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2024年10月1日火曜日

かわら版WEB公開

 かわら版デジタル化プロジェクト、軽い気持ちではじめたものの、結局3年かかってしまいました。片桐ユズルが亡くなって丸一年、ようやくウェブ公開に辿り着きました。ここまでの経緯はこのブログでも載せてきたので、以下を参照のこと。https://dohokids.blogspot.com/search/label/%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%82%89%E7%89%88

 1967年から1992年まで25年分を年度ごとPDF化しました。総ページ数は約2000頁。データ量としては全部で2GBくらいになります。できれば索引も作成したいところですが、これは次の人におまかせします。紙の原本は、立命館大学平和ミュージアムに預かっていただく予定です。

 初期のかわら版には、B4サイズの藁半紙の片面に印刷されていたものもありますが、号を重ねるうちにB5サイズ8頁立の形式に落ち着いていったようです。つまり、 B4サイズの用紙に両面印刷し真ん中で折り込んで8頁立てにするというもの。真ん中の見開きページは全面を一つの記事に使っているケースもあります。画像の取り込みはページ毎行っています。この見開きページも半分ずつ二つの画像として取り込み、両面印刷した場合でもページ立てが崩れないようにしています。ただ、こうすると見開きページは、いわゆるハラキリ状態になってしまうので、見開きページを一枚の画像として、その月の最終ページに追加しています。

 著作権法的に不透明な部分もあるので、当面、限定公開とします。閲覧希望者は、下記URLの申し込みフォームに必要項目を記入の上申し込んでください。折り返し、URLとパスワードをお知らせします。利用に際して、法的な枠組みから逸脱しないようご留意ください。また商用利用もお断りします。

片桐ユズル かわら版閲覧申請フォーム

かわら版デジタルアーカイブについてのご質問等はdohokids@gmail.com角南まで



2024年2月27日火曜日

十三佛行「種袋」

来月3日、「片桐ユズルさんを偲ぶ会」をやるという。
やるというか、実行委員会に組み込まれていて、準備段階から関わっている。

この会を前に、ユズルさんに縁のある連句仲間三人で十三佛行
をやろうということになり、今月に入ってから巻きはじめた。
歌仙に比べ短いものなので、十日ほどで巻き上がった。

なかなかよいものが出来上がり、「種袋」の巻と名付けることにした。
せっかくだから「偲ぶ会」で皆に配るのはどうだろうと提案したところ、賛同を得た。最初は、コピー用紙に印刷してペラで渡せば良いだろうと考えたのだが、当然のことだけど安っぽい。せっかく配るのであれば、少し厚手の紙に両面印刷して、それを二つ折りにすれば冊子っぽくなるのでは。どのフォントを使おうか、サイズはどうしようか。紙の色はどうしよう。こういう作業は楽しくて、最後の折りの作業も、また楽しい。

連句の先生まで巻き込んで進めるうちに、先生の息子さんがかつて「ほんやら洞」でバイトしていたということまであらわになって驚いた。当日は、この十三佛行をベースに、頼まれているスピーチをやるつもりだ。


2024年1月31日水曜日

片桐ユズルの字体

 片桐ユズルが1967年から1992年までの25年に渡って発行していた「かわら版」のデジタル化が3年がかりで完了した。資料化をはじめたはよいが、本体が見つからず、5年分を残したままになっていた。ところが、年が明け、歴史的資料としての「かわら版」に興味があるという研究者と出会い、あらためてユズルさんの書庫から引き揚げてきた資料を再チェックしているうちに、1974年から1979年の欠番部分を見つけてしまった。3月3日に片桐ユズルを偲ぶ会をやる予定にしているのだが、このタイミングで出てきたかと驚いている。

 「かわら版」の特徴といえば、ほぼ全部、片桐ユズルの手書きによって作られている点が挙げられる。1980年代に入ると、ワープロ文字も増えてくるのがが、それまでは基本手書き。活字の部分というと、新聞の切り抜きで、手書きと活字のコントラストが、とても面白い。ユズルさんの字はちょっと丸みをおびたやさしい字体で、ペンの太さもロゴ、見出し、本文と、それぞれ違ったペンを使い、とても読みやすい。あれこれ工夫していたことがよくわかる。

