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2025年4月18日金曜日

遍路2025 伊予路へ

初心に戻って歩き遍路再開。
土佐路から伊予路へ。
39番延光寺から40番観自在寺を経て宇和島駅まで。
遍路転がしとまではいかないまでも標高差のある峠越えの道が続く。
初日二日目はお天気雨と強風に煽られての山道峠越え。
そういえば、土佐路ではコンクリ道の上ばかり歩いていた。
南伊予の広葉樹で被われた山々は美しい。
杉の緑に違和感を覚え、唐突に姿を現すソーラーパネル群に憤る。
マンサンダルは山道で力を発揮してくれる。岩場でも滑ることなく地面を摑む。
足運びは小刻みになり、足首から先は消える。
足先の消えない左足には必ずマメができる。
三日目でようやく歩くコツがつかめてきて、もう少し続けられればと思うのだが、いつもここで打ち止めになる。
コロナ禍以降、食事の提供をやめたという宿が増えている。高齢化も理由のひとつだろう。遍路にとってコンビニはオアシスだが、コンビニのおにぎりと菓子パンだけで歩き続けるのはつらい。

柏坂越えの途中。霞んで見えるのは九州なのか。






2025年2月20日木曜日

遍路2025 運ばれる哀しみ

四国遍路4年目。
38番札所金剛福寺にお詣りし、ここから歩きはじめる。
目指すは土佐路最後の札所39番延光寺。
日差しはあるが風は冷たい、しかも向かい風。
竜串の宿にたどり着いた時には結構へろへろ。
足裏にマメもできている。

2日目の宿は28キロ先の大月町。
この状態でたどり着けるのかやや不安。
途中の大浦分岐までバス移動にする。
距離にして13キロ。徒歩でいけば3時間の距離。
ここまで一筆書きの歩き遍路できたが、はじめて足裏が地面を離れることになる。

大浦分岐でバスを降り、月山神社を目指す。
途中から大月遍路道に入る。
月山神社に詣で、さらに進むと赤泊に降りる遍路道に入る。
よく整備されているが、滑落しそうな崖縁の部分もある。
地元小学生の応援メッセージが木の枝にたくさんかけられていて、つい読んでしまう。

遍路道を抜けるとあとは海岸沿いの道。
海沿いとはいえ、アップダウンは多い。
最後の上り坂を登り、日が高いうちに宿に到着。
バス移動の効果は大きい。
陽が傾いてからここまでの道を歩けば、ずいぶん心細かっただろう。
この日、すれ違った人ひとり。
道端で猿一匹と遭遇。

最終日。
ときおり、雪が舞っている。
バス3本乗り継いで延光寺。このあっけなさはなんだ。
不完全燃焼感は残るが、ともかく遠かった土佐路最後の札所にたどり着く。

さてここから先どうしよう。





2024年3月27日水曜日

遍路2024 その5

単調な国道をてくてく歩いていると歌が生まれてくる。
それとも、いつかどこかで聴いたことのある曲を口ずさんでいるのか。
Keep on walking, keep on walking,
You’ll be get there, 
Some time soon …
単純な歌詞をリフレインしてメロディーを変えながら繰り返し歌う。
ほとんど、70年代フォークのような歌詞が英語で出てくる。

歩き続けることで、詩が生まれる。
胸で芽生えたかすかな感覚が腹におり、腰に動き、
背中を上がって、首を通り抜け、口から言葉となって現れる。
なんだ、頭なんてなんもしてない。

歩き続けることで、人は哲学者にもなる。
-
体験と消費の違い。
体験によって人は変容する。
消費する人は変わらない人だ。
-
なぜ歩くのかと訊くのは愚問だ。
道があって、昔から多くの人がこの道を歩いていった。
何を想いながら、その人たちは歩いていたのだろう。
そんなことに思いを馳せながら歩く。

