これまでやってきた「学びについて考える」のメンバー3名で、イリイチの「エネルギーと公正」を読みはじめることにしました。初回は10月25日(月)18時30分、等持院稽古場での開催です。興味のある方は角南(dohokids@gmail.com)までご連絡ください。
2021年9月6日月曜日
本棚
「本棚の本、全部読んだんですか?」と若者に問われた。読んでいるわけがない。ひょっとすると読んでない本の方が多いかもしれない。読んでみたいな、と思って買った本が本棚に収まっているだけで、実際に読んだ本は本棚には収まってはいない。自分で読んで面白いと思った本は、すぐ人に勧めて渡してしまうから、むしろ読んでない本、読みかけの本が手元に堆積していく。蔵書は小さな本棚に収まっているものだけで、最近は、そこからはみ出して、更衣室にまで広がってきているので、近々、処分せねばなるまい。
時代って五十年くらいでひと回りするのか、1970年代くらいに読んだ本をもう一度手にしたくなる。本棚を探してもそこにはなく、しかたなく図書館から借りるというケースも多い。コロナとは結局は「速度」の問題に帰着すると考え、イリイチの「エネルギーと公正」を読みたいと思ったが、誰かに貸したまま帰って来てない(京都に越してくる前の話ですーどこや〜?返却希望)ので図書館から取り寄せる。1979年晶文社刊。これについては、稿を改めて書きます。
2019年7月8日月曜日
2019年5月31日金曜日
読書会メモー山本義隆の著作を通じて
山本義隆にたどり着いた経緯は散発的にこのブログでも書いてきたので省略
→ https://dohokids.blogspot.com/search/label/読書会
最初に読んだ、いや読もうとしたのが「磁力と重力の発見」
全3巻千ページに及ぶ大著
図書館で借りて読みはじめたが、結局ネット古書店で全巻購入
以下、「近代日本一五〇年」、「私の1960年代」と読み進めている
実のところ、「磁力と重力の発見」は第3巻三分の一のところで足踏みしている

『磁力と重力の発見』の序文を山本はこう書きはじめる
本書は近代自然科学、とりわけ近代物理学がいかにして近代ヨーロッパに生まれたのか、という問題意識から発したものである。
更に、物理学二千年の歴史を次のように総括する
物理学の歴史は、煎じ詰めると、古代ギリシャの原子論が充実した物質としての原子と空虚な空間を見出し、二千年後の一七世紀に空間を隔てて働く万有引力にゆきつき、その後、一九世紀に場が発見されて力は場に還元され、そして二〇世紀の量子の発見をへて今日の姿をとるにいたったとまとめあげられる。
本書は、ギリシャの原子論とニュートンの万有引力の間の二千年という歴史を、磁石・磁力に代表される「遠隔力」がどのように理解されてきたかによって辿ろうとしている。
歴史上最初に現れる磁力理論はギリシャのエンペドクレス(前5世紀)と言われていて、
「磁石と鉄の両方から生じる流出物と鉄からの流出物に対応する磁石の通孔とによって、鉄が磁石の方へ運ばれる」というものである
こうやって山本は丹念に当時の哲学者たちが磁力をどのように理解していこうとしていたかを辿っていく。1巻2巻の目次は次のようなものである。

科学と技術はまったく別物として存在していた
科学はラテン語で語られる事柄であった
技術は職人の間で継承されていくものであった
それが、ルネサンス、大航海時代に入ってくると、科学と技術に接点が生まれてくる
印刷術の発展とともに俗語による出版物が増えてくる
やがて「科学技術」というものが発生する
まだ途中までしか読み進めてないのだが、遠隔力としての磁力のは徐々に現代物理学に近づいてきた。ただ、力が及び方に関して、「近いもの同士は強く、遠ざかるに従って、その力は弱くなる」という説明に辿りついたところで、私の中で?が生まれてしまった。気の伝達は距離を問わないというのが整体の原則であるから、近いほど強く影響するという理論には素直に首肯できない(笑)。場の理論、素粒子論にたどりつけば、もっと整体に近づいてくるのかしら、と思いながら続きを読もうと思う。
*****
『磁力と重力の発見』の第2巻を読んでいる時だったか、「大学ってもう終わってるな〜」となぜか思った。よくよく考えてみれば、著者は大学闘争を経て、在野の研究者であることを貫いてきた人であるからして、当然そう思っているはずで、行間から、そのような思いが伝わってきたのかしらとも思う。
「ぼくはなぜラジオ少年となったか」という問いに対し、『磁力と重力の発見』が扱っている時間軸は長すぎるので、もう少し、時間軸を縮めることにした。そこで、『近代日本一五〇年』。明治維新以来、日本という国が、どのように欧米から「科学技術」を導入し、帝国主義化していき、戦争を戦い、福島の原発事故に至ったか。どう考えても、僕がラジオ少年化していったのは、この文脈のなかにすっぽりおさまりそうではないか。