 ともあれ、デジタル化した資料は、チラシ等も含め計1883頁。われながらよくやったものだ。




 

2023年10月11日水曜日

十三仏行

10月8日、月一回の連句の会が始まり、春屏先生が「今日は十三仏行といういう形式でやってみましょう」と提案された。様式としては比較的最近考案されたものらしく、例えば法事など誰かを偲ぶ場で興行されるという。表五句裏七句+最後は一行空けて長句で終わるという不思議な様式。ご高齢の先生とすれば、私が逝ったら、こんなことでもやってくださいという洒落にちがいないのだが、ごく親しい知人の訃報に触れたばかりの私にとっては、「え、このタイミングでやるか」と驚いた。

連句仲間三人でメールでの文音を巻いていたのだが、最後の挙句の番が回ってきたところで片桐ユズルさんの訃報が届いた。ただし、葬儀は家族葬でやるので他言無用と釘を刺されている。一緒に文音をやっている二人も濃淡あるがそれぞれにユズルさんとは面識があるだけに、ちょっと後ろめたい。

挙句前の句三つの中から
園児らの歌ごゑ響く花の窓
という句を選びーユズルさん、歌うの好きだったしーこれにつづく挙句案三句を提出した。

そよ風に乗り風船の往く
旅立ちの日は春コート着て
卒業写真校門を背に

結果、最初の句が挙句に採られ、この文音「石の道しるべ」は無事満尾。

ハジメさんによれば、最後ユズルさん、「急にイタリアに行くことになった」と話していたそうです。イタリアか〜。

片桐ユズル、享年92歳 2023年10月6日没

2021年10月17日日曜日

かわら版デジタル化プロジェクト

 今年初めにはじめた「かわら版」デジタル化プロジェクトも第3コーナーに入ってきた。保存状態の良い90年代から時代を遡るようにデジタル化してきて、それが一段落したので、こんどは最初期から現在に向かって作業を進めることにした。創刊号は1967年発行。なんと半世紀以上前になる。手元にある資料の八割がたのデジタル化が済んだことになる。手順については、基本「デジタルアーカイブの作り方」に沿って作業している。まず、iPhoneのカメラで一年分(100枚弱)を撮影。iPhoneの写真アプリで傾き、歪み調整、サイズの調整をしたうえで、写真をairdropでMacBook airに転送。MBAのプレビューアプリで、色合い、露出、シャドウ等6種類くらいをスライドバーで調整。一年分を一つのPDFで書き出すという作業をしていく。ここまで1000頁分くらい取り込んできたことになる。なんとか年内には完了したい。ただ、資料としてより完成度を上げるためには、1973〜1979年(56号〜104号)の欠落部分を手に入れる必要がある。もし、段ボールの奥に、この時期の「かわら版」を発見された方はご連絡いただきたい。



2021年2月18日木曜日

デジタルアーカイブの作り方

かわら版デジタル化プロジェクトを始動させたものの、原本の保存状態をかんがみると、当初考えていたスキャナを使うよりもデジカメで作業を進めていく方がよいという結論。

最初は、床の上に原稿を置いて、スマホのカメラで撮っていたのだが、なかなか水平が保てず、あとの調整作業に手間取ってしまうので、作業台にカメラを固定した方が能率的という結論にたどり着いた。 作業台にスマホスタンドを取り付け、スマホを固定し、その下に原稿を置くというスタイル。スマホに触れずともシャッターが切れるよう、Bluetoothのリモコンを購入。ページをめくり、リモコンシャッターを押すだけで、次々に画像を取り込んでいける。あとは、紙の凸凹への対処法を見つけられれば完璧。

画像の歪み調整、切り取りはパソコンでやるよりもスマホ上でやる方が簡便みたい。歪み修正後の画像をスマホからパソコンに送り込んで(iPhoneからMacにはAirdropという機能が使える)、ここから画質の調整に入る。取り込んだ一号分7枚の画像をプレビューで表示させ、一枚一枚、色を落とし、露出でモノトーンに近づけていく。それができれば、後はPDFで書き出しておしまい。

