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2025年8月14日木曜日

京都十年 その7

お盆だ。
十年の間に、多くの身近な人が逝ってしまった。
稽古仲間だけでも、室野井、小杉、吉木、剱持、栗田……。
小杉さん以外、みんなオレより若いじゃないか。
憎まれっ子世に憚るとはよく言ったものだ。
とうとう吉田の大将も逝ってしまった。

京都に戻るきっかけを作ってくれた片桐ユズルさんも逝き、稽古に通って来てくれていた片桐庸子さんも昨年亡くなった。なんだかんだいって、この二人の最晩年に付き合えたのはよかった。

そう、生きてるうちは生きなきゃならん。
しっかりと。

2025年8月13日水曜日

京都十年 その6

ここ十年で一番の変化は衣に関してだろう。
稽古着、和服を着る時間が増えた。
大井町稽古場時代、通勤時は洋服であったし、稽古着の点数も少なかった。

連れ合いが和裁を習い始めてから5年になるが、時間とともに、稽古着のヴァリエーションがどんどん増えていった。今では長着、稽古袴はいうに及ばず、襦袢、ステテコに至るまで、手縫いのものを身につけている。さて、今日はどれを着ようか、などという贅沢な悩みを持つようになったのは人生初である。麻の稽古着なしに、もう夏は過ごせない。

連れ合いが和裁にたどり着くまでの経緯は話せば長くなるが、頼りがいのある先達を得ることで、文字通り日々精進している。ひとつのことに打ち込んでいるー不器用とも呼ぶがー存在が身近にあることは有り難い。

最近ようやく人様の袴を引き受ける心境にたどり着いたらしい。

2025年8月12日火曜日

京都十年 その5

 ここ十年で一番大きな出来事は、なんといっても2020年に始まったコロナ禍であろう。この年の春、世の中に不穏な空気が充満し、これは、<蟄居>するしかないのかと思いはじめた、そのタイミングで娘のところに不幸があった。しかも、娘は妊娠中。そうなると、ジージが頑張るしかない。ここから、緊急事態宣言が発出され、不要不急の外出はお控えくださいとのアナウンスの中、僕の千葉通いが始まる。新幹線のひとつの車両に乗客は僕ひとりというシュールな体験をしたのもこの時だ。9月に生まれた3人目の孫が満3歳になるまでの3年間、千葉通いはほぼ毎月続いた。人生で一番動いた3年間だった。

 コロナ禍によって明らかになったのは、どれだけ社会が「医療化」されているかということだ。ワクチン、マスク、消毒は言うに及ばず、人と人との距離、クシャミのしかた、トイレの流し方に至るまで、根拠があるようなないような言説が拡散され、社会生活を送る上での規範とされた。年寄りたちの過度に医療化された姿は醜悪でさえあった。インテリたちの振る舞いも同様で、気骨がありそうな知識人たちの腰抜けぶりがあぶり出された。反ワクとヘイトが奇妙なかたちで結びついた政党が姿を現してきたのもこの時期だ。

 日本で暮らしていると、一生に一度くらい大きな地震と遭遇する可能性は高い。東日本大震災は経験したとはいえ、被災したわけではない。戦争の匂いがかすかに残っている時代に生まれ、経済高度成長期の中で成長し、バブルが弾けたあたりから、半出家者のような生活を送ってきた。父や祖父の世代がくぐり抜けたてきた戦争のあった時代を幸いなことに知らないままここまでたどり着いたけれど、さて、どうなる。

2025年8月11日月曜日

京都十年 その4

白山稽古会との関わり方もずいぶん変わった。
なんせ、この会が始まった当初は、東京から上越新幹線で越後湯沢、そこからほくほく線で直江津。そこからさらに北陸本線で金沢というルートで、片道7時間くらいかけて通っていたのだ。その後、飛行機を使うことも増えたが、長距離遠征であったことは変わらない。

北陸新幹線が金沢まで繋がったのが2015年3月。京都に越してくる半年前のことで、新幹線の恩恵を受けることなく、京都から、今度はサンダーバードで通うことになる。東京から通うことに比べ、特急2時間で北陸にたどり着けるというのは極楽であった。のどかな琵琶湖の湖面を眺め、福井に入ってからは、白山山系の山並みを望む。新幹線に比べるとはるかに旅情を感じさせるものだった。ただ、雪や大雨には弱く、途中まで行って引き返すことになったり、逆に大雪で缶詰になり、京都に戻れなくなったことも、一度や二度ではない。北陸新幹線の敦賀延伸によって直通のサンダーバードは姿を消し、乗り換え2回しないと会場のある松任にたどり着けなくなってしまった。電車の中で眠る快楽も失われた。

白山稽古会、長くやっているせいで、まとまりがある。HUBとなって世話してくれている方のおかげである。振り返ると、この会は2009年に始まっているから、もう16年続いていることになる。