↓ 今回の唯一の写真。小雨の足摺岬。



2024年3月24日日曜日

遍路2024 その4

遍路の一日はシンプルだ。
朝6時前に起き出して出発の準備。
6時半、7時くらいに朝食をいただいて、7時過ぎには歩きはじめる。
お昼は、どこかのコンビニ、道の駅、スーパーなどに立ち寄って軽く食べる。
3時には宿に着いて、4時〜5時くらいに入浴。
洗濯がある場合には、この時間に並行してやっておく。
遍路宿の場合は、6時半くらいから夕食。
食事がつかない宿であれば、外に食べに行く。
7時には、もうやることがない。

部屋にテレビが置いてあれば、普段は観ないテレビを点けるが、観たい番組はない。
久しぶりに大相撲を観たが、数年見ないうちに力士の顔ぶれがガラッと変わってしまった。尊富士とか大の里とか、若手の力士が出ている。
ニュースを見ても、まるで遠い世界のことのようだ。
遍路とはいえ、出家者に近い感覚になっているようだ。

10時には布団に入る。
2時間おきくらいに目は覚めるのだが、その都度、脚の疲れが抜けていくのが実感される。いつもとは違ったレイヤーの夢をみる。それだけ、深く眠っているということだろうか。
目覚ましを6時前にセットしていても、必ずアラームが鳴る前には目覚めている。

さて、今日も歩こう。

2024年3月23日土曜日

遍路2024 その3

1日25キロ歩く。おそらく、これが今の自分の適正移動距離。江戸時代の旅日記などを見ると、皆、一日八里32キロを普通に歩いていることを思えば、僕はまだまだひ弱な現代人だ。健脚の人もいる。どこかの宿で一緒だった82歳だという男性など、もう20回も八十八ケ所回っていて、今回は28日で歩く計画だという。1日40キロにもなるではないか。なんか記録に挑戦しているアスリートのよう。

僕が遅速であることは間違いないのだが、その原因が休憩を取りすぎる点にあるのだと気づいたのは、歩き始めて4日目くらいのこと。1時間歩いて10分休んでいたのでは、平均移動速度は上がらない。そうか、もっと長い時間歩き続ければよいのだ。歩みを止めれば体が休まるかというと、あまり関係ない。一旦休憩してしまうと、そこから元の速度に戻るまで、時間が取られてしまうのだ。それからは、休憩の回数を減らしてみることにした。

歩く体になるまで5日くらいかかる。区切り打ちの場合、歩くことに慣れたなと思うころには、もう帰る日が近づいている。おそらく、通し打ちでないと見えてこない風景というのもあるに違いない。

2024年3月22日金曜日

遍路2024 その2

遍路が歩く道には大まかにいって3種類ある。
ひとつは国道。つまり、車が走ってる脇を歩く。もうひとつは旧道。住民の生活道路。もともと車もいっぱい走ってた道なのだろうが、新しい道路ができて車の通行量は少ない。そして、昔ながらの遍路道と呼ばれているもの。多くは峠越えの山道で、昔の名残りをとどめている道だ。多くは土の道だが、中には整備されて砂利やコンクリートが敷かれているものもある。

遍路として歩く距離は、圧倒的に国道が多い。おそらく8割くらい。旧道と遍路道はそれぞれ1割くらいではないだろうか。9割くらいはコンクリートの道を歩くことになる。これは脚にとっては結構な負担になる。やはり、コンクリー道は車のためのものだ。車道を歩くときは、できるだけ側溝の上を歩く。足の下に空気の層があるだけで脚の感覚は随分と違う。車道から一段高いところに歩道を設けているところもあるが、この歩道が曲者で、走っている車から身を守るには有効であるに違いないのだが、歩道自体の中に小さなアップダウンが形成されていることが多く、これは脚への負担を増す。