わざわざ紙に打ち出す必要はないのだけれど、出来上がったPDFをワープロソフトに流し込み、ページの割り付けを工夫して、A4裏表に印刷して40年前のB58ページ建のミニコミをA5サイズで再現している。去年、プリンタとパソコンを買い替えたのだが、まさか、ここで役に立ってくれるとは思ってなかった。

ここからは、ルーティン化した作業を粛々とやるだけなのだが、このスマホを使ったスタイルであれば、手分けしてやることもできる。人海戦術で一気呵成に進めていくことも十分可能だ。




2021年2月9日火曜日

かわら版

記憶というのは、「過去」という大きな袋に次から次へ出来事を放り込んで保存している感じで、時間が経つにつれ、袋の中の出来事が混ざり合って時系列がどんどん曖昧になっていく。その時系列を確認するためには、当時の資料に当たるしかない。一次資料はやはり大事なのだ。 

片桐ユズルが発行していた「かわら版」というミニコミがある。1967年にはじまり1990年代まで続いたもので、70年代中盤からの10年間くらい僕も読者の一人だった。昨年末出版された「忘れてもいいように」は片桐ユズルの語りを元に構成されているのだけれど、「かわら版」は言ってみれば紙に保存されている記憶と呼んでいい。

そのかわら版、残されてはいるけれど、デジタル化されているわけではないから、現物を手にするしか、それに触れる機会はない。 「かわら版」デジタル化しちゃいましょうよ、と提案したのは、僕自身、段ボール三つ分くらいのノートをデジタル化したり経験があるから。ノートをバラしてスキャンする。カッターナイフと定規、それにパソコンとスキャナがあればできる。作業としてはそれほど難しいものではない。とにかく一度現物見せてとお願いしたところ、分厚いファイル3冊が届いた。 

現物を見て頭をかかえた。最初期のものー発行から半世紀経っているーは予想以上に劣化が進んでいる。そもそもが藁半紙(いまの人に分かってもらえるかな〜。一番廉かった紙質のもの)に印刷されたもの。おまけに、パンチで穴を開けたものを閉じているので、端っこが欠けている部分もある。このままスキャナにかけたらバラバラになってしまいそうだ。デジカメで撮影する必要が出てくるかもしれない。パンチ穴が本文にかぶり、データとして欠落している部分もある。できればパンチ穴のない現物がほしい。これは思った以上に手間のかかる作業になりそう。一年がかりのプロジェクトになる予感。みなさんの知恵もお借りしたい。



2021年1月24日日曜日

ユズル界

1977年にいきなりワープしてしまったことで、封印していたものが動き出し、ちょっと困っている。少し落ち着いたので 「忘れてもいいように」に戻ります。そう、第一期の話でした。 

 それにしても渾沌の1977年。当時のぼくはといえば、京都の中の外国人コミュニティの中に棲息していて、どうすれば、日本社会に入って行けばよいのだろうと試行錯誤していた時期にあたる。そういう時期に無国籍な空気をまとったユズルさんに出会えたというのは幸運だった。入口は一般意味論(p.168-)とGDM(p.100)。ところが一般意味論セミナーというのが曲者で、みどりさんがあとがき(p.294)にも書いているように、「詩の朗読会、フォークソングのコンサート、ワークショップ、活元会、エンカウンターグループなどに参加する必要があります」という代物。そして、当時の私の渾沌に油を注いだのが、この付随物たちだったのです。 

輸入業者であるユズルさんは、海外から講師を呼んでボディワーク系のワークショップを70年代の後半から80年代にかけて開くようになる。それらの会に参加したり、お手伝いすることで、ぼくの体に対する関心は強くなっていたように思います。と同時に、本格的に勉強をはじめていた整体と理念、アプローチのちがいが気になりはじめる。最終的に第一期は、ぼくが整体協会に就職するために東京に移る1986年で終わることになります。東京に移ってから、ぼくはワープロを使った個人通信を出しはじめたのだけれど、その第一号(1986.9.16)にこんな風に書いています。  

