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2025年7月22日火曜日

風景としての整体

風景としての整体というものはある。

では、どこまでが整体で、どこから整体でなくなってしまうのか?
やっている中身はともかく、畳の上で行うことで成り立つ整体というものはある。
では、フローリングの床でやった今回の稽古会ー当地ではワークショップと呼んでいるーはどうだったのか?

身体観が変わらないと整体は理解できない。
まったく、その通りで、身体観を変えていくことで、僕らは整体の道を進んできた、はずだ。では、身体観を変えるための整体という表現は可能なのか?

ドイツで長年続いている稽古会に参加している日本人の方が、ウィーンのワークショップにやってきて、動法を初めて経験する当地の人が「カタ」に入るのを目撃してカルチャーショックを受けたと、事後、メールで感想を送ってくれた。新しい身体観に触れたことは確かだろう。でも、それは、整体と出会ったのか?

Feldenkraisをやっている人が、あるいは、seikihoなるものをやっている人が稽古に来て新しい身体観に触れる。その後、その人がやることは、Feldenkrais 2.0に、seikiho2.0に変わるかもしれない。でも整体にはならないだろう。このようなかたちで新しい(新しいのか?)身体観が広まっていくのを、僕らは素直に言祝ぐべきなのか?

結論の出ない宿題をもらって帰ってきた。

時差ボケもようやく抜けてきたのでー夏バテ気味ではあるけれどーヨーロッパ2025シリーズは、これで一区切りとします。

2025年7月14日月曜日

ブラジル組

ウイーンでの稽古会にブラジル組が参加してくれた。
サンパウロで活動する田中さんの仲間たちである。

ひとりは4年前、コロナ禍のとばっちりで、ゲーテ協会の招きで日本に来るはずだったのに、”online residency program”なるものに甘んじなければならなかったL。ベルリンを拠点とするダンサー/コレオグラファー。ZOOMでしか会ってなかった本人が生身の触れ合える人間として、目の前に現れた。→ skima

もうひとりはJ、奥さんと二人でオランダのDelftという街からやってきた。12年前、ブラジルに田中さんを訪ねた時、世話を焼いてくれたJは、その後、ボストンで5年暮らし、今は、オランダで暮らしているという。多感な青年が、逞しいややオジサンの要素まで付け加えて姿を見せた。→ road to brasil 2013

そのJ、稽古会の前日、録音機材と撮影用の三脚まで持って僕らの宿に現れた。延々2時間、幼少期から、青春時代、整体との出会い、さらにその先のことまでインタビューされた。かつて、こんなに自分のことを喋ったことはない。稽古場には30人の指導者がいて、ひとりひとり語ることは違うだろう。僕に整体を語る資格はないけれど、ひとりの整体の徒として経験したことなら話せるかもしれない。そんな風にインタビューは始まった。2時間喋ったらもう疲労困憊。ただ、本番へのよい助走にはなったように思う。“My story with Seitai “というタイトルの本が一冊書けそうなくらい濃密な時間だった。

Jとは、東京で会い(大井町稽古場)、サンパウロで会い、そして、ウイーン。3大陸で同一人物と会う機会って、そうはないよね。ものごとの伝わっていく様は不思議という他ない。

2025年7月11日金曜日

整体3.0

今回のヨーロッパ遠征のテーマは整体3.0。
なんで3.0なのかに、あまり意味はない。敢えていえば、new schoolの整体。

とはいえ、稽古としてやったのは、ただひとつ「隙間をとらえる」という「整体以前」と呼ぶべき稽古のみ。紙風船を使い団扇を使い、手を変え品を変え、ひたすら、体を捌き、間に集注するという稽古のみ。

活元運動を知っている人もいるようだったので、その準備運動を動法的にやろうかとも思っていたのだが、ある稽古の途中、脱力的な動きが出てきたと思ったら、それが、よく見かける、観念運動的活元運動まがいのものに変わってきたので、こりゃダメだと、活元運動には触れずじまい。習慣化された自発運動ーhabitualized spontaneous movementsなんて語彙矛盾に決まってる。

愉気の型で人に触れることを教えようとしたら、それまで受動的な感覚で人に触れる稽古をしていたはずなのに、掌が相手の体に届いた途端にやる気満々の能動の集注に変わってしまったので、これも中断。触れられている人が触れている人を身体集注に導く稽古に切り替えた。日本の稽古会でもよく見かける風景なのだけれど、整体3.0は難しい。