長いトンネルを歩くと、文明の暴力性を体感することになる。今回、一番長いもので1.6キロのトンネルを抜けたが、苦行以外の何ものでもない。ゴーゴーと重量感のある音が前後左右全方向から襲ってくる。シュシュシュシュという高速回転するタイヤがコンクリートを削る音が加わる。どうして、そんな重い乗り物が、どうしてそんなに急いで、いったい何を運ぼうとしているのか。現代文明の強迫症がダイレクトに伝わってくる。

今回は、高知市から足摺岬まで歩いた。帰途は、その同じ道をバスと電車で運ばれていく。窓の外の風景を眺めながら、時計の針が逆回転していく。やだな。

2024年3月21日木曜日

遍路2024 その1

3年目に入った四国遍路、高知市内の雪蹊寺から足摺岬を目指す。
脱Googleマップが今回のテーマのひとつ。スマホの画面見ながら歩くというのは、かっこ悪い。とはいえ、連絡用のスマホは携帯しているから、100%脱Googleマップとはいかなかったし、最近は、お遍路アプリというのもあるようで、それを頼りに歩いている外国人お遍路さんに道を教えてもらうことも一度ならずあった。持参したスマホのカメラはしょぼくて、今回、写真もほぼ撮らず。

モンベルで決めているお遍路さんが多い。僕にしても、リュック(十年前に購入したもの)に、ポンチョと帽子はモンベル製だ。たしかに、荷物の軽量化を考えると、山歩きスタイルに落ち着く。荷物を軽くするには、まず衣類を減らすことが近道で、一日歩き、宿に着くやいなや、浴衣に着替え、着ていたものは洗濯機に放り込み、その後乾燥機に入れてしまえば、翌朝には同じ格好で出発できる。合理的だ。僕のような稽古着スタイルは、ちょっと中途半端。稽古着姿で歩き、宿に着いたらラフな洋服姿に切り替えるというのは、みなさんと逆。今回の土佐路は温度変化が大きく、朝7時に出発する時にはダウンのベスト、ジャンパーを着込み、陽がさして身体が温まってくると脱いでいく。稽古着と洋服を重ね着するという、この折衷が不愉快。稽古着用のアウターを考えなくてはいけない。

何回かに分けて、今回の遍路旅を振り返ってみることにする。

2023年5月2日火曜日

遍路2023 その4

 遍路をはじめて間がない頃、しょっちゅう杖を忘れた。休憩して歩きはじめ、しばらくしてから杖を置き忘れてきたことに気づく。ひどいときには、1キロも歩いてから気づき、取りに戻ったこともある。それでも、今年3月、一週間かけて、日和佐から室戸岬、さらに高知市の手前まで、お寺の間の距離にして150キロを通しで歩いたせいもあるのだが、杖が体の一部になり、置き忘れるということは、ほぼ無くなった。

 4月は高知市内のお寺を打った。JR土佐山田駅から歩きはじめ、29番国分寺から33番雪蹊寺に至る40キロほどの距離になる。32番の禅師峰寺から33番雪蹊寺に向かう道は、国道と並行している旧道を歩く。遍路地図で見ると、旧道がそのまま浦戸湾を越えて対岸まで伸びていたので、てっきり橋があるものと早合点していたのだが、歩いて渡るためには、湾の空中高くかかっている浦戸大橋を渡ることになるのだ。そして、遍路地図に載っていたのは、「渡し」であった。このことに気づいたのが、渡しが出る船着場まで20分くらいのところにあるコンビニで休憩していたとき。時刻表を調べてみると1時間に一本。次の出航時間には、速足で歩けば間に合いそう。あわててリュックを担いで歩きはじめたのだが、しばらくして、杖を忘れてきたことに気づく。苦笑しながら、来た道を戻る。なるほど、こういう時に杖を忘れてしまうのだ。

