秋ぐらいに某団体の集会に呼ばれて稽古会をする可能性がある。まだ確定ではないのだけれど、いちおう、どんな内容をやろうとしてるのか教えてくださいとのことなので、文章をでっちあげてみた。ここまで書いてきたことのまとめみたいなものか。
<ひとにふれる せかいにふれる>
世界を知るにはふれることからはじめなければならない。自と他の境界線上に感覚という経験が生まれる。その感覚経験が身体によって消化・同化されて、はじめて身に付くことになる。これを「身体化」と呼ぶ。
ところが、人は文字通り人それぞれであり、同じ時間、同じ場所にいたところで、ひとりひとり「感受性の方向」が違う故に、体験の質はそれぞれ異なったものになる。消化された食べものが人の体をつくっていくように、同化された経験が、その人の体をつくっていく。つまり身体化のプロセスにおいて、そこには必ず他者の存在があり、また、体験を受け止める一人ひとり異なった感受性がある。よって、身体ははじめから個性的である。
人が他者にふれると、そこで感覚経験が生まれる。では、人はどのように他者にふれればよいのだろう。相手を操作しようとふれる者がいる。相手と同調しようとふれる者がいる。では、同調的にふれようと意図して、実際に相手にふれたとき、そこに同調は生まれるであろうか?
困ったことに、自動的に同調は生まれない。なぜなら、まず、ひとりひとり異なった身体を有しているからである。次に、ふれるための手は、操作することが習慣化されているからである。同調なき接触は、たとえ本意ではなかったとしても操作的にならざるをえない。人間関係の困難は、この齟齬から発生するといってもよい。
人と人が(モノであっても同様)、どのように同調的な関係を切り結べるのか、人は体験というものをどのように同化・身体化していくのか。整体の知見をベースに、このような研究を身体教育研究所では行っています。また、すべて稽古という、実際に体で経験する会として提示しています。
世界を知るにはふれることからはじめなければならない。自と他の境界線上に感覚という経験が生まれる。その感覚経験が身体によって消化・同化されて、はじめて身に付くことになる。これを「身体化」と呼ぶ。
ところが、人は文字通り人それぞれであり、同じ時間、同じ場所にいたところで、ひとりひとり「感受性の方向」が違う故に、体験の質はそれぞれ異なったものになる。消化された食べものが人の体をつくっていくように、同化された経験が、その人の体をつくっていく。つまり身体化のプロセスにおいて、そこには必ず他者の存在があり、また、体験を受け止める一人ひとり異なった感受性がある。よって、身体ははじめから個性的である。
人が他者にふれると、そこで感覚経験が生まれる。では、人はどのように他者にふれればよいのだろう。相手を操作しようとふれる者がいる。相手と同調しようとふれる者がいる。では、同調的にふれようと意図して、実際に相手にふれたとき、そこに同調は生まれるであろうか?
困ったことに、自動的に同調は生まれない。なぜなら、まず、ひとりひとり異なった身体を有しているからである。次に、ふれるための手は、操作することが習慣化されているからである。同調なき接触は、たとえ本意ではなかったとしても操作的にならざるをえない。人間関係の困難は、この齟齬から発生するといってもよい。
人と人が(モノであっても同様)、どのように同調的な関係を切り結べるのか、人は体験というものをどのように同化・身体化していくのか。整体の知見をベースに、このような研究を身体教育研究所では行っています。また、すべて稽古という、実際に体で経験する会として提示しています。
(しばし休憩)