311から5年か〜
まだ半分夢の中にいるようだ
震災のあと、ダン先生に「しょんぼりしてるね〜」と言われ(2011)、
四国遍路を思い立ったはよいが「旅立てず」、その代わりに主夫業をやり(2012)、
翌年、妻が復活したのをよいことに、ドイツ・フランス・ブラジルに大遠征(2013)
帰ってきたと思ったら、義姉が亡くなり、妻が秋田で倒れ、
秋田に通う日々がはじまった(2014)
その年の秋には妻、父を相次いで看取ることになる
同じ年、竹居先生が逝き、小堀さんが逝き、夏にはロイ先生まで逝ってしまった
震災後、いったい何人の身内友人知人を見送ったのだろう
そういう年齢に自分自身が差し掛かっていたとはいえ多すぎないか
昨夏からの引越狂騒曲など慌ただしいだけで平和だった(2015)
そして、僕はまだこうして生きている(2016)
2014年3月27日木曜日
2013年3月10日日曜日
2012年7月23日月曜日
2012年7月10日火曜日
ほむほむ
ほむほむ、ほむほむ、
と若者が嬉しそうにつぶやくので、
「ほむほむ」とはなんだと問うてみたら、
穂村弘という歌人だという
どうやら、アイドル歌人、あるいはカリスマ歌人、らしい
本屋の棚を探してみたら、あったあった
『短歌の友人』(河出文庫)という本を見つけて読み始めた
これは名作だ
短歌にはまるで不案内なのだが、
ページをめくるたびにふむふむと頷くことになった
様々な媒体に折々に発表された文章を一冊にまとめたものなのに
まるで齟齬がない
270頁の文庫本にしては濃密すぎる
…我々が〈近代〉以降の時間を生きつつ、同時に〈戦後〉という時間を生きつつ、同時に、〈今〉を生きている、ということである。我々は三つの時間に同時に生きている。そして〈近代〉以前の時間からは大きく切断されている… (p.205) …斎藤茂吉の作品を頂点とする、このような近代短歌的なモードを支えてきたものは「生の一回性」の原理だと思う… (p.126 ) …次に戦後という時代性に対しては、…私見では、短歌は「言葉のモノ化」というかたちでもっとも鋭くこれに「対応」したと思う…(p.133 )…すべてがモードの問題に還元されるような感覚を突き詰めるとき、その根本にあるものは死の実感の喪失である..(p.131)
と、めずらしくたくさん引用してしまったが、
時代の変化と短歌のモードの変遷は、
当然のことだけれど、身体性の変遷と対応している
で、問題は〈今〉なのです
…決定的に〈酸素〉が足りない世界で生きていくために、人間は機械に〈進化〉したのだろうか…(p.107)
のような〈今〉
しかも、自分自身が拠り所としていたものは幻であったことが
露わになってしまった原発事故後の〈今〉
〈今〉の〈私〉は、
上で引用した「三つの時間」のレイヤーが
地震によって撹拌され、ぐちゃぐちゃになった液状化状態
再編成が進行中という感触はあるのだけれど、
形になるまで、もうちょっと時間がかかりそうだなぁー
と若者が嬉しそうにつぶやくので、
「ほむほむ」とはなんだと問うてみたら、
穂村弘という歌人だという
どうやら、アイドル歌人、あるいはカリスマ歌人、らしい
本屋の棚を探してみたら、あったあった
『短歌の友人』(河出文庫)という本を見つけて読み始めた
これは名作だ
短歌にはまるで不案内なのだが、
ページをめくるたびにふむふむと頷くことになった
様々な媒体に折々に発表された文章を一冊にまとめたものなのに
まるで齟齬がない
270頁の文庫本にしては濃密すぎる
…我々が〈近代〉以降の時間を生きつつ、同時に〈戦後〉という時間を生きつつ、同時に、〈今〉を生きている、ということである。我々は三つの時間に同時に生きている。そして〈近代〉以前の時間からは大きく切断されている… (p.205) …斎藤茂吉の作品を頂点とする、このような近代短歌的なモードを支えてきたものは「生の一回性」の原理だと思う… (p.126 ) …次に戦後という時代性に対しては、…私見では、短歌は「言葉のモノ化」というかたちでもっとも鋭くこれに「対応」したと思う…(p.133 )…すべてがモードの問題に還元されるような感覚を突き詰めるとき、その根本にあるものは死の実感の喪失である..(p.131)
