朝刊の一面が戦争の記事だと、それだけで気が滅入る。
政治家は自己保身のために戦争を始め、無辜の市民の命を奪う。
トランプはエプスタイン文書から目を外らせるためにイランを空爆し、日本の首相は、TM文書の追求を恐れ国会を解散させた。権力者は陰謀論の犬笛を吹き、愚鈍な市民は、その犬笛に踊らされる。
僕が育ったのは昭和30年代ということになるが、まだ、周りの大人たちの間では、先の戦争の記憶は色濃く残っていて、戦時中のひもじさを語る年若い叔母もいた。神社のお祭りには軍服を着た傷痍軍人の姿もあった。僕など、このような風景を目撃した最後の世代になるのだろうか。
さすがに、朝鮮戦争の記憶はない。十代も半ばに入ってからはベトナム戦争。20代になってすぐ合衆国にいったとき、ベトナム戦争はまだ続いていた。アメリカという国は戦争をしていたが、その国家に刃向かう若者の姿は輝いて見えた。ニクソンが大統領だった時代だ。そのニクソン辞任のスピーチをニューヨークで見た。夜中に酒を飲んで暴れまわるベトナム帰りの元海兵隊の男もいた。PSTDという言葉はまだ知らなかった。インドから、バンコク経由で日本に帰る途中、サイゴン陥落のニュースを知った。
戦争難民という存在を目の当たりにしたのはベナレス(バナラシ)からカルカッタ(コルカタ)へ向かう列車の中。脚の不自由な中年女性が物乞いをしていた。第三次印パ戦争による難民だったと気づいたのは、大分あとになってからだ。
ここまで書いてきたことは、半世紀前の思い出話。
いま、僕らが享受している平穏な暮らしなど、爆弾一発で崩れてしまう。
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キャロル・ギリガンの『抵抗への参加』を読んでいる。サブタイトルは「フェミニストのケアの倫理」。思春期の少女たちへのインタビューを通して、少女たちが家父長的社会へ入っていくときに何を諦めさせられているかを解読している。僕が心理学の本を読みはじめたころ、ギリガンは、すでにフロイドの心理学に内在する家父長的なるものへの批判をはじめていたのだ。
1950年代に生まれた僕など、戦後育ちとはいえ、家父長的な価値観を内面化して成長してきた。それでも、マチズモ的な価値観と比較的(あくまで比較的でしかないのだが)距離を置いて成人していったのは、いま振り返ると、母方の大家族のもとで育ったことが影響していることがわかる。貧乏人の子沢山の次女だった母の周りには、年下の弟妹が大勢いて、僕は二十歳前後の叔父叔母に囲まれて育った。左官だった祖父が威張っているのを見たことがない。むしろ、怖かったのは祖母の方だ。西日本の農村地帯に残る母系的な文化風土もあったことだろう。
1970年代80年代、京都で暮らしていた十年、周囲には当時のウーマンリブ系の女性たちが大勢いた。考えてみれば、不思議な十年間。岡山の田舎で育ち、数年の海外放浪期間を経て、京都の租界地に着地したようなものだ。黒川創が『この星のソウル』で描写しているような、アメリカのリベラル思想と日本、東アジアの社会運動が交差する不思議な空間に身をおきながら、いわゆる「運動」とは距離をとっていた。
そんな頃、野口晴哉の教育論と出会う。
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野口晴哉の教育論において、人生の出発点は胎児期におかれる。つまり、受胎と同時に教育が始まる。潜在意識教育論法講座と銘打たれた一連の書籍は、人がどのような道筋を通って成長していくのかを丁寧に説いている。この延長線上に、裕之先生の「育児講座」があり、その後、「双観法」「独観法」という整体の技法へと繋がっていく。つまり、人間にとって、他者とともにある状態がデフォルトなのか、それとも、一個の独立した人間である状態がデフォルトなのか、どちらを出発点に置くかという問題である。
二年前、近所のカフェで整体入門的な講座をやった時、整体の育児論を軸に話を進めることにした。その会の直前、『ケアの倫理』という本を偶然手にし、この講座に「整体育児論はフェミニズムと出会えるのか?」という隠れテーマがあることに気づいたのだった。僕はここまで、いろんなテーマで書き散らかしてきたけれど、家父長制という言葉も、フェミニズムという単語もまったく出てきてないのに、ここにきて、こんな壮大なテーマと出会うのかと、自分でも驚いた。
フェミニズムが「ケア」というものによって、家父長制を解体しようとしてきた試みと、「双」という集注を起点にした人間の探究は、どこかで出会うべきではなかろうか。僕がずっと所属してきた身体教育研究所という組織は、どちらかというと、ホモソーシャルな関係性の中で運営されてきた。それを下支えしてきたのは女性たちなのだが。もし、整体が権力に靡かない存在であり続けるのであれば、それはおそらく、内なる家父長的なるものと向き合わざるを得なくなる。これは、大きなテーマだ。
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いまのこの不機嫌に名前をつけるとすれば、戦争鬱しかない。






