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2016年2月4日木曜日

句集正誤表

父の遺句集を百部つくり、あらかた配布を終えたところで、新たな誤植を発見。
裏表紙に記載されている電話番号が間違っていましたので、手元にある方は訂正お願いします。真ん中の桁 「四五六」→「四六五」。これは盲点だった。おそるおそる、この電話番号にかけてみた。場合によっては菓子折り持って謝りに参上する覚悟でいたから、「この番号は使われていません」というアナウンスに胸をなでおろした。
早い段階で気づいたものは訂正していますが、以下が要訂正箇処です。

  8頁 2句目 緋のつつ(じ)
 17頁 1句目 蚯蚓鳴(く)
 17頁 2句目 赤とんぼ
 裏表紙 電話番号 四五六 → 四六五

刷り上がってしまったら、配布に追われ、読みなおすこともしてなかった。父の句に俳句仲間がコメントを寄せてくれた句集部分に、孫たちを含め家族のほんわりした追想文が続き、最後に、僕の文章が締めるという構成もなかなかよかったのではないか。俳句の素人であることを棚に上げて自画自賛しておく。

大晦日正月によって年が区切られるというのは、たいしたもので、年を跨ぐことで、昨年の出来事が、一昨年の出来事になる。父が亡くなって13ヶ月。随分昔のことのように思えてくるのが不思議である。

2016年1月16日土曜日

みーはー

身近な人が亡くなってから、ほんとは、その人のことをあんまりよく知らなかったという事実に行きあたる。妻のときもそうだったし、父も同様である。遺品を整理しながら、え、こんな一面があったのかと驚きながら一年間すごしてきた。

息子視線から父を表現すると、「やんちゃ」で「みーはー」な父ということになる。なんせ、北海道の大沼公園でレンタサイクルを借りたはよいが、走り始めて間もなく側溝に突っ込み意識不明となり、救急車で病院に運ばれ、脳挫傷、骨折4箇所で全治4週間という事故を引き起こし、御年76で、やんちゃぶりをいかんなく発揮してくれた。自転車に跨るのは20年ぶりだったとか。父が東京に移るきっかけとなった大事件でもある。

おやじにあって、ぼくにないものの筆頭が「みーはー」なところで、あの軽さは、いったいどこから来るのだろうと、ずっと謎だった。最後は、辻井伸行のおっかけですからね。ところで、みーはーの語源ってなんだろう? 「me & her 」なのか? 大辞林だと「みいちゃんはあちゃん」の略とある。wikipediaを見ると、最初に、「みつまめ」と「はやし長二郎(長谷川一夫)」大好き人間を揶揄したキャッチフレーズという説が、載っているが、それはないだろう。

教養主義の上澄みをすくい取ったものが、ミーハーなのかとも思うのだが、オヤジの生きた「昭和」という時代の空気を案外的確に言い表していることばであるのかもしれない。

2016年1月11日月曜日

句集

一年がかりのプロジェクトになってしまった父の遺句集が刷り上がってきた
出来上がってしまうと、ああすればよかったこうすればよかったということは
多々出てくるけれど、まあこれで一区切り

2015年7月11日土曜日

行く雲

 父のところから持ち帰ってきた書類のなかに句会の記録が含まれていたので、時間を見つけては父の俳句を拾い出していった。四年分、二百句ばかりが集まった。玉石混淆で、句集を編むほどの数は残りそうもないが、小さな遺句集くらいはつくれるかもしれない。同時に、父の第二句集である『行く雲』も読みはじめた。すると、東京に来て参加しはじめた句会への投稿句と重複するものが結構な数出てきた。「ずるいぞおやじ」、と苦笑しながら目を通していくと、いいなあと思う俳句がいくつもあった。妻を失くした老境に入った男の俳句が身に滲みる。

熱き日のはじめ遺影に声をかけ
遺影にも誕生日あり草団子

なんだか、境遇までオヤジに似てきてしまった。
ただ、この『行く雲』に対する僕の反応は当初冷やかっだった。「書店に並びます」という自費出版商法の誘い文句にイカれていることがミエミエで、ああなんという金食い道楽なんだと思ったが、口には出すことはなかった。今になると、オヤジが句集を編みたかった心情=寂しさがよくわかる