科学技術なるものが形成されたのは、せいぜいが18世紀末以降のことで、それまでは、科学と技術は本質的に異なる営みであった。世界の理解と説明を目的とする科学は、大学アカデミズムの内部で論じられる哲学ないし思想としての自然観であ理、実践の学としての医学をのぞいて、何らかの実際的応用を意図していたわけではない。他方、製作や捜査を目的とする技術は、長年にわたる膨大な経験の蓄積をとおして形成されたもので、機械の制作にせよ金属精錬にせよ、力学理論や科学理論に裏づけられていたわけではない。(p26)
明治維新の日本人にとって、西洋文明とは科学技術であった。文明開化は科学技術、端的にいうと蒸気機関と有線通信技術と共にやってきた。そして、幸か不幸か、最新の科学技術を欧米諸国とさほど時間差を置かず、インフラゼロのところに導入することができたのである。ただ、民間資本の蓄積がなかったゆえ、政府主導ではじまる。科学技術振興の牽引役として工部省が創設される。
明治前期に上級学校に進んだのはほとんどが士族の子弟で、明治期の技術者はその大半が士族出身者で占められていた。しかし徳川の時代に「士農工商」の身分制ヒエラルキーの最上部にいた士族は、職人や商人の仕事を蔑んでいたのであり、士族に根強かったこのような階級的偏見を払拭するには、工部大学校、のちには帝国大学工科大学で教育されることになる技術を、舶来のものとして箔をつけ、お上のものとして権威づけ、こうして教育される技術者を、技術エリート・技術士官として在来の職人から差別化しなければならなかった。(p.52)
こうして大学は国策を実現するための人材育成機関として作られていく。産学軍の連合は日清日露戦争を経て強化され、第二次大戦においてピークを迎えることになる。
科学動員のかけ声のもとで研究者や技術者は優遇され、戦時下の理工系ブームがもたらされた。理工系の学者は、研究活動上も私生活においても、わが世の春を迎えルことになる。前述の宮本武之輔の一九四〇年の「技術国策論」には、「現に理科系統の大学卒業者に対する需要は供給の三倍以上、同じく専門学校卒業者に対する需要は五倍以上に達する状態」とある。(p.194)
そして戦後。
アジア・太平洋戦争の敗北によって、たしかに日本は、それまでの非民主的な政治思想や前近代的な国家思想の反省を迫られた。それゆえ、社会思想やイデオロギーが問題となる文系の研究者においては、戦時中なにがしか戦争に協力したならば、戦後の世界では、発言を躊躇われた。しかし、科学技術においては、大戦中、戦争遂行に必須であるとして科学動員が語られ、研究者にはさまざまな優遇措置が与えられ、科学者も率先してそれに応えてきたのであるが、それにもかかわらず、敗戦の直後、科学者の内部からはそのことへの反省は語られなかった。(p.204)
逆に、「科学が足りなかったから戦争に負けた」のであり、戦後は「科学振興をさらに進めなくてはならい」という意見に集約されていく。そして、それが国の政策となっていく。つまり、敗戦を経た後も、科学技術振興立国という明治はじめに設定されたゴールはそのまま生き続けた。
僕が十代だった1960年代、成績優秀な生徒は工学部に行けと言われて育った。高度成長がはじまった時代。そいう風潮の中に僕自身がいて、高専の電気工学科に入学したのだった。それが1968年。半世紀前のことである。
→ https://dohokids.blogspot.com/search/label/読書会
最初に読んだ、いや読もうとしたのが「磁力と重力の発見」
全3巻千ページに及ぶ大著
図書館で借りて読みはじめたが、結局ネット古書店で全巻購入
以下、「近代日本一五〇年」、「私の1960年代」と読み進めている
実のところ、「磁力と重力の発見」は第3巻三分の一のところで足踏みしている

『磁力と重力の発見』の序文を山本はこう書きはじめる
本書は近代自然科学、とりわけ近代物理学がいかにして近代ヨーロッパに生まれたのか、という問題意識から発したものである。
更に、物理学二千年の歴史を次のように総括する
物理学の歴史は、煎じ詰めると、古代ギリシャの原子論が充実した物質としての原子と空虚な空間を見出し、二千年後の一七世紀に空間を隔てて働く万有引力にゆきつき、その後、一九世紀に場が発見されて力は場に還元され、そして二〇世紀の量子の発見をへて今日の姿をとるにいたったとまとめあげられる。
本書は、ギリシャの原子論とニュートンの万有引力の間の二千年という歴史を、磁石・磁力に代表される「遠隔力」がどのように理解されてきたかによって辿ろうとしている。
歴史上最初に現れる磁力理論はギリシャのエンペドクレス(前5世紀)と言われていて、