整体協会での、最初の一月は、日本社会をテ-マにした文化人類学的フィ-ルドワ-クをやってる気分でした。10年前なら、反撥しかできなかったろう事柄を、自分の反応のしかたも含め、楽しみながら観察できました。「英語世界から敬語世界」への突入、とでも呼びますか。

振り返れば、京都での10年は、ぼくにとって自力でこの世界に踏み入っていくための長い長い揺籃期・適応期であったのか、そんな風に思えてきます。その揺籃期の少なくない時間を「ユズル界」(いま思いついた新語です)過ごしていたことは間違いありません。

この本の元になっている「ユズルにきく」会は、この「ユズル界」がどのように形成されてきたのか?ということを探究してきた場ということになります。

1977年

来週、ユズルさんの「忘れてもいいように」のオンライン読書会をやるというので、ちょっと覚え書きを作っておこうと、ユズルさんとの歴史を紐解いていった。巻末の年表によると、ぼくとユズルさんの付き合いは1976年の一般意味論大セミナー(フレンズ世界大学)にはじまっている。ぼくが東京に移る1986年までの10年が第一期。そこから、ほぼ30年空いて、2015年、ぼくが京都に戻ってきてからが第二期。ここでは、第一期について書こうと思うけれど、年齢でいえば、角南青年24歳、ユズルさん46歳からの十年間ということになる。いまや、68歳と90歳。

一般意味論大セミナーのチラシとか残ってないかしらと、デジタル化してある1976年のノートを見ていくのだが、いっこうに出てこない。ひょっとして翌年なのかもしれないと1977年のノートをめくっていくと(実際にはスクロースするわけだけど)チラシが一枚出てきて、その一番下に一般意味論大セミナーが予告されている。いきなり、年表の訂正が必要になってしまった。

ついでに、もう少し下までスクロールしていくと、こんなのまで出てきた。「学校を超える教育論」? まったく記憶から抜け落ちている。そのまま突っ走っていれば、教育業界で飯が食えるようになっていたかもしれない。これまで開いたことのないノート。読み返しているうちに、ユズルさんとのことは吹っ飛んで、1977年にタイムワープしてしまった。4月には三里塚、6月には韓国、7月に一般意味論の合宿があって、8月にはヤマギシの特講、GDMのセミナーに続けざま出て・・・。川嶋先生の活元会に出はじめたのもこの年らしい。いったいどうやって生活を回していたんだろう。もう混沌の極み。

こういう混沌の年にユズルさんと出会っているのでした。






2020年12月10日木曜日

忘れてもいいように

片桐ユズルさんの『忘れてもいいように』(アレキサンダー・アライアンス・ジャパン編)が刊行された。私も時々参加させてもらっている「片桐ユズルにきく」の膨大な音源をもとに、若い参加者/編集者が中尾ハジメさんの協力を得て一冊の本に編んでいった。ユズル史でありながら、自分史と照応し、そして、ここ半世紀の時代の空気の変化を片桐ユズルという「輸入業者」を媒介として上手く掬いあげている。近々、等持院稽古場にも置かせてもらう予定です。3千円+税。




2020年11月17日火曜日

Seitai as an Art of Living

だっこ」でつかった、「Seitai as an art of living」という表現に何人かから反応があったので補足。 

 面白いもので、日本語で表現するより、いったん英語にしたほうが、ストンと肚に落ちることがある。「生きる技としての整体」よりも「Seitai as an art of living」のほうが表現としてきれい。もっとも、この場合、最初に英語があって、それを翻訳した風がある。つまり、日本語としてこなれていない。おそらく、「技」という単語と「art」という単語のズレに起因しているのだろう。「技」がより緻密さに向かうのに比べ、artの方には、もう少しあそびがある。 

