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2023年8月3日木曜日

半世紀 7 何でも見てやろう

小田実 の「何でも見てやろう」 は、生まれてはじめて自分のお小遣いで買ったという意味で思い出ぶかい一冊だ。同級生の家族が営む、町で唯一の本屋、石黒書店に、この本を取り寄せてもらうよう、勇気を振り絞って一人で出かけて行ったのだった。

出版社は河出書房新社。ビニールのカバーがかけられた一冊だった。初版が1961年とあるが、いくら読書少年だったとはいえ、小学生のぼくが読んだとは思えず、おそらく、実際に手にしたのは中学生になってからのことだろう。それでも、ずいぶん背伸びした中学生だった。

五木寛之 の「青年は荒野をめざす 」が刊行されたのが1967年。ここくらいからは、ほぼリアルタイムで読んでいるはず。僕よりふた回り若いバックパッカーには、沢木耕太郎 の「深夜特急 」あたりがバイブルになるかもしれないが、これが出たのは1986年。

僕にとってのバイブルは、やはり小田実の「何でも見てやろう」ということになる。たどったルートも、結果としてだが、小田に倣うことになった。

【追記】1967年に本書のカラー版というのが出版されている。僕が実際に手にしたのは、このカラー版の方であった可能性が高い。1967年であれば、中3の時ということになる。改めて読み直してみると、これは傑作です。



2023年8月2日水曜日

半世紀 6 「小さき者たちの」

 暑い。35度越えの猛暑日が10日以上続き、熱帯夜も同じように続いている。こんな日がいつかやってくるだろうことは、どこかで予感していた。そんな日が、とうとうやってきた、のかもしれない。

 半世紀前、エネルギー消費の問題は、先進国vs途上国という文脈で人口論とからめて議論されていた。これから途上国の人口が増え続け、その人たちが先進国並みにエネルギーを使い始めれば地球は保たない。先進国目線の都合の良い議論であった。僕が「一生車を持つことはないな」と思ったのは、インドの田舎で暮らしていた1974年のことで、実際、ここまで車を所有することなく、自前の家も建てることなく過ごしてきた。それが、ただの自己満足にすぎず、物欲が他の方向に向いていただけで、消費生活にどっぷり浸かって、これまで生活してきた。これは認めるしかない。

 「小さき者たちの」(松村圭一郎 ミシマ社 2023)という本を図書館で借りて読んでいる。1975年生まれのアフリカをフィールドとしてきた人類学者が、自分の生まれた九州・熊本の水俣病にまつわるテキストを読み込み、庶民と国家との関係を細やかに浮き上がらせている。この本の「ひきうける」という章の冒頭で引用されている、水俣病に関わった医師原田正純の言葉。「たとえば、町を歩いていて、たまたま交通事故を目撃するじゃないですか。事故の当事者とは関係なくても、現場に居合わせた責任みたいなものを背負ってしまう。偶然でもね。[中略] 地元の大学にいて神経学を勉強していて、しかも、それを見ちゃった。あの状態を見て、何も感じないほうがおかしい。ふつうの人は何かを感じる。もう逃れられないんじゃないですか。それこそ、見てしまった責任ですね。」(朝日新聞西部本社編『対話集 原田正純の遺言』岩波書店)

 見て見ぬフリをして生きていくのは、日本人の特技である。そんな日本人の一人として、僕も生きてきた。上掲書に、1973年3月、水俣病第一次訴訟に原告勝訴の判決とある。そう、僕が工業高専を卒業した年、海外に逃避した年が1973年なのだ。中堅技術者養成校として高専は1960年代はじめに設立されている。ふりかえれば、日本で公害問題が顕在化してきた歴史とともにあったともいえる。技術者として就職することは、加害者側に付くことになる。このような単純な図式から、僕はモラトリアムの道を選んだ。まあ、恵まれた環境にいたわけだ。





2023年3月13日月曜日

半世紀 5

 秋ぐらいに某団体の集会に呼ばれて稽古会をする可能性がある。まだ確定ではないのだけれど、いちおう、どんな内容をやろうとしてるのか教えてくださいとのことなので、文章をでっちあげてみた。ここまで書いてきたことのまとめみたいなものか。

<ひとにふれる せかいにふれる>
 世界を知るにはふれることからはじめなければならない。自と他の境界線上に感覚という経験が生まれる。その感覚経験が身体によって消化・同化されて、はじめて身に付くことになる。これを「身体化」と呼ぶ
 ところが、人は文字通り人それぞれであり、同じ時間、同じ場所にいたところで、ひとりひとり「感受性の方向」が違う故に、体験の質はそれぞれ異なったものになる。消化された食べものが人の体をつくっていくように、同化された経験が、その人の体をつくっていく。つまり身体化のプロセスにおいて、そこには必ず他者の存在があり、また、体験を受け止める一人ひとり異なった感受性がある。よって、身体ははじめから個性的である。
 人が他者にふれると、そこで感覚経験が生まれる。では、人はどのように他者にふれればよいのだろう。相手を操作しようとふれる者がいる。相手と同調しようとふれる者がいる。では、同調的にふれようと意図して、実際に相手にふれたとき、そこに同調は生まれるであろうか?
 困ったことに、自動的に同調は生まれない。なぜなら、まず、ひとりひとり異なった身体を有しているからである。次に、ふれるための手は、操作することが習慣化されているからである。同調なき接触は、たとえ本意ではなかったとしても操作的にならざるをえない。人間関係の困難は、この齟齬から発生するといってもよい。
 人と人が(モノであっても同様)、どのように同調的な関係を切り結べるのか、人は体験というものをどのように同化・身体化していくのか。整体の知見をベースに、このような研究を身体教育研究所では行っています。また、すべて稽古という、実際に体で経験する会として提示しています。