前掲句はあまりにベタすぎて恥ずかしい
むしろ、こんな句の方が、俳句らしい

ポケットに鍵をまさぐる春の闇
独り居の自由不自由日脚伸ぶ

2015年2月11日水曜日

Dad, it's your turn now - 5

湯河原にやってきた
生前、父が懇意にしていた家族経営の温泉宿へのお礼参り
というか、私もお湯に入りたい

父が東京に移るきっかけとなったのが12年前の骨折
我が家に転がり込んできたのはよいが、
受験生を抱えていた身としては難問多発
交通整理役にくたびれはてた末、考え出したのが「湯治」案
その時に出会ったのが、開店直後のこの湯河原の宿というわけだ
最初のうちは、私も付き添って一緒に泊まっていた
温泉宿から出勤なんて、考えようによっては随分な贅沢してたわけだ
父の湯河原通いは、東京に引っ越してきたあとも続いていた

お嬢さんのアトピー治療のため、温泉宿を始めたという、亭主のこだわりは相当のもの
水は一切足さず、風を送ることで湯温を調整している
口コミで評判は広がり、最近では予約も取りづらくなっている様子

風薫る湯宿の童女は若女将 (昧波)

まだ小学生だったお嬢さんも高3で、現在受験真最中だとのこと
時間が経つのは早いものだ

2015年2月6日金曜日

Dad, it's your turn now - 4

四十九日の法要を終え一区切り
年末年始を挟んだせいか、父が亡くなって随分経ってしまった気がする
忌明けのお返しをどうするか妹と相談した末、
今半にお願いすることにした
忌明けに肉かい?

父が最後に外で食事したのが今半だった
11月に入ると、ほとんど食べ物も喉を通らなくなっていたのだが、
「食い気は最後まで残った」と自嘲しながら、
どこで仕入れたか、「今半」の名前を持ち出してきた
それなら、一度みんなで食事を、ということで一足早い誕生会を今半でやることになった
それが11月の23日
妹家族にうちの娘が加わった
残念ながら私は不参加
しゃぶ肉を二枚くらい食らったという報告をあとから受けた

それで出来上がったのが、
今半の存在価値の大きかり
という句
これじゃ辞世にならんだろと、オヤジをつついたのだけれど、
結局、これが最後の句になってしまった
オヤジらしい
といえば、らしい

2014年12月24日水曜日

Dad, it's your turn now - 3

余分なことをしなければ、
人は健やかに逝くことができる
というのが結論だ
しかし、寄ってたかって余計なお世話をする仕組みが出来上がっている

最後の引導を渡す役目が、今回も私に回ってきた
大阪から見舞いに訪ねてきてくれた姪っ子とその息子が帰ってから暫くすると
呼吸がつらそうになり表情に険が出てきた
目を開け、口を開けたまま喘ぎはじめた
これは過呼吸の感じではないか
吸入器を外すことにした
すると自分の静かな息にもどり、表情も穏やかになった
でも、ここからは私の予想より早かった
私と妹と娘の三人が見守るなか
右から左へかぶりを振りながら、両目と口をウームと閉じた
それが最後の息だった
あっけなかった

一年前の義姉の急逝にはじまった私の周りの大変動は、
ひとりひとりが亡くなっていったということではなく、
一連の大きな流れの中で起こった出来事であるとしか思えない
父のお別れ会を東京でやった12月の21日というのは、
義姉の一周忌の日であったし、
父の命日となる12月20日というのは、
妻が亡くなった9月20日からちょうど三ヶ月目の月命日で
しかも曜日も同じ土曜日で、葬儀も23日の祝日
なんだかもう笑うしかない

あ~あ、みんないなくなってしまった

2014年12月20日土曜日

Dad, it's your turn now - 2

続きを書く時間的余裕は充分あると思っていたのだが、別れの日は意外に早くやってきた。妹たち、可愛いがっていた姪とその息子、俳句仲間、施設の受付嬢...。会うべき人たちには一通り会い、12月19日、89歳の誕生日のその日、父は静かに息を引き取りました。