「磁石と鉄の両方から生じる流出物と鉄からの流出物に対応する磁石の通孔とによって、鉄が磁石の方へ運ばれる」というものである
こうやって山本は丹念に当時の哲学者たちが磁力をどのように理解していこうとしていたかを辿っていく。1巻2巻の目次は次のようなものである。

科学と技術はまったく別物として存在していた
科学はラテン語で語られる事柄であった
技術は職人の間で継承されていくものであった
それが、ルネサンス、大航海時代に入ってくると、科学と技術に接点が生まれてくる
印刷術の発展とともに俗語による出版物が増えてくる
やがて「科学技術」というものが発生する
まだ途中までしか読み進めてないのだが、遠隔力としての磁力のは徐々に現代物理学に近づいてきた。ただ、力が及び方に関して、「近いもの同士は強く、遠ざかるに従って、その力は弱くなる」という説明に辿りついたところで、私の中で?が生まれてしまった。気の伝達は距離を問わないというのが整体の原則であるから、近いほど強く影響するという理論には素直に首肯できない(笑)。場の理論、素粒子論にたどりつけば、もっと整体に近づいてくるのかしら、と思いながら続きを読もうと思う。
*****
『磁力と重力の発見』の第2巻を読んでいる時だったか、「大学ってもう終わってるな〜」となぜか思った。よくよく考えてみれば、著者は大学闘争を経て、在野の研究者であることを貫いてきた人であるからして、当然そう思っているはずで、行間から、そのような思いが伝わってきたのかしらとも思う。
「ぼくはなぜラジオ少年となったか」という問いに対し、『磁力と重力の発見』が扱っている時間軸は長すぎるので、もう少し、時間軸を縮めることにした。そこで、『近代日本一五〇年』。明治維新以来、日本という国が、どのように欧米から「科学技術」を導入し、帝国主義化していき、戦争を戦い、福島の原発事故に至ったか。どう考えても、僕がラジオ少年化していったのは、この文脈のなかにすっぽりおさまりそうではないか。
科学技術なるものが形成されたのは、せいぜいが18世紀末以降のことで、それまでは、科学と技術は本質的に異なる営みであった。世界の理解と説明を目的とする科学は、大学アカデミズムの内部で論じられる哲学ないし思想としての自然観であ理、実践の学としての医学をのぞいて、何らかの実際的応用を意図していたわけではない。他方、製作や捜査を目的とする技術は、長年にわたる膨大な経験の蓄積をとおして形成されたもので、機械の制作にせよ金属精錬にせよ、力学理論や科学理論に裏づけられていたわけではない。(p26)
明治維新の日本人にとって、西洋文明とは科学技術であった。文明開化は科学技術、端的にいうと蒸気機関と有線通信技術と共にやってきた。そして、幸か不幸か、最新の科学技術を欧米諸国とさほど時間差を置かず、インフラゼロのところに導入することができたのである。ただ、民間資本の蓄積がなかったゆえ、政府主導ではじまる。科学技術振興の牽引役として工部省が創設される。
明治前期に上級学校に進んだのはほとんどが士族の子弟で、明治期の技術者はその大半が士族出身者で占められていた。しかし徳川の時代に「士農工商」の身分制ヒエラルキーの最上部にいた士族は、職人や商人の仕事を蔑んでいたのであり、士族に根強かったこのような階級的偏見を払拭するには、工部大学校、のちには帝国大学工科大学で教育されることになる技術を、舶来のものとして箔をつけ、お上のものとして権威づけ、こうして教育される技術者を、技術エリート・技術士官として在来の職人から差別化しなければならなかった。(p.52)
こうして大学は国策を実現するための人材育成機関として作られていく。産学軍の連合は日清日露戦争を経て強化され、第二次大戦においてピークを迎えることになる。
科学動員のかけ声のもとで研究者や技術者は優遇され、戦時下の理工系ブームがもたらされた。理工系の学者は、研究活動上も私生活においても、わが世の春を迎えルことになる。前述の宮本武之輔の一九四〇年の「技術国策論」には、「現に理科系統の大学卒業者に対する需要は供給の三倍以上、同じく専門学校卒業者に対する需要は五倍以上に達する状態」とある。(p.194)
そして戦後。
アジア・太平洋戦争の敗北によって、たしかに日本は、それまでの非民主的な政治思想や前近代的な国家思想の反省を迫られた。それゆえ、社会思想やイデオロギーが問題となる文系の研究者においては、戦時中なにがしか戦争に協力したならば、戦後の世界では、発言を躊躇われた。しかし、科学技術においては、大戦中、戦争遂行に必須であるとして科学動員が語られ、研究者にはさまざまな優遇措置が与えられ、科学者も率先してそれに応えてきたのであるが、それにもかかわらず、敗戦の直後、科学者の内部からはそのことへの反省は語られなかった。(p.204)