 僕のように居住地と四国を行ったり来たりしながら何回にも分けて歩くパターンを「区切り打ち」と呼ぶ。区切り打ちのよいところは、体力に応じて、時間の取れるところでサッと行き、さっと帰って来れるところにあるのだが、そのぶん、時間もお金もかかる。徳島を歩いている分には、「さっと」帰ってくることは可能なのだが、土佐路に入ると、前に進まない限り戻ってこれなくなる。つまり、一回あたりの日数は増えていく。高知から足摺岬に向けて歩きはじめると、ますます京都からとおざかり、最初と最後の移動だけで一日がかりになってしまう。どこで区切るか、それが問題だ。今回は雪蹊寺で打ち止めとする。欲張ってもう少し先まで歩くことも考えたのだが、再開するときのことを思うと、高知駅まで30分くらいで戻れるこのお寺にした。さて、次回はいつになるのだろう。身体は、もっと長い距離を歩きたいといっている。

 区切り打ちのよいところは、歩きはじめる度に、自分の体が「歩くからだ」に変化していることを実感できることかもしれない。四国を歩いてない「間」の時間にも、体は作られていっているのだ。

(高知市3日目は市内観光に充てた。高知城向かいの高知城歴史博物館でいただいた「海鱗図」の絵葉書)



2023年3月23日木曜日

遍路2023 その3

28番札所大日寺を打って、今回の遍路行は終了。そこからさらに4キロ歩いてJR土佐山田駅にたどり着く。遠隔みどりの窓口で切符を買い、岡山行きの特急南風に乗り込む。座っているだけなのに体が「運ばれ」ていくという不思議。

列車は大歩危を過ぎ、善通寺を経て、瀬戸内海を越えていく。休日前のせいなのか、岡山駅は混み合っている。新幹線で新大阪、そして京都。わずか4時間で高知から京都に帰ってくるという不思議。

今回歩いたのは、23番札所薬王寺から28番大日寺。お寺間の距離にして150キロ。実際に歩いた距離は180キロ。それを8日かけて歩いてきた。ここから、高知市内に入り、1番から最も遠い足摺岬を目指すことになる。ますます、帰って来れなくなってくる。

帰って来て三日目。朝5時になると、まず脚が目覚めてくる。そして「さあ、今日も歩こう」と呼びかけてくる。おいおい、今日はオフなんですけど。続きは来月。

2023年3月22日水曜日

遍路2023 その2

隧道の壁を伝いて遍路ゆく

徳島から室戸岬を経て高知に至る国道55号線をひたすら歩く。徳島側はトンネルも多く、車がビュンビュン走っている横を歩くことになる。海沿いとはいえ、アップダウンの繰り返し。幸い天気には恵まれた。何日か歩いたあと、宿の洗面所に鏡に映る自分の顔に驚いた。日焼けしてる。

舗装道路は人間の脚には優しくない。いや、これは罰ゲームなのかというくらい過酷である。歩道もあるが、これももちろん舗装されていて、おまけに車道よりも小さなアップダウンがあって、それがつらい。いっそ、フラットな車道の端っこを歩いた方が楽だったりする。アスファルト道というのは、コミュニケーションを拒絶しているとしか思えない。かろうじてコミュニケーション可能なのが、側溝を覆うために置かれたブロックの上を歩くこと。その下にある空気を感じ取りながら歩くと脚もひと息つく。道路脇に落ち葉が溜まっていたり苔に覆われていると嬉しくなる。

阿波は発心の道場で、土佐は修行の道場と言うらしい。いつごろ誰が言いはじめたのか知らないけれど、コピーとしては優れている。たしかに徳島を歩いているときには、なんでこんなこと始めちゃったんだろうという迷いがあった。でも室戸岬を目指して歩き始めると、もう前に進んでいくしかない。関西からの玄関口である徳島駅から、どんどん遠ざかり、高知まで歩かないと京都に帰ってこれないのだ。



遍路2023 その1

遍路から帰ってきて体重計に乗ったら、微塵も減ってない。
荷物は7キロ。今回持って行ったものは一通り使ったから、どう軽量化していけばよいのやら。

遍路は前に進まなくてはならない
しかし、先をを急いではいけない
というのが去年阿波路を歩いて得た教訓だが、今年の遍路行は、「土佐路を軽快に駆け抜ける」 というイメージで始めることにした。が、初日にして「軽快」が消え、二日目には「駆け抜ける」を「歩き通す」に差し替えた。