整体はmethod方法ではない。整体を生きるためのartなのだと強調してきたけれど、はたしてどのように受け止められたのか。そうそう、稽古場を説明するのが面倒で、整体協会にはold schoolとnew schoolがあって…と話することにした。使い勝手はすこぶるよい。その二つはどこが違うんだという質問が次に飛んでくることからは逃れられないけれど。

楽友協会

ウィーンの楽友協会Musikvereinで音楽が聴けたのは僥倖だった。
その音の豊穣さにカルチャーショック。想像していたよりも小さなホールで、客席数は800ほど。若手演奏家によるヴィヴァルディの「四季」をメインに据えた演奏会だったのだけれど、音の響きにちょっとたまげた。なるほど、こんな音を求めて、多くの日本人がヨーロッパを目指したのかと、ドイツ稽古会のメンバーである演奏家ひとりひとりの顔が瞼に浮かんだ。ここで、フルオーケストラの演奏を聴いたらどんな感じなんだろう。おそろしや。

まったく余談なのだが、父はミーハー・クラシックファンだった。要するに、有名どころーあの時代だと、カラヤンとかーのレコードを買ってきては、居間に鎮座するステレオで聴いていた。母が亡くなって何年もしないうちだと思うのだが、ある時、帰省したら馬鹿でかいプラズマテレビが置いてあってたまげたことがある。自宅では14インチのテレビを観ていたのに、実家に帰ると大型テレビ、といっても32インチか40インチくらいのもので、今となっては珍しくもないサイズなのだが、1990年代では、まだ珍しかったし高価だった。で、正月になるとNHKのBSで放送していたウイーンフィルのニューイヤーコンサートを嬉しそうに観て、「いつか行きたいな〜」などと宣っていた。そのニューイヤーコンサートが開かれる会場で音楽を聴いてきた。きっと、天国で喜んで、あるいは羨んでいることだろう。僕も、これからは、ミーハークラシックファンJr.を名乗ることにしよう。




2025年7月10日木曜日

栄養学

どこの国に行っても、その国の食事に適応し、日本食を恋しく感じるなんてことはないというのが僕の自慢だった。なので、海外旅行に日本食を携えていく人の話が理解できなかった。ところがである。今回、旅の十日目くらいに、お世話になっている知人宅で、ご飯に味噌汁、それと納豆が食卓に並んだときは、もう感動してしまった。

ドイツの人はよく食べる。現地化した日本人もよく食べる。チーズ・バターといった中身の詰まったものをよく食べる。ケーキもでかい。実際に日本のものに比べてどれも美味しいから、最初のうちは勧められるままに食べていたのだが、3日もすると、ベルツ博士の話に出てくる車夫状態になってしまった。胃がもたれて苦しい。

近代栄養学の始まりは19世紀のヨーロッパ。なんといっても、nutrition science、つまり科学である。日本の栄養学も、間違いなくヨーロッパ発祥の近代栄養学の輸入から始まっている。ドイツの人たちは、本家だけあって、栄養学に洗脳されている度合いが高いのではなかろうか。

整体の食に対する姿勢は、「食べたいものを食べたい時に食べたいだけ食べる」と至ってシンプルである。その食べたいという欲求は本物なのかを問うところが真骨頂で、放縦さからは遠い。入力と出力の間の感受性という人間的な要素が入ることで、機械的身体観とは一線を画す。なにより「少なく食べてたくさん働く」ことを整体と呼んでいる。

帰ってきた日の夜の食事は素麺。地植えしておいた大葉が巨大化していたので、庭から摘んできて薬味とした。





2025年7月7日月曜日

飛地と迷子

飛地という不思議な土地がある。
四方を異なる行政区域に囲まれた、島のような存在だ。

そこは飛地であった。
ドイツの中に存在する、その国ではない土地。実在する土地があるわけではない。ただ、日本語で運営され、日本に本部のある組織に住民登録し、その組織の規則が適用されている。そのような人たちが住む仮想の場所。外からの客も受け入れるが、客は日本ルールに沿って振る舞うことを求められる。定期的に日本から指導者と呼ばれる人がやってきては、しばらく滞在し、新しい知恵を置いて帰っていった。住民はその知恵を仲間と共有し、次の来訪を待った。