逆に、「科学が足りなかったから戦争に負けた」のであり、戦後は「科学振興をさらに進めなくてはならい」という意見に集約されていく。そして、それが国の政策となっていく。つまり、敗戦を経た後も、科学技術振興立国という明治はじめに設定されたゴールはそのまま生き続けた。
僕が十代だった1960年代、成績優秀な生徒は工学部に行けと言われて育った。高度成長がはじまった時代。そいう風潮の中に僕自身がいて、高専の電気工学科に入学したのだった。それが1968年。半世紀前のことである。
2019年5月19日日曜日
自分さがし
自分さがしをはじめてしまった
昨年暮れ、参加している読書会で、私が整体に出会うまで、
そして、その後の展開を話す機会を得た
いってみれば、自分史の半分を語ったことになる
そこでふと思った
じゃあ、その前の自分
例えば、ラジオ少年としての自分は、どのように形成されてきたのか
ラジオ少年と整体オヤジはどのようにつながっているのか
最初に手に取ったのが「磁力と重力の発見」全3巻
筆者の山本義隆は東大全共闘の委員長として名前が知られている
というか、私など名前だけで、どのような仕事をしてきた人なのかまったく知らずにいた
1941年生まれだから、私とは、ぼぼ一回り上ということになる
「磁力と重力の発見」は、どのように、本来別々のものであった「科学」と「技術」が、
ヨーロッパにおいて「科学技術」として合体していったか、その経緯をギリシャの時代から辿っていく大著であり、すばらしい科学史の本でもある
3巻目にようやくたどり着いたものの、まだニュートンの章には行き着いてない
「磁力と重力の発見」がなかなか読み進まないのは、
同じ著者による他の書籍に寄り道しているせいである
たてつづけに、「福島の原発事故をめぐって」「近代日本一五〇年」「私の1960年代」
の三冊に手を出してしまった
私より一回り年上のぶん、1960年代(私の年齢でいえば、8歳から18歳)がどういう時代で、どういう空気を吸って人々は生きていたのか、大人の目で記述している
そこで、はじめて、なぜ、どのように僕がラジオ少年となっていったかが、腑に落ちたのだった
こうしてみると、自分というのは、ほんと「現象」だと思う
生まれ、親と交わり、近親者と交わり、他者と社会と時代の空気と交わりながら、
自分という輪郭がすこしづつ形成されていく
戦後教育の中で、ラジオ少年が生まれ、
そのもとには、明治政府の科学技術輸入政策があり、
そのもとには、16世紀文化革命がある
もちろん、みんなが僕のようなラジオ少年になったわけではない
それぞれが、それぞれの生まれ育った環境を取り込みながら「私」を形成していった
そう思うと、「なぜ」に終わりはない
あとしばらく、山本義隆氏の著作を地図として、「自分さがし」を続けてみようと思う
昨年暮れ、参加している読書会で、私が整体に出会うまで、
そして、その後の展開を話す機会を得た
いってみれば、自分史の半分を語ったことになる
そこでふと思った
じゃあ、その前の自分
例えば、ラジオ少年としての自分は、どのように形成されてきたのか
ラジオ少年と整体オヤジはどのようにつながっているのか
最初に手に取ったのが「磁力と重力の発見」全3巻
筆者の山本義隆は東大全共闘の委員長として名前が知られている
というか、私など名前だけで、どのような仕事をしてきた人なのかまったく知らずにいた
1941年生まれだから、私とは、ぼぼ一回り上ということになる
「磁力と重力の発見」は、どのように、本来別々のものであった「科学」と「技術」が、
ヨーロッパにおいて「科学技術」として合体していったか、その経緯をギリシャの時代から辿っていく大著であり、すばらしい科学史の本でもある
3巻目にようやくたどり着いたものの、まだニュートンの章には行き着いてない
「磁力と重力の発見」がなかなか読み進まないのは、
同じ著者による他の書籍に寄り道しているせいである
たてつづけに、「福島の原発事故をめぐって」「近代日本一五〇年」「私の1960年代」
の三冊に手を出してしまった
私より一回り年上のぶん、1960年代(私の年齢でいえば、8歳から18歳)がどういう時代で、どういう空気を吸って人々は生きていたのか、大人の目で記述している
そこで、はじめて、なぜ、どのように僕がラジオ少年となっていったかが、腑に落ちたのだった
こうしてみると、自分というのは、ほんと「現象」だと思う
生まれ、親と交わり、近親者と交わり、他者と社会と時代の空気と交わりながら、
自分という輪郭がすこしづつ形成されていく
戦後教育の中で、ラジオ少年が生まれ、
そのもとには、明治政府の科学技術輸入政策があり、
そのもとには、16世紀文化革命がある
もちろん、みんなが僕のようなラジオ少年になったわけではない