と、めずらしくたくさん引用してしまったが、
時代の変化と短歌のモードの変遷は、
当然のことだけれど、身体性の変遷と対応している
で、問題は〈今〉なのです
…決定的に〈酸素〉が足りない世界で生きていくために、人間は機械に〈進化〉したのだろうか…(p.107)
のような〈今〉
しかも、自分自身が拠り所としていたものは幻であったことが
露わになってしまった原発事故後の〈今〉
〈今〉の〈私〉は、
上で引用した「三つの時間」のレイヤーが
地震によって撹拌され、ぐちゃぐちゃになった液状化状態
再編成が進行中という感触はあるのだけれど、
形になるまで、もうちょっと時間がかかりそうだなぁー
2012年7月9日月曜日
2012年6月23日土曜日
2012年5月17日木曜日
2012年4月28日土曜日
2012年3月15日木曜日
2012年3月4日日曜日
2012年3月3日土曜日
BBC This World 2012 Inside the Meltdown
311から一年が経とうとしている
原発事故を取り上げたBBCの番組
見たことのない映像満載
動いている吉田所長の姿ってはじめてみるような気がする
どうしてこのような番組が日本でつくり得ないのか?
原発事故を取り上げたBBCの番組
見たことのない映像満載
動いている吉田所長の姿ってはじめてみるような気がする
どうしてこのような番組が日本でつくり得ないのか?
2012年1月7日土曜日
311以後
311で何が変わったかというと、つまりは「身体」が変わったとしか言いようがない。震災以来、私の中でずっと続いていた賞味期限切れ感、付焼刃感の源はここにあったのではないか。身体そのものが変わってしまった結果、二十年間追い続けてきた「近代的・医療的身体観」からの脱却ーひとつの規範としての「昔の日本人の身体感覚」という方法論もまた、その有効性に揺らぎが生じてしまった。そういうことだったのでないか。身体は世界と呼応する。時代と呼応する。放射能の影響で身体が変わったのではない。放射能の危機がここに在るという世界に転じたことで、身体もまた変わってしまったのだ。そして、新しい身体には新しい方法論が必要となる。明治維新や高度成長によって身体は変わった。パソコンやインターネットの出現によって身体は変わった。きっとその通りだ。しかし、それらとの比較によって震災後の身体は語れない。震災が起るまでは、あと20年これまでの延長線上でこれまでの路線で続けていけば、もう少し違ったものが観えてくるのではないかと進歩史観的に楽観していたところがある。しかし、そうは問屋が卸してくれなかった。まことに有難いことである。
2011年3月13日日曜日
地震当日
みなとみらいホールで行われる音楽会(佐渡裕+辻井伸行+BBCフィルハーモニック)に出かけて行った。半年も前に予約していたプレミアチチケット。ミーハーな父の奢り。
【14時17分】あざみ野駅より横浜市営地下鉄。やけに心臓が苦しい。だれか、調子の悪いひといったけ? 妻と娘には時間を教えておいたのだが乗
ってこない。次の電車で来るのだろう。ありがちなパターン。
【14時22分】父の携帯か ら着信。電車の中だったので受けず。一足早く桜木町に着いたのだろう。
【14時48分】桜木町到着。電車から降りたら目眩がする。改札を抜けると人が騒いでいる。地震だ! 速足で地上に向う。
【14時50分】桜木町改札前で父と合流。
【14時52分】大井町稽古 場にいる松井くんから電話。大井町もだいぶ揺れたらしい。松井くんと話していると、向 こうから横浜稽古場の小杉さんが歩いて来る! 電話で話しな
がら、小杉さんに父を紹介する。
【15時】妻から地下鉄が三ツ沢上町で止まってしまったという電話。父に予約していたホテルにチェックインしようと提案したが、腹が減ったと仰る。じゃあ、妻たちが着くまで 時間をつぶそうと、駅の脇にあるコーヒーショップに入る。次の地震が来て大きく揺れる 。客の多くが外に飛び出す。妻たちの乗った地下鉄は動いてない様子。しびれを切らして ホテルに向かおうとするが、タクシー乗り場には長蛇の列。バスはどうかと停留所に行く と、お客さんを降ろしたらパスは操車場に戻れという指示がでているという。