休憩時間、迷う時間を含めると時速3キロである。一日25キロがせいぜいであり、今時点の適量。健脚の人は、普通に30キロ35キロ先の宿を予約して歩いているが、今の僕には度を越えている。それでも、一日25キロ歩いて宿にたどり着くと、手すりに掴まらないと階段を登るのが困難なくらいボロボロになっている。でも、風呂に入り、普段の三倍量の夕食をいただいて布団に入ると、朝には復活している。大袈裟に言ってしまえば、毎日、死と再生を繰り返すことになる。

23番薬王寺から24番最御崎寺まで75キロ


2022年11月9日水曜日

日和佐

お遍路で日和佐
今回は22番平等寺から23番薬王寺
できれば、その先の室戸岬まで

お遍路をはじめて地図を見たときに日和佐という地名が目に飛び込んで来た。ここから室戸に向かう道は、僕が十代後半、ひとり旅をはじめた最初期の頃通った道なのだ。おそらく、初めての太平洋は、ここの海だった。山の中で育った僕にとって、川が海に注ぎ込む風景は実に新鮮で、その風景に長らく見とれていた記憶がある。この先、四国の東海岸を南下していく中で、その見惚れた風景がどこのものであったか確かめられるかもしれないという密かな期待もある。とはいえ、半世紀も経てば風景も違ってしまっている可能性が高いのだが。

先を急ぎたいのか、そうでないのか、判然としない。妙な宙ぶらりんの感覚にとらわれている。通り過ぎる町に再びやってくることはないだろう。かといって、遍路は先に進むことを求められている。その凌ぎ合い。それとも早く家に帰りたいだけなのか。

薬王寺境内から日和佐の町を望む




2022年5月22日日曜日

定型

 お遍路に定型はあるのかというと、おそらくない。遍路用品として挙げられているのは、金剛杖、白衣、菅笠、教本、輪袈裟、数珠、納経帳と続く(四国遍路ひとり歩き同行二人解説編 へんろみち保存協力会編)。このうち、しょっぱな僕が買い求めたのは、白衣、教本、輪袈裟、納経帳くらい。「南無遍照金剛同行二人」と書かれた白衣を着れば、これだけでお遍路さんに変身してしまう。これに菅笠をかぶり、金剛杖を手にすれば、変身は完璧だ。僕の場合、まだ白衣だけで、頭にはキャップを被り、杖は自分で用意したものだから、お遍路度は低い。稽古着姿だから、修行者に見られている可能性はあるかもしれない。実際歩いていると、日差しよけ、雨よけには、菅笠はあった方がいいのかなとも思う。

 この定型の姿は、そう昔からあったわけではない。四国遍路は、もともと宗教者が修行として歩いていたものが、江戸期ぐらいに一般化し、明治大正期くらいに、よりツーリズム的な要素が流入してくる。この現在の定型を作ったのは、昭和初期の「遍路同行会」という組織らしいことに行きつく。このあたりは『四国遍路』(森正人 中公新書 2014)からの受け売り。うーん、さもありなんというか、大正、昭和初期って、そういう精神修養が流行っていた時代だから、その流れの中に、四国遍路も組み入れられたということだ。伝統と呼ばれてるものって、案外、百年かそこらのものが多いのは、いつものことだ。

 ただ、白衣=遍路という記号化の働きは強力だ。個人の属性がすべて捨象されて、遍路という修行者に変身してしまう。そんな移動する人間を日常の生活の風景の中に迎えいれている四国のひとたちは、それだけで偉いと思う。遍路姿で歩いていると、通学途中の小中学生とすれ違い、トラックで仕事する人に追い抜かれ、自分ちの庭で花の世話をしているおばちゃんと挨拶を交わす。この見る/見られる関係における眼差しの交差は柔らかい。