飛地に住むことを選ばなかったグループもいた。
フランスで、スペインで、あるいはブラジルで、本国から持ち込んだ教えを、その土地に定着させようとした。定期的に、時には仲間を伴って母国を訪れた。ただ、それぞれの地への定着が進むにつれ、母国との紐帯は時間と共に細くなり、移住した者たちは、自分たちの後継者を、その土地の言葉で育てることにした。やがて、第一世代はいなくなり、各々のグループは独自の道を歩みはじめる。

ヨーロッパには、日本からありとあらゆるものが伝わっている。
日本では全く知られてないグループや個人が活動の場をヨーロッパに求めた例もある。ただ、一匹狼故に、その人がいなくなってしまうと、その周囲にいた人たちは行き場を失う。その師の言葉を手がかりに、自分たちが、その師から学んできたものがどこから来たのかを探し始め、やがて飛地に通っていた指導者が属していた組織にたどりつく。聞いている話は断片的でしかなく、詳しくは知らない。師の教えと近いものがありそうだからと、一念発起して、日本のその組織を訪ねてみる。飛地で行われている会に参加してみたら面白いし楽しい。自分の仕事に取り入れられるかもしれない。ただ、ここでの教えを学ぶには十年かかるという。しかも、old school new schoolのふたつがあるらしい。

飛地ができて半世紀。異国の地で暮らしはじめ、働き、家族をつくり、半世紀生きてきた。飛地での経験、人との繋がりによって、この地でよりよく暮らせた。ただ住民の高齢化は顕著で、このままだと飛地自体消えてしまうかもしれない。この飛地での経験と迷子たちをつなぐ道はあるのだろうか。その日本の組織の活動範囲は日本国内に限定されているようである。とはいえ、迷子たちが自ら飛地を形成することに意義を見出せるとは思えない。変わるべきなのは日本の組織の方かもしれない。

2025年6月27日金曜日

ドイツ稽古会

ドイツ稽古会は1973年にスタートしたらしい。
胃潰瘍だか十二指腸潰瘍の手術を控えていた、ある楽団に所属していた日本人ホルン奏者が竹居先生を訪ね、指導を受けたことが始まり。今回のドイツ滞在で、そのようなエピソードをそのホルン奏者本人とその連れ合いから聞いた。そこから、ドイツにおいては音楽関係者の間で整体の輪が広がっていく。

2001年から2013年までの間、ドイツ稽古会には数えてみると8回来ているが、いずれも合宿形式の会に呼ばれて稽古をしてきただけだったので、参加者と個別に話す時間はあまりなかったし、この会がどのように始まり、どのように続いて来たのかを聴くこともなかった。今回は家庭訪問のようにいろんな人の家を訪ね歩くことになり、一人一人の整体との関わりを聞き書きしている。

半世紀前にこのグループに加わった人たちは、このつながりを拠り所の一つとして、演奏者として、同時に生活者として年月を重ねてきた。リタイヤして、終の住処をどこに定めるかは、一人ひとりの大きなテーマであるし、半世紀続いて来た整体稽古会ーこちらではゼミナールと呼んでいるーも、この先どう続けていくのか、岐路に差し掛かっている。竹居先生が四半世紀ドイツに通い詰めて基礎を築き、その後を、若手指導者が引き継いで、これまた四半世紀。時代の変化とともに、当地の稽古会も姿を変えていくことになる。

2025年6月23日月曜日

はらぺこあおむし

去年、近所のスウィングキッチンyour でやった講座のとき、整体的成長論の補助線としてエリック・カール のはらぺこあおむしを取り上げた。食べて食べて腹一杯食べてお腹が痛くなり、蛹になり、やがて蝶へと変身する。メタモルフォーゼとしての成長を言いたかったわけだけれど、ドイツに来てみると、やはり、このお話は極めてドイツ的だと思わざるを得ない。よく食べることが成長の前提条件になっているし、限られたサンプルからの類推でしかないのだけれど、ドイツにおいて、食に関する躾はスパルタ的になされているようだ。

ちなみに、あおむしくんが食べたもののリストは次の通り。
月曜日:リンゴ
火曜日:洋ナシ
水曜日:プラム
木曜日:イチゴ
金曜日:オレンジ
土曜日:チョコレートケーキ、アイスクリーム、ピクルス、チーズ、サラミ、ロリポップ、チェリーパイ、ソーセージ、カップケーキ、スイカ
日曜日:緑の葉っぱ

(画像はAmazonから持ってきたものです)



2025年6月21日土曜日

ドイツに来て十日を過ぎ、なんだかんだ言って、当地に適応してきている。
日の入りが遅く(日没21時半)、時間感覚が狂ったり、食べ物の違いにおなかが戸惑ったり、異和感が抜けないものは多々あるけれど、最終的には水の違いというものに行き当たる。

