5月の公開講話でのお話の中に「呼ばれる」というのがあった。ある大工さんにお茶室を頼んだのだが、適当な床柱となる木がなかなか現れず、工事が進まない。大工さんをせっついても、「木に呼ばれない」という答えが返ってくるだけで、積極的に木を探している様子もない。2年経ったとき、ようやく向こう(どこだ?)から木はやってきて、以後、工事はすらすらと進み無事お茶室は完成した。めでたしめでたしというお話。ダン先生にはこういう寓話的な、ありそうもないけど、あるかもしれない、いやきっとあるだろうというものが多い。究極の受動性というお話です。
月始め、稽古会のため石川に行った。二年前、フランスでお世話になった西田昭博さん一家が帰省中だったので、稽古会のあと合流して晩御飯をご一緒した。翌日も都合が合えば一緒に遊びましょうといって別れたのだが、翌朝電話してみたら、お墓の掃除等々やんなきゃいけないことを沢山抱えてそうなので、西田さんと遊ぶことは諦め、京都に向かうことにした。6月末の京都での稽古会に参加して以来、京都に戻ることを考えて始めていた。来年5月で私の東京暮らしも30年になるし、カミさんもオヤジも居なくなって、東京にいる理由がなくなってきた。金沢移住という案も温めてきたのだが、いかんせん横つながりの人間関係がとぼしいから、きっと淋しすぎる。その点、京都なら昔の繋がりがわずかながら残っている。
降り立った京都は暑かった。おお、これが京都の夏だ!と懐かしさを覚えたのは自分でも意外だった。前日、39.2度という最高気温を記録したとか。予め連絡してあった池田先生と合流して、蕎麦屋で昼食。あとは、コーヒーでも飲んで、その日のうちに横浜に帰るつもりだったのだが、ふと思いたって、旧知の知り合いである新海みどりさんに電話することにした。電話は通じなかったのだが、しばらくして返信があり、いま京都に来てるんだけど、と話したら、「今晩、片桐ユズルさんの話を聞く会があるから是非来てくれ」とのこと。でも、宿ないんだけどというと、私の仕事場に泊まれるよとのこと。これはもう参加するしかない。
午後7時、高野にある新海さんの仕事場にお邪魔したら、神田稔さんの顔もある。一気に1980年前後にタイムスリップ。そもそも、私を整体と結びつけた張本人が片桐ユズルだったりするわけで、このタイミングで京都に来てしまったというのは、もう「呼ばれた」と思うしかない。夕食に連れてってもらった花見小路の小料理屋さんで、久方ぶりに鱧を食べ、翌朝はこれまた、うん十年ぶりに北白川のドンクで朝食をとり、最後は、鞍馬口のカフェで戸村さんとお茶して(「臥法が先」はこのときの会話から)横浜に帰ってきた。まあ、手応えありという感じかな。