そんなことを考えているところに片桐ユズルさんがやってきたので、しばし翻訳談義。僕が、artという単語の不思議さに気づいたのは、E・フロムの「愛するということ」を読んだときのことだから、1970年代の前半にさかのぼる。原題が「The Art of Loving」と知ってへぇーと思った記憶がある。一方、ユズルさんが翻訳したいと思っているもののひとつに、A・ハクスリーの「The Art of Seeing」という本があって、むかしむかし、「眼科への挑戦-視力は回復する」というタイトルで邦訳出版されたことがあるとのこと。これでは、いかにもハウツー本と思われてしまう。もし、いま付けるとすると「ものの見方」くらいになってしまいそうだが、いささかインパクトに欠ける。やっぱり、カタカナで「アート・オブ・シーイング」かね〜、とユズルさん。

それはともかく、「生きるためには技がいる」といっても、みんなピンとこない。この技というものは、文化の中で伝承されてきたものであるはずなのに、文化なき民となってしまった僕らの世代のところで、その技は途切れてしまった。テクノロジーがartを駆逐した状態。子どもを育てるにも技がいる。ちゃんと死んでいくにも技がいる。日々の暮らしにも技がいる。野口晴哉の著作の中に、あるいは、僕らがやっている稽古の中には、生きるための技=artが溢れているではないか。僕らが身体教育を謳う所以である。

(追記 ワザとアートという二つの単語によって喚起されるイメージの違いって、結局、音韻的なちがいに遡ることになるのではなかろうか 11/24)

2020年4月18日土曜日

アイボディ

(片桐)ユズルさんが懇意にしている「目の使い方」専門のピーターという人がいて、ユズルさんは、その人が書いた「アイボディ」という本の翻訳本を出したりしている。その英語版が改訂されたので、目下、日本語版にも手を加える作業を続けているユズルさん(89歳)から、手伝ってほしいという声がかかった。改訂されている部分を確認するために日本語と英語の読み合わせが必要とのこと。ぼくも暇なので、お手伝いすることにした。といっても、旧版の日本語を読み上げていくだけ。アイボディにも、そのベースになっているアレキサンダーテクニークについての予備知識はぼくにはない。アイボディは、同調的な観察をもとに技法は組み立てられているらしいのだけど、それを眼球や脳の解剖学的知見に結びつけようとしているから、いざ教えようとするとイメージに依存せざるをえない。そんな印象。「ピーターはできる人だけど、後継者はなかなか育たないでしょう?」と訊いてみると、「そうなんだよ」とユズルさん。毎年、ピーターを日本に呼んで、ワークショップやら個人レッスンを企画しているユズルさんとすると、そのあたりが悩みの種らしい。アイボディが同調的技法を用いているといっても、根本のところの世界観がちがうから、ぼくらの稽古とはすれ違う。内観の稽古を通して結果として視力が改善されてきた経験(去年、運転免許の更新に行ったら、眼鏡不要と言われてしまった)からいえば、高い授業料を払ってワークショップに出るより、稽古に来たほうがよいのに、などと思ってしまうけれど、当面、アイボディ稽古場版をやる予定はない。最近の稽古で取り上げているのは(感覚の)容積空間。これを目でやるとほんと面白く、目の容積空間が捉えられるようになると、それだけで視野が広がる。こんどユズルさんにも教えてあげることにしよう。

2019年6月26日水曜日

ソマティックス 2

ソマティックへの違和感について考えている。
この膜一枚隔てたもどかしさは何に由来するのだろう。

ひとつは、誕生と死の部分の欠落。欠落というと言いすぎで、○○的な出産術とか、○○式看取り法といったものはきっとあるのだろう。でもどこか、細分化されてて、技法化されていて、トータルな生き方にたどりついてない印象。随分、偏見に満ちた見解だなとは思う。この偏見は、ぼくの中にある、自己啓発的なものへの忌避感と地続きなものだ、きっと。

明治以来、欧米的身体観ー西洋医学的身体が輸入されてきて、その身体観を内面化させてぼくらは現代を生きている。意地の悪い見方をすれば、日本人の体に西洋的身体を接木しようとして、そこの齟齬から発生した諸問題をソマティックという西洋的裏技法によって解決を図ろうとしている、ようにも見える。じゃあ、問題が解決されたとして、次、いったいどのような身体が立ち現れてくるのか。我ながら意地悪だ(笑)。