それぞれが、それぞれの生まれ育った環境を取り込みながら「私」を形成していった
そう思うと、「なぜ」に終わりはない
あとしばらく、山本義隆氏の著作を地図として、「自分さがし」を続けてみようと思う
2019年4月19日金曜日
磁力と重力の発見
311が起こった翌月、師匠の操法を受けた
「しょぼんとしてるね」と言われた
たしかに、そんな感じ
でも、ぼくは何にしょんぼりしていたのだろう
8年経った今ふりかえる
僕の大好きだった電気の時代が終わってしまったことにしょんぼりしていたのだ
そもそも、なんで僕はラジオ少年になったのだろう
半世紀以上前の自分を思い起こす
高度成長期前の岡山の片田舎
家にあった電気製品は電灯、そして真空管ラジオ
電気アイロンもあったかもしれない
高度成長期が続くに従い、電化製品は増殖していく
ラジオが白黒テレビになり、洗濯機、冷蔵庫も加わる
ラジオは不思議だった
棚の上に鎮座したラジオのスピーカーから様々なものが流れてくる
ここでないどこかから発せられた音声が電波と呼ばれるものに乗ってやってくる
やがて僕は半田ごて片手に自らラジオを組み立て、海外からの放送を熱心に聴く、
そんな電気少年になっていった
*****
それから半世紀と少々
「磁力と重力の発見」を読み進めている
全3巻の大部
ようやく第3巻に取り掛かったところ
磁石の力は、どのように理解されててきたのかをギリシャの時代からたどっていく
磁石はなぜ鉄を引き寄せるのか
今だって不思議だし、説明せよといわれても、おそらくできない
元ラジオ少年、ましてや、高専の電気科に進んで電気のことをしっかり学んだはずなのに、
その元になる磁石の働きすら説明できそうもない
見えない力は魅力的だ
磁力は見えない、電波も見えない
なのに伝わる
ラジオ少年になったのも、のちのち気の世界に足を踏み入れたのも、
この見えないものへの魅力からだった、のかもしれない
「しょぼんとしてるね」と言われた
たしかに、そんな感じ
でも、ぼくは何にしょんぼりしていたのだろう
8年経った今ふりかえる
僕の大好きだった電気の時代が終わってしまったことにしょんぼりしていたのだ
そもそも、なんで僕はラジオ少年になったのだろう
半世紀以上前の自分を思い起こす
高度成長期前の岡山の片田舎
家にあった電気製品は電灯、そして真空管ラジオ
電気アイロンもあったかもしれない
高度成長期が続くに従い、電化製品は増殖していく
ラジオが白黒テレビになり、洗濯機、冷蔵庫も加わる
ラジオは不思議だった
棚の上に鎮座したラジオのスピーカーから様々なものが流れてくる
ここでないどこかから発せられた音声が電波と呼ばれるものに乗ってやってくる
やがて僕は半田ごて片手に自らラジオを組み立て、海外からの放送を熱心に聴く、
そんな電気少年になっていった
*****
それから半世紀と少々
「磁力と重力の発見」を読み進めている
全3巻の大部
ようやく第3巻に取り掛かったところ
磁石の力は、どのように理解されててきたのかをギリシャの時代からたどっていく
磁石はなぜ鉄を引き寄せるのか
今だって不思議だし、説明せよといわれても、おそらくできない
元ラジオ少年、ましてや、高専の電気科に進んで電気のことをしっかり学んだはずなのに、
その元になる磁石の働きすら説明できそうもない
見えない力は魅力的だ
磁力は見えない、電波も見えない
なのに伝わる
ラジオ少年になったのも、のちのち気の世界に足を踏み入れたのも、
この見えないものへの魅力からだった、のかもしれない
2019年4月1日月曜日
DIYレシピブック
読書会つながりの方からDIYのレシピブックを作るので寄稿してくださいという依頼がきたのが2月。そのレシピブックが出来上がってきた。50人のひとたちが、それぞれのDIYのレシピを書いている。DIYというと、自力で必要なものをつくりだしていく営みという理解でしかなかったのだが、この冊子に書かれているレシピの多様さにDIYの概念が打ち崩された。呼雷器を作って雷を落としちゃうとか、ニワトリと散歩する方法とか、信心のレシピとか、有形無形さまざまで意表をつかれるレシピ満載。ちなみに私のレシピは「豆腐とマメのサラダ」というもの。このブログでも公開しちゃいましょう。
https://sites.google.com/view/casaludens/home
https://sites.google.com/view/casaludens/home

2019年2月19日火曜日
体験するということ 2
読書会でのレジュメとして用意した一枚が、この図。