 さて、遍路見習いも三回目。鶴林寺、太龍寺という二つの札所をめぐる遍路ころがしという難所ルートで、きっちり「ころがされ」てしまいました。前回の焼山寺道よりは楽と感じたものの、山を降りてきてから足の裏をみると悲惨な状態になっていました。結局、今回は22番札所平等寺で打ち止め。たしかに、遍路ころがしと呼ばれているところは、アップダウンが大きくてつらいしきつい。でも、本当の遍路ころがしは、舗装道路を歩くことだろう。ということは、四国遍路道の9割が遍路ころがしということになる。

【鶴林寺に登る途中から太龍寺山を望む。この写真に写っている川まで降り、そこから太龍寺に向かってひたすら登っていく



2022年5月6日金曜日

煩悩

煩悩友に歩く山道

現在進行中の連句のために作った短句。
十年前に四国遍路を発願した頃に比べると、煩悩は随分と減った気がする。つまり、悩むエネルギーが枯渇してきた。悩む力=生きる力とも言い換えることができるから、ここ十年で生きる力が低下してきている。これを老いるという。まことに目出度い。悩む人を見ていると、そんなに生きる力があるんだと羨ましくなる。悩みから逃れようとか、捨てようとか考えない方がよいです。正しく悩む技を身に付けましょう。

2022年4月27日水曜日

迷う時間

 お寺とお寺の距離はわかっているから、自分の足でどれくらいの時間が必要かは予め計算できる。お寺の中での定型のふるまいも大体掴めてきたから、一日にどこまで進めるかも見当がつく。ところが、これには迷う時間は含まれていない。地図をたよりに、道標をたよりに、あるいはGoogleMapsをたよりに歩いていくが、それでも迷う。一本道を下って分かれ道に差し掛かったとき、さてどっちの道に行くべきか、しばし立ち止まって考える。ガードレールに貼ってある小さな赤い矢印をみつけると嬉しい。ありがたい。この迷う時間というのが大事なのだ。前回のお遍路見習い初日、遍路旅は急いではいけない、ということだけは感得した。でも、宿の心配、バスの心配、先を急がざる得ない場面も出てくる。迷う時間、あそびの時間、これが肝要。歩くとは先を急ぐことではない。それにしても何故歩くのか? 先人たちも歩いていたから、という答え以外見つからない。

稽古者として歩く

 歩いていると次のお寺まで何キロという石の標識が立っていて目安になる。粁という漢字が使われていることもある。有難いのだが、このキロ表示が体に響いてこないことに気づく。なんでだろうと考えてみると、キロという単位が身体の寸法と無関係であるということに行きあたる。身体性を欠いている。4粁という表示を見て、何かに換算あるいは翻訳しようとしている。こんな作業をやっているなんて、これまで意識することはまったくなかったけれど、疲れてくると、この換算翻訳作業が負担になってくる。4粁より1里と表示されていた方が疲れた体には優しい。これは確信をもっていえる。

 遍路道といっても、昔ながらの山道よりもコンクリートで舗装された道を歩くことの方が多い。歩くという行為としては同じなのだけれど、くたびれ方がまるで違う。山道を長距離歩き、そこからコンクリ道に出ると、足が悲鳴を上げる。固い柔らかいという問題ではない。土には脚と響き合うものがあるのに対し、コンクリにそれがない。コンクリ道とどう折り合いをつければよいのか、脚が困惑している。

 山道を歩きながら気がついた。登り道はナンバの集注、下り道は逆ナンバの集注。ナンバが何なのかは説明しない。稽古している仲間には、これで通じる。

 お遍路さんは金剛杖というのを使っているが、今回、杖は熊野から借りてきた杖(→熊野詣2)を持って行った。布に「南無大師遍照金剛」と墨で書き、その布を杖に巻きつけた。雨に濡れて滲んでしまったけれど。門前で売られている金剛杖は角形のもので、杖としては使いづらそうだったので、熊野の杖にした。こちらは木の枝を切ったもので切断面は丸い。基本的に杖は運動器の延長として使ってはいけない。あくまで感覚器の延長として使うべきもので、そのためには固く握ってはいけない。遍路ころがしと呼ばれている焼山寺への山道、下ってくるときの山道ではほんとうに助けられた。杖使いの達人になりそうだ。