一体、今の自分を構成している水分は、何日くらいで入れ替わるのだろか?
調べてみると、面白い研究をしている人たちがいて、その研究によると、成人で体内水分の一割が一日で入れ替わる、つまり十日で全取っ替え状態になるらしい。

硬水軟水といった違いはあるのだろうが、なんか大きさの違う粒子が体の中で揺れている感じなのだ。この違和感がなくなったとき、この地に順応したということになるのであろう。やはり、琵琶湖の水が懐かしい。



2025年6月18日水曜日

エルヴィン・フォン・ベルツ

Stuttgart近くのBöblingenという街に住む知人宅に食事に呼ばれた。
そこで出た話題のひとつに草津温泉のある群馬県草津町とこの近所のBietigheim-Bissingen(ビーティヒハイム・ビッシンゲン)市の姉妹都市の関係。この姉妹都市交流に、ここの女主人が通訳として関わったという。

なんで草津温泉なのかというと、日本の温泉療法を世界に紹介したエルヴィン・フォン・ベルツというドイツ人医師の存在がある。ベルツ博士は明治期にお雇い外国人として日本の医療制度確立に長年尽力した人物で、その出身地がビーティヒハイム・ビッシンゲン市ということなのだ。

このベルツ博士の話は、ダン先生の講話に時々出てくる。そう、人力車の車夫の話。質素な食事しか摂ってないにもかかわらず底抜けのスタミナを発揮する車夫に、栄養学的に豊かな食事を与えたら、車夫はその力を全く出せなくなったという話。

ドイツに来て一週間。控え目に食べているつもりなのに、つい食べすぎてしまい、お腹がもたれた感じが抜けない。隙間の稽古をやろうとしているのに、当地の食事は、その隙間を埋めようとしているかのようである。ちょっと気をつけなければ。

2025年6月15日日曜日

コモンとしての身体

12年ぶりにドイツで稽古会。
フランクフルトのDiakonessenhausという修道会の施設の一室を借りての小さな会。
よい雰囲気。半世紀続いている会の歴史を感じている。

体を捌く、隙間を捉えるをテーマに3コマ。
主語、所有格のはっきりしている言語の中で暮らしている人たちにとって、隙間は誰に所属するのか。

コモンとしての身体、という言葉が降りてきた。
ただ、話の中にこの単語をちらっと入れたら、スッと引かれたような気がした。




2025年6月13日金曜日

車と街並み

ドイツ3日目。
Recklinghausenという小さな街に住む知人宅でお世話になっている。
助手席に座って街中を車で走っていると、車と街並みが一体化していることに驚く。
家の前に、道路脇に車はいっぱい停まっているのだけれど、それが風景を邪魔してない。
京都だと車が街並みの風景に及ぼす異化感が半端ないのだけれど、ここではそれがない。
つまり、京都に、あるいは日本の街並みに車は基本似合わないのではなかろうか。



2025年5月20日火曜日

身体観を変える

出発まであと三週間。

ヨーロッパ行きが決まったのは去年の10月だったから、十分な準備期間はあったはずなのに、あっという間に時間が過ぎてしまった。この間なにしてきたかというと、稽古の内容を考えるというよりも、自分の整体人生を振り返り、稽古場の歴史を辿っていた。

2回稽古会をやることになっているのだけれど、後半の方は、整体になじみのない人に、しかも通訳なしの英語でやるという無謀な選択をしてしまったので、体とはなんぞや、カタとはなんぞや、内観とはなんぞやといったことを英語で話そうと作文に励んでいる。考えれば考えるほど、頭の中はカオスに向かう。

内観を英語で説明しようとすると、えらいことになってしまう。なんで、身体観を変えろ変えろと言われ続けてきたかやっと分かった。身体観が変わらなきゃ、内観なんてできない。今ごろそれ言うかと突っ込まれることは重々承知。でも、身体観が変わるとは、世界観、人生観が変わることでもある。