片桐ユズルと出会ったのは1970年代中期で、輸入されたカウンターカルチャーという文脈の中で出会っている。ユズルさんは英語の先生で、かつ輸入業者。ぼくは別称ヒッピー大学を卒業したばかり。ユズルさんは、カバンの中からいろんな品物を取り出し、次々にテーブルの上に並べ、これを試してごらん、これも面白いよと誘惑してくる。国産の「整体」もなぜかワンオブゼムで一緒に並んでいた。いろいろ体験させてもらい、十年もたった頃、ぼくは整体の道に進むことを決めたのだった。

もう少し続けます。

2019年3月22日金曜日

性と文化の革命

ミドリさんが「私たちの"性と文化の革命“」について話そうというので出かけていった。ミドリさん、ハジメさんと私の「ユズルにきく会」三人衆。

ハジメさんがライヒの「sexual revolution」についてユズルさんから教えられたのが1965年。その翻訳を「性と文化の革命」として勁草書房から出したのが1969年。復刻を迫るミドリさんに対し、ハジメさん曰く、当時のインテリたちは、すでにフロイドが何をいってたかという知識を有しており、それを踏まえてのライヒだったし、時代的にも読まれる背景があったから実際売れた。はたして、今、復刻する意義があるかどうか疑わしい、と。

話していて、70年代は、少なくとも今に比べると「開かれて」いた時代だったらしい。私がいた空間に引きつけていえば、「ほんやら洞」という雑多なグループが出入りする空間があり、ユズルグループを含む多くのゆるい中間集団があった。その中間集団空間の中で若者達はそれぞれ試行錯誤を繰り返していた。

そもそも、こんな面子が集まったのは、「自分たちの次の世代(30代〜40代)の女性たちが、自分の体ー社会的身体も含めてーに無知すぎるのではないか。自分たちが学んだことを後進の人たちに伝える義務があるんじゃないか」という問題意識がミドリさんに生まれたから。だから「性と文化の革命」再び、なのですね。

ミドリさんほどの危機意識は僕には欠けているのだけれど、話している中で、育つべきものが育ちにくい時代に入っていることだけは納得できた。稽古でやってることは、それに対するひとつの試みなんだが…。ピザをつまみながら3時間、この話はまだまだ続きそうだ。

2018年6月7日木曜日

横川澄夫さんを囲む詩と歌の夕べ

山下佳代さんが頻繁に夢の中に現れてくるようになったのは、昨年の秋も深まった頃だが、それを運んできたのがユズルさんではなくて、別の人だと気づいたのは大分あとになってからのことである。

それはともかく、6月4日、誘われていた「横川澄夫さんを囲んでの詩と歌の夕べ」に顔を出してきた。実際のところ、横川さんとは直接の面識はなく、何度か自作詩を朗読されている姿を、おそらくほんやら洞かどこかでお見かけしたことがあるくらいの関係で、言葉をかわしたのはこの日がはじめて。ただ、水口きみやさん経由でいただいていた横川さんの「北白川のTの字交差点」(1994)という福本早穂さん編集の詩集はずっと本棚に並んでいる。

宮崎さんの乾杯の音頭の後、水口さん、ユズルさん、志津子さん、わくさん、昌子さんたちの歌と詩の朗読に続き、横川さん登壇。入れ歯を気にしながら何編かの詩を朗読。1930年生まれということは、御年88歳。かくしゃくとしたものである。そして、詩のタイトルは養生訓。「分からない言葉は使わぬがよい」というのはいいですね。ほとんど40年前の仲間たちが集った同窓会のような会であったが、この場に居られてよかった。

帰ってきて、横川さんの詩集を取り出し、その隣にあった山下佳代編「結婚パック」(1985)も引っ張り出し、ついでに、去年、ユズルさんにいただいた「レクスロス詩集」も出してきて並べてみた。「女子学生のためのレクスロス詩賞」入賞者を再招集するという企画も急遽浮上した模様。これは楽しみに待つしかない。

