興味を持ってオリンピックや世界陸上を観ていると、もう野獣としか思えない筋肉隆々の選手たちが雄叫びを上げながらハンマーを投げている。筋肉増強剤全盛の時代で、ドーピング検査で引っかかる競技者も多かった。僕らからすると十分巨体の室伏選手が華奢に見えるほどであった。競技選手のドーピングには厳しいくせに、自身のドーピングには甘い観客というダブルスタンダードな変な世界。

 竹棒団扇ほどに紙風船が稽古道具として定着したという話はあまり聞かないが、室伏くん(もはや君付けでは呼べないけれど)が紙風船を抱えていると、ちょっと微笑ましい。ハンマー投げの球は7キロの鉄の塊。それに対して紙風船はわずか数グラム。大きさは似たようなものだろう。それを鉄人室伏がやるとコントラストが際立ってお洒落。動法とも内観とも言わず、無いものへの集注、つまり身体を引き出している。そりゃ、ラジオ体操よりも紙風船エクスサイズでしょう。



2025年2月18日火曜日

SKIMA

4年前、コロナ禍の真っ最中、リモートで稽古したベルリン在住のダンサー/コレオグラファー、Lina Gomezさんから、そのときの稽古にインスパイアされ、「SKIMA」という作品が出来上がったというメールをいただいた。こんな風に作品化できるんだと、ちょっと感動。オンラインだけで、まだ本人とはお会いできてないのだけれど、この夏会えることを期待している。

https://vimeo.com/user21474509/skima





2025年1月25日土曜日

宇宙の途上で出会う

某公立大で教えるHさんに教えてもらった一冊。
今年一年かけて読んでいくつもり。
一部9900円。重さ900グラムの大著。
お試しに府立図書館から借り出して読み始めた。
刺激的かつ難解。
人文哲学系の用語と物理学の用語が同じ頻度で出てくる。
人文哲学系の用語はなじみがなく難解。
意外に自分が理系であることを知る。
貸出期限内に読み通すことは困難。
よって自費購入に踏み切る。
ただ買ってしまうと、返却期限のある図書館の本を優先して、
積読コーナーに追いやられる危険性がある。
実際、その様な本は一冊二冊ではない。

主役はニールス・ボーア。
一世紀前を生きたデンマーク人理論物理学者。
1962年没とあるから同時代人ともいえる。

ニュートンの古典物理学の用語で内観的身体技法は語れない。
では、量子力学の用語では可能なのか?
壮大なテーマに挑むことになる。
こうご期待。
一緒に読んでくれる人も募集中。



2025年1月12日日曜日

なじむ

寝床から抜け出す前に自分のお腹に触れてみる。
え、もう禁糖なの?
腹部第2調律点が右手薬指でなじめば該当者となる。
うーん、去年より2週間もはやい。
おまけに来週末は白山稽古会がある。
とはいえ、2週間の禁糖生活に入れば、なんかの行事と重なることは避けられない。
で、いきなり禁糖開始。

では、なじむって、どういう感じなのか?
これを英語で説明できるのか?
日本語でだって説明はむずかしいぞ。
なじみの稽古って、稽古会の最初期からやっている。
二者が掌同士を合わせて、そのなじみを崩さないように、転がったり起き上がったりしていた。

同調の感じと言い換えても、伝わりづらい。漢字語だからなのか。
日常生活で使うとすれば「なじみの店」といったところ。
「なじみの店で食事する」とgoogleに問うと、Eat at a familiar restaurantと返してくる。
なじみをfamiliarと訳すのは、そう外れてはいない。つまり、すでに知っていること。
身体集注に入った時の「なつかしさ」というのは、忘れていたかもしれないけれど、すでに知っていた感覚。僕なんか、そのなつかしさに、いつも泣きそうになる。
からだに出会うとは、そのような経験。

禁糖に入ると、食い意地が張ってくる。
まずは、火鉢で餅を焼こう。