(しばし休憩)

2023年3月11日土曜日

半世紀 4 京都

1975年から1986年までの十年間、京都で暮らした。20代から30代前半に当たる。一昨年だったか、一年かけて、当時付き合いの多かった片桐ユズル編集発行の「かわら版」20年分をデジタル化する作業をやった。整体にすすむきっかけを与えてくれたのは片桐ユズルだったし、彼自身手広く、いわゆるボディワークを輸入していた。それはともかく、かわら版のデジタル化作業をやりながら、70年代後半からの京都暮らしは、僕にとっての揺籃期ーつまり、異文化に攪拌されて輪郭を失っていた私が、新しい輪郭を作っていた時期に当たっていたということだ。おい、10年もかかったのか。これとて、事後的に作り上げた、仮説のひとつなのだけれど。

「風邪の効用」は教育の書として読まれるべきだということを言い続けている。晴哉先生の「経過」という思想は、「学び」について考える上で、決定的なものであった。風邪をひき、それをうまく経過させれば体は、それ以前より丈夫になる。これって、「culture shock fever」のことじゃないか。我が意を得たりとはこのような心境のことをいう。それでも身に染み込んでいる私自身の傷病感、健康観のようなものが邪魔して先に進ませてくれない。身体の時間と精神の時間は、流れている質が異なっているのだ。ここから身体教育研究所の時代に入っていく。1988年のことだ。娘が生まれた年でもある。

(つづく)

2023年3月9日木曜日

半世紀 3 身体

十年サイクルで教育のことを書きたくなるらしい。10年前、「なぜ身体教育なのか?」と題した文章を書いている。いま書いたとしてもいく同工異曲、大同小異のものしかでてこないと思うが、どのような小異になるのだろう。

1970年代後半から80年代にかけ、僕が「culture shock fever」と呼んでいた、「異文化への適応過程における体調不良とその経過」というテーマは、そのまま、「体験学習という理念は、どのように実現されうるのか」というテーマに横滑りしていくし、「人はどのように学ぶのか?」という大テーマに敷衍していくこともできる。この時点ーおそらく1970年代後半あたりーに大きな岐路があったらしい。もっとアカデミックな「教育学」に向かっていれば、ちがった人生が展開していたのかもしれない。ほんと、パラレル・ワールド

ところが、学びにおけるキーワードとして「身体」が浮上してくる。ここから先は、もう整体の独壇場といってもよい。言い換えると、整体の学びを深めていく以外、自分自身のテーマの追求はあり得なくなってしまう。これは大変だ。整体協会には整体協会の掟がある。

(つづく)

2023年3月8日水曜日

半世紀 2 ライフワーク

いまを起点にして半世紀前を振り返るというのは危険を伴う。
そこから現在に至る道筋を自分に都合のよい物語として描いてしまうことになってしまうだろう。なんせ、その時には、自分の未来がどのように動いていくのかまったく未知数だったわけだから。事後的に振り返れば、ああ、あの時代、自分がどのような段階にいて、なにをやろうとしていたのだと記述することは可能だろう。でも、それでよいのかという疑念は拭えない。

ライフワークというのは、その人がどのような異化感を人生のどの段階で何に対して持ったかによって決定されるのではないかというのが、僕の仮説。もちろん異なった経緯でライフワークと出会うことだってあるに違いない。僕の仮説が僕一人にしか適用されなくってもぜんぜん構わない。実際、ライフワークがライフワークとして意識される、あるいは浮上してくるのは、そうとう後の段階であったりする。

ひとはなぜ海外に行って、3ヶ月暮らすと体調を崩すのだろう?というのが一途最初に浮かんだ疑問だ。僕自身そうだったし、周りを見回すと同様の経験をしている人は多かった。もちろん個人差は大きくて、いきなり体調を崩す奴もいれば、一年経った頃、ガツンと来る奴もいる。それを経験した後で、異文化への馴染み度が一気に変化する。不思議だった。このような事例に気づいたのは、おそらく整体の考え方が僕に入りはじめた時期と重なる。1970年代の後半、地球をひと回りして帰ってきて数年後のことになる。

(つづく)

2023年3月7日火曜日

半世紀 1 1973年

はじまりは1973年。
それから半世紀が経ったことになる。
岡山の田舎で過ごした20年ののち、僕は太平洋を渡った。それが1973年の8月。
旅は20ヶ月後の1975年4月まで続き、そこから、整体に出会うまでさらに3年。
コロナ期の前には、第二次ワールドツアーなども計画していたのだが、どうもそのような気配はない。静かに四国遍路を続けることにする。

1973年と2023年
半世紀の間に世界は変わってしまった。
1973年、世界の人口は39.2億。それがいまや79.7億人だという。
もっとも、日本の人口は少し増えたとはいえ、1.087億に対して、1.246億。
すでに人口減少期に入っているからー去年1年で80万人減!ー1973年レベルには、すぐ戻ってしまうだろう。
人口の変化は多くはないが、人口構成割合は大きく変わった。
15歳までのこどもの人口比率は1973年で24.3%、それが今や11.9%.
一方、65歳以上の老人比率は、7.9%から28.9%に上昇、つまり少子高齢化社会。

1973年に1ドル360円という固定相場時代は終わったが、僕の記憶には1ドル300円というレートがしっかり刷り込まれている。国際電話の料金は3分3000円。携帯電話はまだない。インターネットも無論ない。世界は今よりもずっと広く、ずっと遠かった。

(つづく)