【16時】あきらめて、会場方向に移動することにする。エレベーター、エスカレーターが 動いてないので、父の尻を押して階段を登る。妻たちは電車をあきらめ横浜駅方面の歩き 出したという。腹ごしらえと思ったが、なんとレストランも閉鎖。ファーストフード系のお店はやっている。音楽会は予定通り開催されるとのアナウンス。震災地の状況はよくわからない。
【17時】時間待ちを覚悟して、ホール横のコーヒーショップに入る。横浜駅を経由してみ なとみらい地区までバスと徒歩でたどり着いた妻と娘も合流。横浜駅周辺の混雑は尋常で
はなかったらしい。
【18時】開場の時間が近づいたので入口に向かうと、公演中止のアナウンス。そうだよな ~、と納得。未練たらたらの父。ではどうやって父をホテルまで送り届けるか。タクシー呼べば、とノーテンキなことを考える家族にイラツク。自分たちが置かれた状況をまったく理解してない。
【19時】ホテルまで歩くか、それとも帰宅難民として開放されたパシフィコで一晩過ごす か。先遣隊としてパシフィコをチェック。遠い。避難所となっている展示場は超巨大な体 育館。帰宅を諦めた人が集まり始めている。毛布もない状態で85歳の父が過ごすには酷。それなら頑張って4キロ歩いた方がよいという結論。桜木町駅に向かって歩きはじめる。パシフィコめがけて歩いて来る人たちの群れとすれ違う。
【20時】桜木町駅前。タクシー乗場は長蛇の列。ところがパスは動きはじめる気配。ラッ
キー、とバス待ちの列に加わる。バスが来る。動きはじめるが、上り方面の道路が渋滞していて公道にでられない。30分近く待ったあげく、ようやく動きはじめる。目の澄 んだ美人ーこの日の唯一の救い一に降りるべき停留所を教えてもらいバスを降りる。風が強い。
【21時】ホテルにチェックインして一息つく。少なくとも父の宿は確保できた。しかし、 我々三人の帰宅難民状態は変わらない。ホテルは満室。電車が動くことを祈って父の泊まる狭いシングルルームになだれ込む。テレビ報道を観て、ようやく今回の地震被害の大きさをしる。少なくとも部屋の中は暖かい。
【22時】フロントに電話して、最悪全員ここで夜明かししてもよいかどうかを交渉、「黙認します」という言葉をいただく。ここでの夜明かしを覚悟。娘は買い出しに行ってくる という。妻も同行。女たちはたくましい。おでん、中華まんじゅうを買って戻ってくる。
【23時】ひたすらテレビを観る。
【24時】 TVKで交通情報を観る。東急線が動きはじめた気配。横浜駅まで出られれば帰宅可能か。
【25時】横浜市営地下鉄が動き出したとの情報。ホテルで一晩過ごすか、それとも帰宅す るか。家の中に閉じ込められている猫のことも気がかりなので、帰宅を決断。三人で外に 出る。夕刻よりも寒さが和らいでいる。関内めがけて歩く。日本大通りあたりにくるとなじみの風景になりほっとする。関内の駅に着いて間もなく電車が来る。車内は閑散としている。
【26時】あざみ野到着。早足で歩く。葛西の妹のところは家具が散乱したということだっ たので心配しながら玄関のドアを開ける。本棚の上に置いてあったipadもそのままの場所にある。食器棚の扉は開いていたが食器は落ちてない。猫も無事。ホッと胸をなでおろす。
【27時】疲労感と安心感と高揚感がないまぜになって寝つけない。
身の丈に合わないことをしてはいけない、というのがこの日の教訓。
地震発生から48時間たち、報道されてくる被災地の状況は目を覆うばかりです。亡くなっ た方、行方不明の方も、大勢いらっしゃいます。数十万という単位の人たちが避難生活を 送っています。そのような状況のもと、平和ボケした文章を載せるのはいささかためらわ れたのですが、「その日の記録」として書き込むことにしました。今回の地震についての
考察は項を改めて書くつもりです。(2011/3/13)
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