2022年4月26日火曜日

遍路見習い 2

 お遍路第二段。今回は第5番地蔵寺から17番井戸寺を目指す三泊四日。

 京都から高知行き高速バスに乗り、道の駅いたの下車。徳島バスで羅漢まで行き、そこから歩き始める。雨模様。お遍路をはじめればどこかで雨に会うことは覚悟していたが早速の雨。初日は脚慣らしのつもりで宿は6番安楽寺宿坊に予約。地蔵寺から奥の院五百羅漢を参拝ののち安楽寺へ。

 翌日は晴れ。6時起床。朝食ののち7時半出発。7番十楽寺、8番熊谷寺、9番法輪寺、そして10番切幡寺。それぞれによい佇まいのお寺たち。切幡寺は333段の急な石段を息切れしながら登る。そこから11番藤井寺を目指す。途中、八幡うどんで遅めの昼食。吉野川の広大な中洲を抜け、16時すぎ、旅館吉野到着。入浴、夕食。18時には一日の予定がすべて終了。7キロの荷物を背負って歩くだけで、普段の散歩とはだいぶ違った体験となる。道中、コーヒーを飲めるお店もなく、コンビニもなく、しかたなく、宿の冷蔵庫から缶コーヒーを買って飲む。

 三日目。遍路ころがしと呼ばれている難所。今晩宿泊予定のすだち庵の方が荷物を運んでくれるとのことなので、甘えることにする。小さなリュックに最低限の装備とおにぎりを詰め7時出発。11番藤井寺に参り、そこから12番焼山寺を目指す。いきりの胸突き八丁。それでもコンクリート舗装の道を歩くよりは気持ちがよい。大勢の人が歩いた気配が濃く残っている遍路道。整備もよくされている。鶯の声がすぐ近くに聞こえる。途中、目の前をマムシが横切った。13時半、ようやく焼山寺にたどり着く。こんな山の上に、こんな立派な伽藍。そこからは下り道。コンクリ道に出ると、途端足が悲鳴を上げる。一時間と少しで宿にたどり着く。出してくれたインスタントコーヒーが美味い。

 四日目。今日も雨。すだち庵7時半出発。最初の一時間は遍路道。ミニ遍路ころがしと呼べるくらいの上り坂。そこからは車道をひたすら下っていく。車もほとんど通らない。予報ほど雨脚は強くないのが有難い。神山の谷間の集落に霧がかかっている。まるで桃源郷だ。鳥が鳴き、道路を蟹が渡ろうとし、川の上をつがいの白鷺が飛ぶ。緑が濃い。川沿いの道をひたすら歩く。下界に降りてきたといえ街は静か。日曜日だった。13番大日寺到着13時。すでに20キロ歩いている。14番常楽寺、15番国分寺、16番観音寺。国分寺で納経をお願いしている折、住職とおぼしき男性と雑談しているうち、「せっかくだから、お庭を見ていきなさい」と誘われてお庭を拝観。岩で構成された立派なお庭に驚愕。あとで調べると有名なお庭らしいが、こうして誘われることがなければ見逃していただろう。今回の遍路は観音寺で打ち止めにし、JR府中(「こう」と読む)駅から電車で徳島駅に戻り、そこからまた高速バスで京都。



