2021年5月30日日曜日

5月の読書

茶房と画家と朝鮮戦争-ペク・ヨンス回想録* ペク・ヨンスプロジェクト編 白水社 2020
リニア中央新幹線をめぐって 山本義隆 みすず書房 2021
トッド 自身を語る* エマニュエル・トッド 藤原書店 2015
溶ける街 透ける路* 多和田葉子 日本経済新聞出版社 2007
グローバリズム以後* エマニュエル・トッド 朝日新書 2016
満天のゴール* 藤岡陽子 小学館 2017

2021年5月29日土曜日

等持院通信

等持院通信1号完成
この号の特集は、朝鮮語・韓国語
以下、後記に書いた文章を転載します
買う人が現れるかどうかは別として、紙にすると定価も付けたくなってくるのが不思議です

【後記】 久しぶりに紙の上に文字を定着させる試みをやってみると実に楽しい。ブログというのは基本、アーカイブあるいはデータベースなのですね。編集という作業が十分に行われてない故に、創り出すとい愉しみも失っている。こうして紙の通信を作っていると、一枚の紙という物理的制約があるがために、そこに取捨選択が働き、自ずと「テーマ」というものも生まれてくる。紙通信と身体性。これもまた面白いテーマです。 Powered by Libre Office 7.0.3.1 MacBook Air M1HL-L2375DW




 

2021年5月17日月曜日

石坂洋次郎の逆襲

石坂洋次郎の逆襲 三浦雅士 講談社 2020 ■この本は、図書館の書架に戻される前の返却本のラックで発見した。こういう出会い方も割に多い。石坂洋次郎〜青い山脈(映画であったり、その主題歌であったり)という連想ははたらくけども、よくよく考えてみると一編の小説も読んだことがない。■石坂洋次郎、母系性、折口信夫、エマニュエル・トッド、宮本常一…。話はあっちに飛び、こっちに飛びしながら進んでいくのだけれど、同郷(弘前)の作家について、地元の新聞(東奥日報)に書いていることもあるのだろうが、三浦の弾けぶり、はしゃぎぶりが伝わってきて読んでいてたのしい。■(p.170)一九四七年、朝日新聞に連載された『青い山脈』は、戦前に発表された『若い人』や『美しい暦』などの焼き直しに近いと思われるほど、石坂洋次郎の思想は戦前戦中戦後を通じて一貫している。左右両翼を痛烈に批判する姿勢は微動もしていないのだ。にもかかわらず石坂の一貫性が話題にならなかったのは、右翼と同時に左翼も批判されていたからであり、その論理の仕組みが誰にも見抜けなかったからだと思われる。石坂は天皇主義者も共産主義者も父系制の信奉者であることに変わりはないと思っていたのである。■折口信夫の民俗学、エマニュエル・トッドの家族論研究を補助線にして石坂洋次郎の作品を解析しようという試みは、補助線が濃すぎて、逆に石坂洋次郎の存在が希薄になっているような気もするが、いかんせん、僕自身、石坂洋次郎をちゃんと読んでない。まずは、文庫版の「若い人」を借り出してきた。700頁の長編。しかも、字が小さい。とても読み通せるとは思えない。ただ、たしかに、戦前に書かれていたとは思えないほどのモダンさなのだ。■結局、僕は、石坂洋次郎には向かわず、トッドの方に移行してしまった。

2021年5月16日日曜日

その後

【オンライン稽古、その後】

2回やってみた
初回は1対1で60分
二度目は、双方、パートナーをお願いして2対2で90分
いや、草臥れる
リアルの稽古であれば、沈黙=空白ではない
それがオンラインだと沈黙=空虚に感じてしまい、 
その空白を埋めようと、ひたすら喋ってしまうのだ
稽古会として成立させるためには、2倍3倍、いやもっと力がいる
二度目やった晩など、稽古を終えたあと、疲労困憊して10時間コンコンと寝てしまった
やはりカメラは魂を吸いとってしまうのだろうか


【紙メディア その後】

A4裏表一枚で作ってみた
5月5日発行の等持院通信ゼロ号
縦書き横書きが混在
次は手書きをどう使っていくか
等持院稽古場、白山稽古会の受付に置き、 
千葉にも持ってきて、娘つながりの人たちに渡し、
10日で20部ほどが人の手に渡ったことになる
月末にかけて、もう少し増えたとしても発行部数30か
私信ではないのだけれど、受け取ってもらえるかどうか、 
どう読んでもらえるのか、若干の緊張感が自分の中にうまれる
なつかしい感覚
PDFをメールで送ることもできるのだけれど、それは敢えてやらない