葛の葉の自由闊達うらやまじ  昧

2014年12月17日水曜日

Dad, it's your turn now - 1

11月上旬に大阪で妻の四十九日を終え、下旬には秋田で義姉の一周忌をやってきた。秋田から帰ってきた時には、もうクタクタで、娘にいたっては、三日間風邪で臥せってしまった。うらやましい。12月の声を聞いたところで、今度はオヤジの番。こうなるとヤケクソというか、意地というか、もう何でもいらっしゃいという感じ。少なくとも「お願いだから11月は避けてね」という私の念は通じたようなので、感謝はあっても文句をいう筋合いはない。

老人ホーム内に設けられている介護室という名の大部屋で過ごしているオヤジをどの段階で自分の居室に戻すか、そのタイミングを測っていた。介護室にいる限りヘルパーさんたちの目が届くから安心といえば安心。ただ、環境的にはガチャガチャと騒がしいし、面会に行っても、こちらがお客さんになってしまい、長居しづらい。最後家族で看取るとすると、自室に戻す必要がある。ただ、どのタイミングで自室に移行するかが問題。こちらの都合を勘案しすぎると判断が曇る。おまけに、食べられなくなってからは、点滴を受けたり鼻から酸素を入れている状態なのでその判断が余計に難しい。

医療関係者は死というものをどのように捉えているのだろうと、いつも疑問に思う。息が苦しいといえば酸素を与え、顔色が悪いといえば点滴を与える。痛みが出れば鎮痛剤。この足し算思考の先には何があるのですか、という問いには答えてくれない。どうも「健やかな死」というものは想定されていないようなのだ。基本、延命措置は不要ですと予め伝えてあるはずなのに、結構なし崩し的に、というかルーティンワーク的に自分たちの仕事をやってしまう。おまけに、医療を疑わない家族がいたりするとーまあオヤジ自身がそのように生きてきたからなあー僕にできることには自ずと限界がある。

12月の第2週、自室に戻すことにした。つまり泊まり込み態勢のはじまりである。

2014年10月4日土曜日

句会

句会デビューしてきた
といっても、父の付き添い

孫たちが交互に付き合うことが多かったが、
9月は手が足らず、図らずも私に出番が回ってきた
私の妹も付き添ったことがあるから一家総出(笑)

いろんなものを諦めて諦めて
最後に残ったのが俳句だよね
ということは家族みんなに共有されているから
「おじいちゃん厳しい」といいながら孫たちも付き合ってくれている

さて句会
なかなかの集注感
三時間の会が終わったときには、結構ぐったり
予め父には、俳句持って来なさいよと念を押されていたから、
いくつか持参
人前に自分の句を晒すのはためらわれたが、
いったん自分の手を離れると客観的に見れてしまうのは面白い

介護真最中だったから、
その風景を言葉に落とし込もうとしていただけ

指通信たれと話すや夢十夜(和)

お題の月の句もひとつ用意したのだが、
あまりにもベタな句なのでここには載せず、
代わりに父の句を紹介しておく

月今宵兎は波の上走る (昧波)

会の最後、「10月の兼題は昧波さんに」、と振られて
即座に「新」で行きましょうと応じた父
この秋の季節に「新」?といぶかるも、
いざ、10月になってみれば、確かに「新」という語がふさわしい

9月17日のことである

2014年7月26日土曜日

俳句の力

俳句が似合うようになってきた
最近の父を見ていると、そんな風に思う

週三日透析に通い
介護室で看護士・ヘルパーの保護監督下で暮らし
移動には車椅子
不自由を生きている

それでも病人になってないのは、
俳句の力としか言いようがない
自らの境遇を笑い飛ばす俳句の諧謔性

一番の愉しみは月例俳句会
ひと月かけて課題の句を五つ準備する
最近は、孫娘たちに付き添われて参加している
何十年前の体験が俳句として立ち上がってくることもあるらしい
言葉のちから

吾が脚の意外に太し半夏生(昧波)