FWCは体験の場、きっかけは用意してくれたけれども、その体験を吸収する手立ては与えてくれなかったのですね。フレームを壊す手伝いはしてくれたけれど、混乱した学生をどう再構成させるかというシステムを有しなかった。これをどう評価すればよいのだろう。それは個人の問題ですと言ってしまえば、それまでだし、はたして大学という4年という限られた期間で、その再構成が可能かといわれると、それも怪しい。FWCにおいて、学生はJournalという報告を大学に提出して単位を取得し、卒業リポートを書いて卒業していく。そのような制度設計。少なくとも、「書く」という行為が、再構成に有用だったことだけは評価しておこうと思う。いわば、体験するということを「フレームを壊すー再構築する」という一連のプロセスであると考えれば、このFWCでの体験した「よるべなさ」が、「身体教育」への接近につながっていったと言えるのだろう。
FWCは体験の場、きっかけは用意してくれたけれども、その体験を吸収する手立ては与えてくれなかったのですね。フレームを壊す手伝いはしてくれたけれど、混乱した学生をどう再構成させるかというシステムを有しなかった。これをどう評価すればよいのだろう。それは個人の問題ですと言ってしまえば、それまでだし、はたして大学という4年という限られた期間で、その再構成が可能かといわれると、それも怪しい。FWCにおいて、学生はJournalという報告を大学に提出して単位を取得し、卒業リポートを書いて卒業していく。そのような制度設計。少なくとも、「書く」という行為が、再構成に有用だったことだけは評価しておこうと思う。いわば、体験するということを「フレームを壊すー再構築する」という一連のプロセスであると考えれば、このFWCでの体験した「よるべなさ」が、「身体教育」への接近につながっていったと言えるのだろう。
体験するということ 1
フレイレが発端なのだ。
一昨年の夏だったと思うのだが、亀岡でフリースクールを運営している知人がやっている勉強会に、「次回、P.フレイレをやりますから来てください」と誘われてのこのこ出かけて行った。その時、「整体協会で仕事してます」と自己紹介したら、「はい、わたし会員です」と名乗りを上げられたのが参加者のひとりであるYさん。それをきっかけに、Yさんは等持院で稽古をはじめることになったのだが、稽古のたびに、フレイレを含む教育談義になってしまう。下手すると、稽古している時間と喋ってる時間が同じくらいじゃないかというくらい、喋ってる。いまどき、フレイレを読んでいる人がいるんだ、というのが最初の感想だったのだけれど、逆に、僕はちゃんとフレイレ読んでないな、ということがあらわになってしまい、それこそ40年の時を経て、フレイレを読み直すことになった。フレイレとの出会いは1973年。フレンズワールドカレッジのオリエンテーションの課題図書として「Pedagogy of the Oppressed」が現れたことだ。英語力のろくにない私がこの本を十分に理解できるはずもなく、以来、いってみればトラウマーそれが大げさなら、のどに刺さった魚の小骨ーとして僕の体に住み着くことになったというわけだ。
そのYさんが中心になってやっている南区DIY読書会ーただし会場は京都市北区ーに誘われ、ちょっと読書会というものに関心があったので参加してみた。それがなかなか新鮮なのだ。報告者が一冊の本を読んで、それを参加者に報告するーレジメも用意されているーというだけのスタイルなのだが、そこでの話はどんどん本題から外れていって、逆にふくらんでいく。そのダイナミズムが面白い。何回か参加しているうちに、「角南さんも」という流れになって、「では、整体の話をします」ということになった。だから、何か一冊の本を題材に、それを紹介するという読書会のスタイルとは離れてしまったのだけれど、いざ、人に自分がいまやっていることを話そうとすると、「なぜ、いま自分はここにいるの」という自分史を開陳することになってしまった。11月と12月の二回、報告の場を持たせてもらったのだけど、つまり、「体験するってどういうことなの?」という20代の疑問を抱えて、僕は生きてきたのだということに行き着いたのだった。
これまで、このブログに書いてきたことと、大部分重複することになりそうだが、なぜいま、ぼくはここにいるのか、もう一度書きはじめてみようと思う。
一昨年の夏だったと思うのだが、亀岡でフリースクールを運営している知人がやっている勉強会に、「次回、P.フレイレをやりますから来てください」と誘われてのこのこ出かけて行った。その時、「整体協会で仕事してます」と自己紹介したら、「はい、わたし会員です」と名乗りを上げられたのが参加者のひとりであるYさん。それをきっかけに、Yさんは等持院で稽古をはじめることになったのだが、稽古のたびに、フレイレを含む教育談義になってしまう。下手すると、稽古している時間と喋ってる時間が同じくらいじゃないかというくらい、喋ってる。いまどき、フレイレを読んでいる人がいるんだ、というのが最初の感想だったのだけれど、逆に、僕はちゃんとフレイレ読んでないな、ということがあらわになってしまい、それこそ40年の時を経て、フレイレを読み直すことになった。フレイレとの出会いは1973年。フレンズワールドカレッジのオリエンテーションの課題図書として「Pedagogy of the Oppressed」が現れたことだ。英語力のろくにない私がこの本を十分に理解できるはずもなく、以来、いってみればトラウマーそれが大げさなら、のどに刺さった魚の小骨ーとして僕の体に住み着くことになったというわけだ。