途中から、紹介されて読みはじめた難解な量子論の本は補助線として有効。客観と内観は、ニュートン力学と量子力学ほど違う。つまり、世界の記述の仕方が異なっているのだ。

今更ながらの発見の連続。

2024年11月3日日曜日

EU2025 その3

というわけで準備を始めた。

an introduction to Seitai 3.0 というタイトルでエッセイを書き始めた。
3.0に深い意味はあまりない。まあ、新しいというくらいのもの。
近年の機械翻訳の進歩は素晴らしく、Google翻訳でも相当のレベル。
このブログページの一番下に「翻訳窓」があって何ヶ国語にも翻訳される。
とはいえ、そのまま人に読ませられるかというと、それは無理だ。
操法がmanipulation と翻訳されると、バカヤローと怒鳴り返すしかない。
もちろん有料のものを使って、単語の対応表で照合できるようにすれば、一気に完成度は上がるに違いない。ダン先生の講義録PDFを丸ごと機械翻訳に入れれば、あっという間に翻訳完了ということも可能な時代に入ってきている。でも、その翻訳が正しいかどうか誰がチェックするんだという話。

ずいぶん危うい時代を僕らは生きている。


2024年10月17日木曜日

EU2025 その2

遊びにいくわけではない。稽古しに行く。
9ヶ月先ということは、準備期間が9ヶ月あるということでもある。
そんな先を見据えて物事を考えたことがない。
ひょっとするとこれは千載一遇のありがたい出来事ではないか。

以前、整体協会の事務局で聞いた話。
スウェーデン人が一人、箱根の野口晴哉記念館(閉館)を訪ねてきたことがあるそうです。そのスウェーデン人曰く、「スウェーデンのインテリは、みんな活元運動をしている」と。まったく冗談のような話なのだが、荒唐無稽かというと、案外そうでもなさそうなのだ。

ヨーロッパに整体協会の活動が紹介されたのは1970年代のことのよう。
フランスには津田さんが、スペインには眞峰さんが、そして、ドイツには竹居先生が、というような具合で、活元運動を中心に晴哉先生の思想がヨーロッパに入っていった。留学生として、あるいは駐在員の家族として渡欧した人たちも大勢いた。1980年代に入るとヨーロッパの各地の活元会の人たちが日本にやってきたり、あるいは日本の人たちがヨーロッパを訪ねたり、様々なかたちでの交流があったようで、当時の月刊全生を開くとあれこれ報告記事が載っている。

野口昭子さんとアガサ・シュノーレポンさんが親しい友人であったことから、ニューヨークで活元会が開かれるといったこともあった。二人の往復書簡は月刊全生にも度々登場してたから覚えている人もいるかもしれません。アガサさんの解読不能な手書き文字に悪戦苦闘ながら翻訳していた頃が懐かしい。しかし、それ以降、個人的な交流はあったにせよ、組織的な交流は減少傾向にあったというのが、私の理解。

ヨーロッパで整体はどのように理解され、どのように受容されていったのか?
ましてや、稽古場の活動に至っては、ドイツの竹居グループに伝わっているくらい。室野井さんが舞踏のワークショップをイタリアでやったことがあるはずだけど、それとて20年も前の話。

 インターネットでSeitai とかKatsugen undo の検索語を与えてみると有象無象山のように出てきて、結構カオスな感じ。まあ、日本でも同じようなものだけれど。どんなカオスかちょっとみてきます。活元運動もテーマの一つになるので、準備として、活元運動3.0と称する稽古を月1やることにした。

2024年10月10日木曜日

EU2025 その1

来年の6月、ヨーロッパに行くことになった。
前回の渡欧は2013年のことだから、実に12年ぶりということになる。

そもそも数ヶ月先のことしか予定を決められないたちなのに、9ヶ月先のことを考えろという。これだけで前途多難。ここ十年で世界は随分と変わってしまった。端的にいうと、日本が落ち目になってきた。コロナ禍に戦争に、あしもとでは地震。不安定でしかたがない。なのに来年の予定など立てて大丈夫なのか。

航空運賃を調べて驚いた。往復20万円もするのだ。円安だからなのか、シベリアルートが絶たれいるせいなのか。11年前にいったい運賃はいかほどだったのだろうと、パソコンの奥をゴソゴソ漁っていたら、当時の出納帳が出てきた。フィンエアーで往復12万円。ヘルシンキ経由で往路はデュッセルドルフまで飛び、帰りはパリからヘルシンキ経由で成田。交換レートは1ユーロ130円を使っている。今は1ユーロ160円。おまけに、ここ10年のインフレ率は圧倒的に日本の方が低かったから、そりゃ、ヨーロッパから来る人にとって、日本の物価は安いはずである。物価ひとつとっても問題山積である。

航空券も買ってしまった。カタール航空。中東で戦争がエスカレートしないことを祈るのみ。