京都十年 その3

世界一小さい四畳半の稽古場というのが、ここの売り文句。
それでも、十年の間に、多くの人がやってきた。
定着率の低さは自慢にもならない。

新しい出会いを得て結婚宣言した時の、稽古参加者の激減ぶりは予想以上だった。
そうか、自覚はなかったけれど、みなさん僕のことを男として見ててくれていたのだ。それとも、整体指導者は清く正しい存在であるべきという規範があったのか。たしかに、整体指導者って、俗と聖のギリギリの間に棲息する生きものなのだ。俗な話を聞くことをを自らの動力にして、しゃーしゃーと生きる妖怪なのかもしれない。

海外からも大勢やってきた。
ことに、ブラジルの田中さん繋がりの人にとって、日本にやってくることは聖地巡礼であり、その中のひとつに、この小さな稽古場を含めてもらったのはありがたかった。ドイツから定期的に訪ねてきてくれる人もいた。自分自身が海外に出かけることは、考える余裕さえなかったが、不思議なご縁で、この6月、ヨーロッパ行きが実現した。

それぞれの稽古場には、会員同士のコミュニティが形成されることが常なのだが、結局、等持院稽古場には、そのようなものは生まれなかった。生まれかけては消えていった。コロナの影響も大きい。僕が亭主で、稽古する人は客としてやってくるというスタイルが定着してしまった。

十年で、一巡りした感じはある。
十年って、こんなに速く過ぎていくものなのか。

2025年8月6日水曜日

京都十年 その2

 京都に戻ってきてからの十年、なぜ昭和のラジオ少年が整体の道を志したのかということを、ずっと考えていたように思う。不思議っちゃあ不思議でしょ。科学技術全盛の時代に育ち、真空管ラジオを組み立て、自作機でアマチュア無線をやっていた少年が、紆余曲折の末、野口晴哉の思想と出会い、整体の道に入る。

 科学とはなにか、科学技術とはなにか、稽古会に来ていた人の主宰する読書会などで、整体の話をしようとすると、どうしても、自分がどこからやってきたのかについて考えざるを得なくなる。そうして、日本人はどのように科学技術を受容してきたのかという歴史にまで射程を広げざる得なくなっていった。そして、自分自身が、時代の流れの中で、ラジオ少年となっていったのか、少しづつ理解するようになった。→ 読書会メモ

 そんなラジオ少年が、いきなり異文化に放り出される。そこからが第二幕、20代ということになる。三年弱の期間の中で咀嚼できなかった体験をどう理解していくのか。そもそも、体験するとはどういうことなのか。人が学ぶとは、どういうことなのか。そんな疑問がライフワークとなっていく。そう、ライフワークとは、大きな異化感から生まれる。その糸口として、整体を学び始める。→ 学ぶということ

 現在地にたどり着くまでの過程は、積み重なる偶然の産物に過ぎない。もちろん、折々、種々の選択をしてきたことは、その通りだけれど、その選択にしても、十年前、この家に一目惚れした時のように、「ふと」選んでしまうのだ。最初は小さな選択であったとしても、ものごとが動きはじめると、とんでもない未来が立ちあらわれてくるのが、人生の面白いところでもある。あれよれよという間に70代になってしまった。

2025年8月4日月曜日

お米が切れた。

とうとう、米櫃が空になった。
実家が兼業農家の稽古会参加者の伝手で譲ってもらった石川産の玄米。
米の値段高騰のニュースを横目で見ながら、まだ大丈夫と高を括っていたのだが、とうとう食べ尽くした。
スーパーの棚に米は戻ってきているが、高い。
銘柄米だと5000円。パールライスで3000円。カリフォルニア米も同じく3000円。
どれも白米、無洗米で、玄米は置いてない。
家庭用の精米機で七分付きのお米にするのがわが家の慣わし。
さてどうする。

米屋を目指すことにした。
配達から戻ったばかりの体の店主としばし雑談。
まだ新米は置いてなかったけれど、玄米が買えた。
滋賀産のコシヒカリ、5キロで4150円。
これで、新米が出回るまで、食いつなげそうだ。
米は米屋で買うべし。

2025年8月3日日曜日

京都十年 その1

 若い不動産屋のスタッフに連れられ、この家にやってきたのが2015年の8月3日。やはり、暑い日だった。40度を超えていたであろう閉め切られたこの家に足を踏み入れ、間取りを確かめた。引っ越してきたのが9月の25日だから、この日から2ヶ月経たないうちに、京都の街に降り立ち、第二次京都暮らしをはじめた。→ 前にすすむ6

 それから丸十年。第一次京都暮らしも十年だったから、同じくらいの時間をこの街で過ごしたことになる。といっても、20代と60代では、同じ10年といっても、まるでちがう。1970年代と2010年代の差も大きい。十年前、京都の街に降り立ったとき、すでに還暦を過ぎていたが、古稀を通り過ぎた今から振り返ると、まるで青年のようであった。

 平穏とはほど遠い十年間だった。2015年の秋に越してきて、コロナが始まったのが2020年。2020年の春から2023年の秋までは、コロナ禍にもかかわらず、毎月千葉に通った。平和な日常が戻ったと言えるのは、その後のことで、ここ数年のこと。