「結婚パック」のあとがきに、佳代さんはこんな風に書いている。「この一年間でずいぶん赤ちゃんが身のまわりにふえて、女性詩人にもお母さんがふえました。.... とりあえず、ここに出ている詩人たちが集まって朗読会、そこでわたしは子どもたちをあずかってニコニコして詩を楽しむのです。」 いまでは、その子どもたちが親になっているのだ。佳代さんが亡くなって29年になる。

2017年7月11日火曜日

わたしのことば

ユズルさんの通訳は上手である
「なんで上手なの?」と生徒に訊かれると、
「わたしのことば」で喋ってるからと答えている

では「わたし」とはだれのことなのか?
普段のユズルさんがいて、それをユズルとする
通訳される講師Aという人がいて、Aの話をユズルさんが通訳する場面を想定してみる
そのときのユズルさんをユズルAとする
同じように講師Bの通訳をするときのユズルさんをユズルBとする
では、ユズル=ユズルA=ユズルBなのか?

同じなわけないですね
同じ文章が通訳のことばとしてユズルさんの口から出てきたとしても、
それが同じ意味をもつかというと、ちがっていて当然

どのようなユズルA、ユズルBが立ち現れてくるか?
そこに同調の技法というものが存在する
ベースに強靭な語学力が備わっていることが大前提だが

7/10 片桐ユズルにきく

2017年4月19日水曜日

同窓会

「片桐ユズルにきく」会のあと、
ユズルさんに「出立記」のコピーを渡す
後日、メールがきて、あれは、art of dyingでしたね〜
まるで聖書を読んでいるようでした、との感想
あれは、詩でしょうか、と問うと
チャールス・モリスの分類によれば、小説です
という、英語の先生的答えが返ってきた
「あれは詩です」と言ってほしかっただけなのだが

だれと会ってもそうなのだが、
30年ぶりに会うKathiは、年相応に老けていた
が、中身はかわらない
なにより驚いたのは、彼女が話す英語がスラスラと入ってくること
そうか、40年前、初めて触れた英語はKathi とJackの英語だったことを思い出す
雛鳥が初めて出会ったものを親と思い込むように、
彼らの英語が僕の中に入り込んでいたのだ

他日、もう少し若い世代のアメリカ人と同窓会
Tiffany と Richard
そうか〜、松井くんや池田くんたちと同世代なんだ
立派なおじさん、おばさんじゃないか
二人とも日本は長いので会話はちゃんぽん






2017年3月15日水曜日

片桐ユズルにきくat 等持院

4月の「片桐ユズルにきく」を等持院稽古場で開催することになりましたのでご案内します
 日時  4月10日(月) 14時30分〜16時30分くらい
 会費 2000円
・14時に嵐電北野白梅町で集合し、等持院稽古場に移動します
 直接いらっしゃる方は、地図を参考にしてください
・はじめての方も参加できます(予約はこちらから)

2016年1月12日火曜日

片桐ユズルに聞く

片桐ユズルに聞く」という会が月に一度京都で開かれている。昨年8月、偶然この会のある日に京都にいたことが(→前にすすむ6 呼ばれる)、京都引越のきっかけになったと、いえなくもない。

昨日(1月11日)のテーマ(どうやら今年の通年テーマらしい)が【輸入業者 ”片桐ユズル商会”へようこそ】ということのようで、これは面白そうだと、自転車でとことこ高野まで出かけていった。


【fbから無断借用 ごめんなさい】

僕が知りたかったのは、どれだけユズルさんが輸入業者であることに「自覚的」あるいは「確信犯的」であったのか。あるいは、一見「無邪気な輸入業者ぶり」のルーツはどこにあるのかという点だったのだが、さらりと、父上が英語教師であったという「家庭環境です」というお答え。なるほど。もちろん、終戦を十代半ばで迎えたユズル少年が、日本的なものを駄目だと思ったとしても、無理のないところで、このあたりの心情は、NHK戦後史証言アーカイブスのインタビューからも読み取ることができる。

輸入という意味では、明治維新以来の社会制度など官による輸入で出来上がっている。それと並行して民による輸入も行われた。ユズルさんの輸入はこの民の系譜に含まれるもので、その輸入の基準に戦略的な匂いは感じられず、むしろ、ただ自分に必要、あるいは面白そうと感じたものだけを輸入していった。それが、「カウンター・カルチャー」的なものであったということのようだ。