そのYさんが中心になってやっている南区DIY読書会ーただし会場は京都市北区ーに誘われ、ちょっと読書会というものに関心があったので参加してみた。それがなかなか新鮮なのだ。報告者が一冊の本を読んで、それを参加者に報告するーレジメも用意されているーというだけのスタイルなのだが、そこでの話はどんどん本題から外れていって、逆にふくらんでいく。そのダイナミズムが面白い。何回か参加しているうちに、「角南さんも」という流れになって、「では、整体の話をします」ということになった。だから、何か一冊の本を題材に、それを紹介するという読書会のスタイルとは離れてしまったのだけれど、いざ、人に自分がいまやっていることを話そうとすると、「なぜ、いま自分はここにいるの」という自分史を開陳することになってしまった。11月と12月の二回、報告の場を持たせてもらったのだけど、つまり、「体験するってどういうことなの?」という20代の疑問を抱えて、僕は生きてきたのだということに行き着いたのだった。
これまで、このブログに書いてきたことと、大部分重複することになりそうだが、なぜいま、ぼくはここにいるのか、もう一度書きはじめてみようと思う。
2019年1月1日火曜日
新年、そして読書会報告
空気は冷たいけれど、日差しは温かい元旦の京都です
本年もどうぞよろしくお願いいたします
11月の初め、そして12月末と2回にわたり読書会で報告する機会がありました。整体のことを知らない人たちに整体の話をするのは難しいのですが、自分史を縦糸として、いわば、ジャンル難民として整体とどう関わってきたかということを話したことになります。教育のひな型としての「愉気」によって「自己刷新力」が育てられる、というのは、われながら良い切り口であったと思うのですが、話し終えて気づいたのは、「自己」というもののとらえ方、とらえられ方が、時代とともに大きく変化してきたということです。「自己刷新力」という表現が可能なほどに、「個」というものが、孤立している、させられているのが現代という時代なのです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします
11月の初め、そして12月末と2回にわたり読書会で報告する機会がありました。整体のことを知らない人たちに整体の話をするのは難しいのですが、自分史を縦糸として、いわば、ジャンル難民として整体とどう関わってきたかということを話したことになります。教育のひな型としての「愉気」によって「自己刷新力」が育てられる、というのは、われながら良い切り口であったと思うのですが、話し終えて気づいたのは、「自己」というもののとらえ方、とらえられ方が、時代とともに大きく変化してきたということです。「自己刷新力」という表現が可能なほどに、「個」というものが、孤立している、させられているのが現代という時代なのです。
2018年11月8日木曜日
愉気の構造
読書会2回目の報告に向け準備を進めている。育児の部分をもう少し突っ込んでいけば、教育としての整体が浮き上がってきそうだ。さらにいえば「愉気の構造」の言語化が鍵になるという予感もある。おりしも、月刊全生の10月、11月号に晴哉先生の「子供の育て方」という文章が掲載されている。読書会でも話したのだけれど、もの言わぬ生きものの欲求ー空腹、排泄、体勢ーといったものを、どう大人はキャッチしていくのか。これが大人にとっての教育となる。空腹、排泄、体勢という生存欲求を満たすことは、別段、赤ちゃんに限った話ではなく、大人にとっても全く同様で、ここだけ、ちゃんと充足させられれば、大人の間の人間関係のこじれの半分は解決してしまうのではないかと思えるほどである。読書会に参加してくれた稽古仲間のひとりが、晴哉先生が育てようとした人間は、いわゆる同調圧力に沿いやすい日本人像とは逆をむいているとの意見には同感。次回の発表は、おそらく12月のどこかでやることになりそうです。
2018年11月3日土曜日
読書会報告
