2026年9月30日水曜日

稽古日程10月〜

9月からはじめた週2での集団稽古、1ヶ月無事終了。
Julianaさんが京都にいる11月までは続けようと思います。
生観法基礎、動法基礎、それぞれ全10回くらいになるはずなので、3ヶ月終わる頃には、基礎稽古のカリキュラムができあがりそう。とはいえ、参加者の顔ぶれによって、また、初手になにを置くかで中味が変わってくるのが稽古の醍醐味。あっちに流れ、こっちに流れしながら、最終的に全体が捉えられるような構成にできないか、試行錯誤しながら進行中です。

雨の日が多かった9月ですが、10月の天候はどうなるのでしょう。

稽古日程 ↓

9月の読書

停滞空間* アイザック・アシモフ 早川書房 1979
日本藝能史六講* 折口信夫 講談社学術文庫 1991
メソポタミアのボート三人男* 高野秀行 集英社 2026
我々の死者と未来の他者* 大澤真幸 集英社インターナショナル 2024
鶏まみれ* 繁延あづさ 亜紀書房 2026

2026年9月29日火曜日

AIとの付き合い方

AIとはどう付き合っていけばよいのだろう。
今の時代、ネットに接続される=AI利用になってしまう。
ネットの向こう側には、大きなデータセンターがあって、いずれ有害廃棄物となる半導体が大量に納められ、それに膨大な電力が投入され、その冷却のために大量の水が使われる。きっと、その向こう側には火力発電所や原発が湯気を吐きながら電力を生み出している。

仕事をしている輩ほどAI利用には前向きだ。
道具を使うことによって、人は道具に似てくる。
AIを使えば使うほど、人間がAI化していくのは、避けようがない。
徒手空拳のいきかたが、どんどんAIに絡めとられていく未来しか見えてこない。
滑らか、かつ空疎。そんな奴、もう周りにいる気がする。

AI-Buddhaは、すでに活動している。
アンドロイド・ブッダもいるらしい。
そのうち、Haruchika-botが作られるだろう。
晴哉先生の講義録、文章をまるごとAIに読み込ませて、ヴァーチャル晴哉を作り出し、そのHaruchika botが質問に答えてくれる。

なんだか、ぞわーっとしてきた。

2026年9月27日日曜日

ズレ

はやく操法できる立場になりたいという若者。
でも、操法って、おとなの仕事なんだけどな〜、と返答に窮す。
やりたいやりたいと言ってる人たちはいるけれど、
たいがいいまだ子ども、あるいは、ある種の変態にしか見えない。
そもそも、そんなにひとの人生と関わりたいのか?

言葉はむずかしい。
今のやりとりのように見えて、その会話が成り立つのは十年後ということだってある。今、この言葉を発しても、それが相手に届くのは十年後、二十年後かもしれない。ひょっとすると永遠に届かないかもしれないと思いながら、今、会話している。

ジェネレーションギャップというのは、それぞれが持っている時間の物差しのちがいから生まれるらしい。さて、十年は長いか短いか。

2026年9月26日土曜日

君を見上げて

年に一度、あるいは二度、連れ合いは不調を訴え、眠りモードに入る。
今週なかば、用事で行った大阪から帰ってきて、そのまま、眠りモードに入ってしまった。人混みを歩いたのも引き金になったのかもしれない。たまにトイレに立って(這って)ゲーゲーやってるが、まるまる60時間、布団の中にいた。

四日目になって、ようやく起き出してきた。まだふらふらする様子だが、少しづつ冬眠から覚めてきた感じ。立ち上がった姿をみると、ちょっと違和感がある。顔が上の方についている。もともと、短躯の僕より背は高いから、少し見上げるのはいつものことだが、いつもの角度だと、鼻口は見えるが、目を合わせられない。あらら、背が伸びてる。50近くなっても、背は伸びるらしい。

冬眠中の様子だと予定していた広島行きは無理だろうと宿はキャンセル、一人分の新幹線切符も払い戻してしまっていたのに、「やっぱり、広島に行こう」とのたまう。なに、このちゃぶ台返し。明日、切符が買えればという条件付きだが、広島に向かうことにした。

そういえば、「君を見上げて」というタイトルの小説、山田太一が書いてたな。

2026年9月20日日曜日

別もの

同じ稽古をやっているつもりなのに、英語を交えると、何かが変わってくる。
いや、まったく違うことやってるんじゃないかと、ふと感じる。
今日、筆動法の稽古をやっていて、殊にこれを感じた。
ためがない。重みがない。しずみがない。
ダメというわけでは全然なくて、稽古としては問題なく成立している。
縦書きと横書きの違い?
どう理解すべきか。

2026年9月14日月曜日

条件

8歳の孫がジージに弟子入りしたいという。
これは嬉しい。三兄弟のなかでは一番素質があるかもしれない。
ガッツはある。なんせ、3歳で家出して京都まで来た人なのだ。
次男坊ゆえなのか、気働きも抜群。

では、弟子入りの条件はどうしよう。

前回の回り稽古が終わったあと、等持院稽古場で担当指導者5人の座談会をやったのだが、その時に稽古場に入る者の「心構え」の話が出た。二子玉川に稽古場ができた当初、裕之先生がオリエンテーションの時に話されていたことである。

次の者、稽古場に入るべからず、という否定形ではじまる。
1. 自らの体を全力で使うことを惜しむ者
2. 自らの感覚を疑う者
3. 自らの身体をおそれる者

正確な文言ではないかもしれないが、概ね、以上に挙げたような内容だった。裕之先生がどういう意図でそう話されたのか、僕らは、それらを、どう受け止めていたのか。時代的背景も含め、今一度、吟味する意味がありそうだ。

そう、弟子入りに条件の話でした。
8歳の孫にはすでに上記3条件を満たしていそうだ。
というか、ここにたどり着くまで一代目は苦労する。
ダン先生がいっときよく「整体三代」と言っていた意味もここにあるのだろう。

欲張りジージは考える。
これにさらに条件をつけるとすると、何があるのだろう?

1 )   10代20代のうちに海外で暮らす。最低一年。
 マイノリティ経験のない人に指導者は向かない。ま、整体の水で育っていれば、自分がマイノリティであることは、どこかの段階で気づくことになるのだが。言語を通して、自分を相対化する経験も大事。
2)家事ができること。
 料理、洗濯、身の回りのことが自分でできなきゃダメでしょう。力仕事もできたほうが良い。DIY的プリコラージュ能力は必須。

 要するに自分に足りないものを列挙しているだけではないか。