歩いていると次のお寺まで何キロという石の標識が立っていて目安になる。粁という漢字が使われていることもある。有難いのだが、このキロ表示が体に響いてこないことに気づく。なんでだろうと考えてみると、キロという単位が身体の寸法と無関係であるということに行きあたる。身体性を欠いている。4粁という表示を見て、何かに換算あるいは翻訳しようとしている。こんな作業をやっているなんて、これまで意識することはまったくなかったけれど、疲れてくると、この換算翻訳作業が負担になってくる。4粁より1里と表示されていた方が疲れた体には優しい。これは確信をもっていえる。
遍路道といっても、昔ながらの山道よりもコンクリートで舗装された道を歩くことの方が多い。歩くという行為としては同じなのだけれど、くたびれ方がまるで違う。山道を長距離歩き、そこからコンクリ道に出ると、足が悲鳴を上げる。固い柔らかいという問題ではない。土には脚と響き合うものがあるのに対し、コンクリにそれがない。コンクリ道とどう折り合いをつければよいのか、脚が困惑している。
山道を歩きながら気がついた。登り道はナンバの集注、下り道は逆ナンバの集注。ナンバが何なのかは説明しない。稽古している仲間には、これで通じる。
お遍路さんは金剛杖というのを使っているが、今回、杖は熊野から借りてきた杖(→熊野詣2)を持って行った。布に「南無大師遍照金剛」と墨で書き、その布を杖に巻きつけた。雨に濡れて滲んでしまったけれど。門前で売られている金剛杖は角形のもので、杖としては使いづらそうだったので、熊野の杖にした。こちらは木の枝を切ったもので切断面は丸い。基本的に杖は運動器の延長として使ってはいけない。あくまで感覚器の延長として使うべきもので、そのためには固く握ってはいけない。遍路ころがしと呼ばれている焼山寺への山道、下ってくるときの山道ではほんとうに助けられた。杖使いの達人になりそうだ。