2022年3月15日火曜日

はじめの一歩

四国遍路を発願したのは十年前、311の翌年のことである。(遍路) その年の初めにふと思いつき、準備万端整えて出発寸前まで行ったのだが、実現しなかった。あれから十年。今の方が、出立する機は熟したといえなくもない。なんせ、ここ十年の間に、どれだけ多くの身近な人たちが鬼籍に入ってしまったことか。2013年の暮れに義姉のお亨さんが亡くなったのがはじまりで、翌年には竹居先生、裕介先生、妻睦子、父公一とたてつづけに近しい人たちが逝ってしまった。僕が京都に居を移した2015年以降も室野井さん、小杉さん、剱持さん、吉木さん、去年には栗田くん。親戚友人関係でも雅弘さん、修平さん、彰一くん、小栗栖さん、平田さん、そして先月には真海和尚まで逝ってしまわれた。そして伸幸くん。その他大勢。そりゃ、誰もいつかは居なくなる。ここに挙げた人たちがたまたま先に行ってしまっただけのことで、三年後、五年後、僕自身どっちの側にいるかわからない。そんなことを思いながら最初の一歩を踏み出した。

2022年3月14日月曜日

お遍路見習い

目覚ましを二時間早め遍路旅

朝6時に起き出して、京都駅発7時50分の高松行きの高速バスに乗ったら、11時には一番札所である霊山寺に到着。門前で遍路用品を買い求め、お参りの手順をお店の人に一通り教えていただき、そこから見習いお遍路開始。般若心経読むなんていつぶりだろう。納経帳にも朱印を捺していただく。二番札所に向かう途中、大麻比古神社の案内を見て、阿波の国にご挨拶と北に向かって歩く。同じ道を戻り、車道沿いに極楽寺へ。さらにこんどは、旧街道を三番札所の金泉寺を目指す。代わり映えのしない、昭和の空気を残したひなびた道。向こうから、スタスタと歩いてくる遍路姿の中年男性とすれ違う。ということは、逆打ちで回っているのだろうか。旧街道を歩きながら、「先を急ぐことは遍路の本分ではない」ことに気づく。

グーグルに道訊ききながら遍路行

金泉寺到着。ここからJRで徳島駅経由高速バスで京都に戻るつもりにしていたのだが、時計を見ると、まだ2時半。あと二つくらい回れそうと、最終便の高速バスを予約してから腰を上げる。四番札所の大日寺に向かう道は途中から山の中をたどる遍路道となる。登り坂ということもあり、思ったより時間がかかる。道標の距離が示す距離が減らない。大日寺に着いた頃には空気が冷たくなりはじめ夕方の気配。徳島駅行きのバスの時間が気になり始める。慌ただしく読経を済ませ、納経帳に御朱印をいただき、ちょっと急ぎ足でーすでに遍路の本分を失念ー五番札所の地蔵寺を目指す。下り道。地蔵寺にて今回のお遍路行はおしまい。次回来るときは、この地蔵寺からはじめることになる。羅漢というバス停から徳島行きのバスに乗車。

日帰り遍路なんてもったいない。
でも、とにもかくにも、最初の一歩を踏み出した。

冒頭の句、連句仲間三人ではじめた三吟の発句に取り上げていただいた。


2013年6月29日土曜日

遠征

秋のヨーロッパ+遠征の日程決定
三ヶ月先の予定を決めるなんて随分無謀な気がするが、
ともかく日程を決めてしまわないと、逆に今なにをすべきかが見えてこない
6月に入って、奇妙な時間の錯綜感と付き合ってきたが
ようやく一山越えた

以前より自由にスケジュールを組める立場になったとはいえ
長期間留守にするのは大変
心配の種はあれこれ出てくる

計画を立てるのは楽しい
つい、あれもこれもと欲が出てくる
ところが、いざ現状の体力を考慮に入れていくと
30年前のようには動けない、動きたくない自分を発見することになる
かくして、「ひとふでがき」的なものから離れていき、
どんどん単純往復に近づいてくる
乗り継ぎ便より直行便、みたいな感じ

なかなかハードな日程になりそう
でも、震災以来もや〜っとしている自分自身に喝を入れるためにも
(四国遍路できなかったし)必要な旅になりそうだ