2021年5月9日日曜日

八島花(やつしまはな)稽古会

緊急事態宣言がまた出て、もやもやした感じはありますが、やります。
まだ人数的には余裕ありますので、ご興味のある方はお申し込みください。
(5/9)

 東京で稽古会を開きます。場所は墨田区。15年ほど前、大井町稽古場で若者塾という稽古会をやっていた時期があります。その若者塾に参加していた後藤大輝さんが、墨田区京島に移り住み、長屋の保全活動に携わることになり、長屋文化協会という会を立ち上げました。その長屋のひとつが稽古場仕様のものに改築され(名称は旧邸稽古場)、貸しスペースとして活用されはじめています。私自身は5年半前に京都に引っ越しましたが、去年の春から訳あって京都と千葉を往復しています。千葉佐倉では何度か稽古会を開く機会はあったのですが、この度、東京でもやってみることにしました。ほぼ6年ぶりの東京での稽古会ということになります。テーマは「活元運動を稽古する」。 

 日時   5月16日(日)10時〜16時(途中昼休憩あり)  
 会場   墨田区八広2−45−9 旧邸稽古場  
 会費   5000円
 定員   8名程度(予約制)  
 テーマ  活元運動を稽古する(別紙参照)
 参加資格 整体協会会員であれば参加できます 



リモート稽古

あー、とうとうリモートで稽古をすることになってしまった。某基金のアーティスト・イン・レジデンス・プログラムを通して、昨年の今頃京都で3ヶ月過ごす予定だったベルリン在住の演劇、振付をやっている、そもそもがサンパウロの大学PUCで田中さんのクラスに出ていたアーティストが相手。プログラムはコロナ禍で一年延期。今年になっても、人の移動は制限されたままで、結局、「レジデンスオンライン」という、クエスチョンマークが頭の中で点滅する扱いでプログラムが始められることになったとのこと。ついては、オンラインレッスンをやってもらえないかとのリクエストが届いた。なにが可能なのか? どちらかというとzoomを使ったオンラインレッスンには否定的なスタンスでここまできたけれど、話を聞いてみると、アーティストたちが置かれている状況が気の毒になって、重い腰を上げることにした。 

 しかししかし、リアルに向き合って稽古することが当たり前のものを、空間を共有できないオンラインでできるかというと不可能という言葉しか思い浮かばない。厚さ1メートルのガラス越しに向き合っている気分。まず、手取り足取りという方法論が成り立たない。見て真似してという視覚だのみの方法の有効性は信用できない。ちいさな画面を覗き込むだけで内観性の大半が失われてしまう。むしろ、聴覚音声言語+テキストを前面に押し出した方が、可能性があるんじゃないかと思い始めている。そうなると、今度は、言葉ーおそらく英語ーの問題が表にでてくる。実に悩ましい。 

 まずは三脚を購入することから始めることにした。

2021年5月5日水曜日

自前のメディア

自前のメディアがあったほうがよいのではないか、というのが、先日やった「学びについて考える」の勉強会で出てきたアイデア。そのメディアに身体性を与えるためには、モノ、たとえば紙という物資感のあるものに文字を定着させ、それを手渡しで配布するという、一昔前のミニコミと呼ばれていた方法が有効ではないか。僕自身、一九八〇年代から九〇年代にかけて個人通信を出していたことがあり、それがインターネット上でのブログにつながっている。このところ、一九六七年から四半世紀つづいた「かわら版」のデジタル化作業をしていることもミニコミというメディアを考えるきっかけにもなっている。ブログに書いたものを編集し、それを再び紙の上に定着させてみる。横のものを縦にするだけのことなのだが、このような小さな実験からはじめてみようと思う。身体性の問題からいうと、手書き文字についても考えねばならないだろう。この号は試作版として、ブログ「sunajiiの公私混同」に先月載せた記事をもとにつくってみる。B5版でつくりたいところだが、プリンタが両面印刷に対応しているのはA4のみなのは残念。これも身体性を考えていく上での大問題のひとつ。

と、ここまでが試作品の前書き。久しぶりに紙というメディアを相手にしようとすると、いかにブログがお手軽メディアだということが露呈してくる。器の大きさが限定されれば、原稿の取捨選択が行われるし、フォントの種類、大きさも考慮される。紙の質も考えざる得ない。出来上がったとしても、実際に動かないと人の手には渡らない。つまり手間隙がかかる。重層的な運動の連鎖を通じてようやく他者にたどり着く。物理的拘束から自由になるということで身体性が失われていくというのはトレードオフの関係にある。インターネットの時代になって、自分たちが何を得て何を失ってきたのか、少し自覚しておいたほうがよい。