いま自分がやっていることを「教育」という切り口で話すことができたらいいのにと、ずっと思ってきた。所属している組織自体、「身体教育」を名乗っているわけで、これが教育でないはずはないのだが、それを自分の文脈で話すことはできないだろうか。全体像を語ろうとすれば、師匠の言葉の引用の羅列になってしまうことは日の目を見るより明らかなので、どれだけ稚拙であっても良いから、自分の言葉で話してみたいと思ってきた。稽古会に来ているYさんとその仲間が主宰されている「読書会」なるものに9月から参加しているのだが、その読書会で謳われている「卒論ゼミのように」という惹句に誘われて、自ら発表の場を設定してもらった。題してー自分でつけたのだがー「フレイレから身体教育へ」。
フレイレというのは、1960〜70年代に活動したブラジルの教育家で、代表作が「被抑圧者の教育学」。そもそも、Yさんと出会ったのも、フレイレつながりである。「おお、いまでもフレイレを読んでいる人がいるのだ」と知り、稽古にみえるたびに教育談義をしてきた。1973年ー計算して驚いたのだが、なんと45年前!ーアメリカの大学に入ったオリエンテーションのときの課題図書の一冊がこの「被抑圧者の教育学」ーPedagogy of the Oppressedで、未消化のものとして、僕の中にずっと居座り続けてきた本である。おそらく、この本抜きには、僕の教育へのこだわりは語れないし、いまなぜ、この稽古場という場所で「稽古」しているかも語れない。
時系列に私自身の「教育史」を話すところから始めたのだけれど、なかなかたいへん。ぼくよりずっと若い世代の集まりなので、時代背景の話で盛り上がり時間を取られたーそれくらい、時代の空気とリンクしているとも言える。結局、育児講座を経て稽古場がはじまるあたりまでで、息切れしてしまった。続きの回が必要。稽古会に来てくれている方も何名か参加してくれたのは有り難かった。
フレイレというのは、1960〜70年代に活動したブラジルの教育家で、代表作が「被抑圧者の教育学」。そもそも、Yさんと出会ったのも、フレイレつながりである。「おお、いまでもフレイレを読んでいる人がいるのだ」と知り、稽古にみえるたびに教育談義をしてきた。1973年ー計算して驚いたのだが、なんと45年前!ーアメリカの大学に入ったオリエンテーションのときの課題図書の一冊がこの「被抑圧者の教育学」ーPedagogy of the Oppressedで、未消化のものとして、僕の中にずっと居座り続けてきた本である。おそらく、この本抜きには、僕の教育へのこだわりは語れないし、いまなぜ、この稽古場という場所で「稽古」しているかも語れない。
時系列に私自身の「教育史」を話すところから始めたのだけれど、なかなかたいへん。ぼくよりずっと若い世代の集まりなので、時代背景の話で盛り上がり時間を取られたーそれくらい、時代の空気とリンクしているとも言える。結局、育児講座を経て稽古場がはじまるあたりまでで、息切れしてしまった。続きの回が必要。稽古会に来てくれている方も何名か参加してくれたのは有り難かった。
2018年10月16日火曜日
フレイレから身体教育へ
11月1日、南区DIY読書会に発表者として登場します
座学です(笑
でも、番外で実技編が必要になってしまうかも
会場は北区です
地下鉄鞍馬口駅から東に徒歩5分くらいのところにあるシェアハウスの一室
以下のような三部構成で考えているのですが、とても一回では終わりそうもないです
1 フレイレから身体教育へ
2 整体的育児における「個」の育成
3 技法としての「個」の解体
関心のある方は、どうぞご参加ください
座学です(笑
でも、番外で実技編が必要になってしまうかも
会場は北区です
地下鉄鞍馬口駅から東に徒歩5分くらいのところにあるシェアハウスの一室
以下のような三部構成で考えているのですが、とても一回では終わりそうもないです
1 フレイレから身体教育へ
2 整体的育児における「個」の育成
3 技法としての「個」の解体
関心のある方は、どうぞご参加ください
2018年9月19日水曜日
読書会
稽古に来ている方が主宰している読書会に行ってきた。読書会なるものに参加するのはいったい何十年ぶりのことだろう。集まってきたのは30代から70代の男女7名。そもそも、この読書会に参加してみようと思ったのは、P.フレイレの本が取り上げられていたため。フレイレの本と出会ったのが1973年のことだから、なんと45年!の付き合いになる。読書会といっても頭でっかちなものでなく、それぞれ自分に引きつけて考えていて、非常に心地よい会になっていた。自分がやってきたことを「教育」という糸でまとめたいと思っているところなので、よいインスピレーションをもらえそうである。初参加のこの会で、「昨日、噂してました」という方と遭遇したのには吃驚。
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