ひさしぶりに「カウンター・カルチャー」という言葉を聞いた。ユズルさんによると、このカウンター・カルチャーという呼び名は他称、つまり他人がつけたラベルであって自称ではないという点。それはそうだ。自分の好きなこと信ずることをやっていたら、たまたま世の趨勢と逆方向を向いていたというだけで、別にカウンター・カルチャーという冠を付けられたとしても、ありがたくもないだろう。

ある段階から、僕自身は「輸入もの」に疑問を抱くようになり、そこで野口晴哉の教育論と出会うことで、整体の道に邁進することになった。ただ、「日本的なるもの」「伝統」といった言葉を、常に、眉につばをつけて聞く習性がいまでも残っているのは、かつてかじった一般意味論効果なのだろうか。

それにしても、30年前の記憶というのは曖昧だ。個々の出来事は甦ってくるのに、時系列が乱れている。しかも登場人物はやたら多かったりする。還暦超え三人組(ユズル・みどり・私)が侃々諤々その当時の話をしている姿は若い人たちの目ににどんなふうに映っていたんだろう。

2015年8月8日土曜日

前にすすむ 6 - 呼ばれる

5月の公開講話でのお話の中に「呼ばれる」というのがあった。ある大工さんにお茶室を頼んだのだが、適当な床柱となる木がなかなか現れず、工事が進まない。大工さんをせっついても、「木に呼ばれない」という答えが返ってくるだけで、積極的に木を探している様子もない。2年経ったとき、ようやく向こう(どこだ?)から木はやってきて、以後、工事はすらすらと進み無事お茶室は完成した。めでたしめでたしというお話。ダン先生にはこういう寓話的な、ありそうもないけど、あるかもしれない、いやきっとあるだろうというものが多い。究極の受動性というお話です。

月始め、稽古会のため石川に行った。二年前、フランスでお世話になった西田昭博さん一家が帰省中だったので、稽古会のあと合流して晩御飯をご一緒した。翌日も都合が合えば一緒に遊びましょうといって別れたのだが、翌朝電話してみたら、お墓の掃除等々やんなきゃいけないことを沢山抱えてそうなので、西田さんと遊ぶことは諦め、京都に向かうことにした。6月末の京都での稽古会に参加して以来、京都に戻ることを考えて始めていた。来年5月で私の東京暮らしも30年になるし、カミさんもオヤジも居なくなって、東京にいる理由がなくなってきた。金沢移住という案も温めてきたのだが、いかんせん横つながりの人間関係がとぼしいから、きっと淋しすぎる。その点、京都なら昔の繋がりがわずかながら残っている。

降り立った京都は暑かった。おお、これが京都の夏だ!と懐かしさを覚えたのは自分でも意外だった。前日、39.2度という最高気温を記録したとか。予め連絡してあった池田先生と合流して、蕎麦屋で昼食。あとは、コーヒーでも飲んで、その日のうちに横浜に帰るつもりだったのだが、ふと思いたって、旧知の知り合いである新海みどりさんに電話することにした。電話は通じなかったのだが、しばらくして返信があり、いま京都に来てるんだけど、と話したら、「今晩、片桐ユズルさんの話を聞く会があるから是非来てくれ」とのこと。でも、宿ないんだけどというと、私の仕事場に泊まれるよとのこと。これはもう参加するしかない。

午後7時、高野にある新海さんの仕事場にお邪魔したら、神田稔さんの顔もある。一気に1980年前後にタイムスリップ。そもそも、私を整体と結びつけた張本人が片桐ユズルだったりするわけで、このタイミングで京都に来てしまったというのは、もう「呼ばれた」と思うしかない。夕食に連れてってもらった花見小路の小料理屋さんで、久方ぶりに鱧を食べ、翌朝はこれまた、うん十年ぶりに北白川のドンクで朝食をとり、最後は、鞍馬口のカフェで戸村さんとお茶して(「臥法が先」はこのときの会話から)横浜に帰ってきた。まあ、手応えありという感じかな。