2026年7月27日月曜日

フィールドノート (補)

フィールドノート1〜5を読んだ妻が一言。
結婚生活もフィールドワークよね。至言です。

ゴーヤ収穫

ゴーヤ第一号収穫。
十日前に小指の先ほどの大きさだった1号が立派なゴーヤに成長していた。
いよいよゴーヤシーズンの始まりです。



フィールドノート 5

 フィールドノートを書くって、どういう意味があるのだろう。当事者であることと、観察者であることを同時並行で行う。巻き込まれながらも。巻き込まれきらない立ち位置を取るってことなのか。巻き込む力が並外れて強力な人の近くにいたから、フィールドノートを書くという行為は、僕にとっての生存術でもあったといってよいのかも。

 フィールドとしての整体協会は、実に多くの経験と考察を提供してくれた。へんな組織であったけれど、日本社会の雛型の要素を色濃く残していて、大げさにいうと、天皇制とはなんだろうということまで考えさせてくれた。

 今回の一連の文章は、なんで僕はこのブログをやってるんだろうという、自分自身への問いから始まったもので、ここまで、だらだらと書いてきたおかげで、少し意味がわかってきました。「生き延びるためのフィールドノート」というと大げさに聞こえるかもしれないけれど、自分を駆動し続けてきたエネルギーの源をたどっていくと、こんな結論にたどり着いた。

 ひとまず、これで、おしまいにします。

2026年7月26日日曜日

フィールドノート 4

 フィールドノートの中身は、どんどん拡張していった。子育てが始まったことで育児日誌となり、稽古場の事務方を担当していたので、稽古場運営日誌的なものも増えていった。サッカー話もでてきたし、振り返ると、コンピュータに関する記事も多い。整体協会は、どんどん背景化していったが、大きな枠組としての存在感は間違いなくあった。

 京都に戻って来て数年経った頃だと思うけれど、知り合った編集者の方から、本を書いてみませんかという提案を受けたことがある。ちょっとその気になって、自分が書いたものの中で-整体関連のものを集めてみた。読みものとしてのつまらなさに自分で驚愕した。もう少しましなものができるんじゃないかと思っていたのに、実につまらなかった。その後、コロナ禍がやってきて、幸いなことに、この話は立ち消えた。

 僕自身、本を書くということを舐めてた。それまで書き留めていたものをコラージュすれば、本の一冊くらいできるんじゃないかと軽く考えていた。だけど、フィールドノートは素材にすぎず、もし作品にするなら、素材を摺鉢ですり潰して、濾過して、それを発酵させるくらいの手順を踏まないとダメだということにだいぶ経ってから気づいた。その編集者の方には、ほんと失礼なことをしてしまったと、今にして思う。

 で、手元にフィールドノートだけが残った。自分用データベースとしてPDFにしてiPadに入れている。B5換算で2000頁。このブログが続く限り、このまま増殖していくことになる。

 もうちょっとだけ続きます。

2026年7月25日土曜日

フィールドノート 3

 宇奈根通信で始まったこの個人通信は、翌年、結婚を機に横浜に引っ越したのちは、あざみ野通信と名前を変え、結局、紙メディアとしては1994年まで続く。結婚、育児、稽古場の始まり、人生で一番慌しかった時期かもしれない。

 その後、インターネットの普及とともに、メールマガジンだったり、ホームページだったり、かたちを変えながらつづき、ここ20年ほどは、ブログという様式で落ち着いている。FacebookとかInstagramとか、いわゆるSNSを試したことはあるけれど、肌に合わず、結局放りっぱなしである。

 ブログの良いところは、読者不明というところ。つまり、僕自身あんまり反応を求めていない。どちらかというと、ネットで公開された自家用データベースというような位置付け。ただ、十年分をネット上で公開する意味があるのかどうか、ちょっとわからなくなって、いまのところ3年分にとどめている。

 そうそう、フィールドとしての整体協会でした。僕が所属していたのは事務局。職員数も15人はいた。本部道場の一階の狭い空間に机を並べて仕事していた。構成員の半分はどっかの会社を定年退職してからやってきた人、残りの半分は生え抜きというか、若い頃から整体協会に関わってきた人たち。片や世間の荒波をくぐってきた年寄り、もう片方は、世間知らずの若輩者たち。これに当時、5、6人はいた二十歳前後の研究生が日常的に顔を合わせる人たちということになる。これに野口家の面々が加わるわけで、なんか、これだけで十分濃厚。

 講習会ともなれば、全国から指導者たちが集まってくるわけで、その当時はまだ元治療家という人たちも大勢いて、それぞれが一城一国の主みたいな強烈な個性の持ち主で、まあ、こんな野獣のような人たちを相手に、まだ30代後半だったダン先生よく講義してたなと思うくらい。バブル絶頂の時代で、整体協会もバブルの中にいた。人間観察してるだけで楽しかった。

もう少しつづけます。

2026年7月24日金曜日

フィールドノート 2

 このブログは40年前の始めたミニコミを起源とすることは、前のポストで書いた通り。整体協会という異世界からのレポートだったわけです。仕事としてやることは、一般企業と変わらない(一般企業で働いたことはないのだが)はずなのだけれど、参与観察する場として、それはそれは興味深かった。まあ、僕の中では、整体協会=日本社会というふうに位置付けていたわけですね。実際には、そんなわけないのだけれど。創刊号(五頁立て)の一頁目だけ画像を載せておきます。いや、初々しい。

つづきます。



2026年7月23日木曜日

フィールドノート 1

 このブログは何なのか。日記でもないし、稽古会の宣伝をする場でもない。うーん、ひとことで言ってしまえば、これは僕のフィールドノート。というのも、このブログの始まりをたどっていくと、40年前、1986年の「宇奈根通信」にたどり着くのです。京都から東京に引っ越し、そこから関西の知人友人たちに送った便りのタイトル。これが元々の元ということになる。じゃあ、フィールドは何ですかと問われると、「異文化としての整体協会」と答えることになる。そう、僕は整体協会事務局に入社するために東京に引っ越したのでした。あれから40年経ってしまった。宇奈根通信はワープロ+コピー+郵便で成り立っていた、当時の言葉でいうミニコミ、今だとZINEとでも呼ぶのか。50部くらい作っていた。

 なんで整体協会が異文化なのかというと、京都で僕が暮らしていたのは、京都の中の英語日本語ちゃんぽん文化圏で、実際には、こっちの方が異文化なのだけれど、整体協会に入るってことは、100%ガチな日本社会に脚を踏み入れるということで、それなりに緊張して入社したのです。宇奈根通信の第一号に、「英語世界から敬語世界へ」というフレーズが出てくるのですが、まさにそんな感じ。しかも、整体協会って、フィールドワークするにふさわしい奥の深い異国だったのです。

つづく