さて、ぼくに整体が似合うようになるまで
あと何年かかることだろう

2014年7月4日金曜日

ルーツ

父のところに週一のペースで通っている
昨年11月の喜寿のお祝いではしゃぎ過ぎてしまったのか、
昨年末から、転んだり、透析がはじまったり、検査入院したりと変動が続いてる

岡山人になれなかった大阪人
というのが、僕の父に対する理解だったのだが、
なぜ大阪生まれの父が岡山に住むことになったか
という肝腎なところをこれまでちゃんと訊いたことがなかった
最近になって、ようやく父との会話がそのあたりに近づいてきた

スナミというのはもともと岡山にルーツを持つのだが、
そのスナミの家に婿養子に入った長畑某という秀才(ほんとかな)が
警察官としてあちこち転勤しているうちに落ち着いた先が大阪だった
ということらしい
曽祖父が長畑姓というのも知らなかったぞ

僕の祖父にあたるハジメさんは、東京の大学を卒業後、大阪に戻る
難波チヨノさんという才媛(ほんとかな)をルーツに近い岡山から嫁に迎える
これで父が生まれる条件が揃ったわけだ

このままなら、父は大阪で順調に成長するはずだったのに、
チヨノさん(私の祖母ですね)の実家を継ぐはずだった弟が戦死してしまい、
老母だけが実家に取り残されてしまう事態になった
そこで、チヨノさんは、子ども連れで実家と大阪の間を行き来することになる

先日会った叔母たちが数年単位で岡山に住んだことがあると聞いたとき
ちょっと意外な気がした
一番長く岡山に住んだのが父で、
岡山との縁がもっとも濃くなってしまった

そのチヨノさんの実家と私の母の実家がご近所だった
これで私が世にでる条件がかなり整ってきたわけだ

歳取ると自分のルーツを知りたくなる傾向が多くの人の中に生まれるらしい
その例に漏れず、ということになるのだろうが、
一連の流れのどこに自分がいるのかを確かめたくなる
そんな気持ちが分かる歳になってしまった

2013年12月5日木曜日

大阪人

娘が短期留学していた台湾に出かけたのが5年前のこと
最初は、夫婦二人だけで行くつもりだったのに、
父に声をかけたら是非行きたいという
当時83歳
すると、台湾行の話を聴きつけた伊丹に住む父の妹
ーつまり僕の叔母なのだがーも是非連れて行ってくれという
結局、総勢4人で台湾に向かうことになった

この兄妹、歳が十歳も離れているくせによく喧嘩をする
妹の方は、関西で生まれ育っているだけあって、テンポがものすごく速い
無論、大阪弁
最初のうちは、妹に押されっぱなしだった父の方も、
だんだん調子が出てくると大阪弁で言い返しはじめ、掛け合い漫才の様相を呈しはじめる

そう、オヤジは大阪人だったのだ
岡山に50年半世紀住んだとはいえ、結局オヤジは大阪人だった
この単純な事実に気づいたとき、オヤジに関する多くの謎が一瞬にして解けた
あの都会性
あの社交性、
あのイラチな感じ

その父が東京に越してきて丸8年になる
歳取ってからの転居はしんどいよと言われながら抜群の適応力を示してきた
つまり、父の異国暮らしは8年前に始まったものではなかったのだ

(2008/12 台北 父とのツーショット 5年前だと、これでもそれぞれに若かったw)


2012年7月7日土曜日

一之江に父を訪ねる
だいたい月1のペースなのだが、
このところ間隔が空いてしまっている
二人してバス停で2つ先にある鰻屋に向かう
バス停まで200メートルばかり歩くのだが、
「最近はなんかふらついて…」と言いながら、
使いはじめて間がない杖を頼りにヨタヨタと歩いていく
父のその姿を斜め後ろから見ていて、「いい感じだな」と思う
たしかにヨタヨタしているし、歩道を疾走する自転車にはひやひやする
ありていに言えば、足腰が衰えて来たと表現されるべき現象で、
実際危なっかしいことこの上ない
でも、余分な力が抜けた、その「ヨタヨタ」感が実に佳いのだ
正しい「衰えかた」ってものは、間違いなくある
父と一緒に歩きながらそんなことを思った