 30年ぶりに京都で暮らし始めた当初、ずいぶん街が小綺麗になっていたことに違和感を抱いた。言葉を変えるとテーマパーク化していた。観光地として整備されたというべきか。いわゆるインバウンドと呼ばれるものは、すでに始まっていたが、十年後のいまと比べるべくもない。

 京都に引っ越そうと思った理由のひとつは、毎月末行われている京都稽古会の存在がある。風景とすると、僕自身は、この稽古会の風景が好きだ。月に一度、西日本各地から人が集まってくる。2015年の段階で、季節によっては宿が取りにくいという状況は生まれていた。それが、インバウンド増加の影響で宿泊費が高騰してしまった。稽古会参加者にとっては死活問題である。

コロナ前とコロナ後。この五年間で、いろんなものが変わってしまった。

2025年7月10日木曜日

時差ボケと熱帯夜

京都に戻ってきて一週間が経つのだが、いまだに時差ボケから抜け出せていない。夜の早い時間に眠くなり、それが収まると夜中に目が冴えてくる。で、本を読んだり書きものをしているうちに、外が白みはじめ、ようやく布団に入る。そして、朝の遅い時間、今度は暑さで目覚める。

ヨーロッパも暑かったが、湿度が低い(ウィーン38%)から、日差しは強くとも木陰に入ると涼しいし、屋内もそれほど気温は上がらない。それに比べると、京都の湿気は79%で、平屋のわが家など、すぐ屋内で30度を超え、しかも夜になっても下がってくれない。常に熱中症と隣り合わせ。月刊全生に載っていた低温風呂を試して、だいぶ暑さに対する感受性は変わった。つまり汗が内向して、体の中に冷えが残っている。

そうこうしているうちに、今度は稽古場のエアコンが壊れた。前住者が残していった20年以上前の旧式のものだから、寿命が尽きたともいえる。仕方なく、近所の電器屋さんに、取り替え工事をお願いした。えらい出費だ。

暑さで記憶が溶けてしまう前に、ヨーロッパのまとめをしておこうと、「飛地と迷子」という文章を書いた。回りくどい分かりづらい文章になっているけれど、これは意図的にそうした。わが組織に海外会員がどれだけの数いるのか知らないけれど(今度、問い合わせてみよう)、すこしは、日本の外のことも考えていかないと、日本社会の少子高齢化をもろに反映している現状を変えられないのではないか、とも思う。僕はいつも境界線上にいる。

この週末は白山稽古会。

2025年6月2日月曜日

聴力補助

聴力補助機能付イアホンを使いはじめて一ヶ月。世の中は音で満ちている。雑音で溢れかえっているとも言い換えられる。そんな中で、人は必要な音を取捨選択して聞き分けて生活している。なんという高度な技なんだろう。音を増幅する機能によって、人の声は近くに聞こえるが、紙のカシャカシャ音とか、換気扇のザーザーという耳障りな音も同時に増幅される。

これまでなら最初から諦めていた大人数の会話の輪にも加われる。師匠の講義も以前よりフォローできている感じではある。不思議なもので、聞こえる状態はイアホンを外した後もしばらく継続する。内部に向かっていた集注が、イアホンを付けたことで外に向かい、その外に向かう集注が保持されるということなのだろうか。

でも、自分が聞いている声は、一体どのような声なのかという疑念は晴れない。きっと、これから先、対象の声を自動追尾する機能とか、対象だけの声を拾う機能とか、自動翻訳してしまう機能とか、どんどん付け加わっていく予感はあるけれど、果たして、それは声を聞いていることになるのか。所詮は、電気なしには成り立たない技術でしかないことを肝に銘じておかないと足元を掬われそうだ。

イアホンを外すと平和が戻ってくる。この静かな環境の中で、本当に僕は何も聞いていないのか。それとも、この娑婆に溢れている音以外のものに耳を傾けているのか。聴くという行為は奥深い。

2025年3月18日火曜日

日帰り東京

早起きして日帰り東京。
品川で新幹線を降り、京急線に乗り換える。
ホームは羽田に向かうらしい荷物を抱えた旅行者でごったがえしている。青物横丁で降りて、鮫洲を目指して旧東海道を歩きはじめる。下町の風情は相変わらずだが、再開発が進んでると聞いていた割にどことなく寂しい。新旧入り混じったことで、逆にガチャガチャ感が増しているように見える。

懐かしの大井町稽古場。
三十数年の歴史を刻んできたこの稽古場も、ゴールデンウィーク明けには取り壊されるという。何百時間も座った二階の控室で、Mさんや、午後からの稽古に現れた常連の何人かと言葉を交わす。それぞれが年齢を重ね、この場所に多くの時間が積み重なっている。それももうすぐ消えてしまう。

大井町稽古場から大井町駅に向かい、今度は東急線で二子玉川。
二子玉川は相変わらずの賑わいだが、もはや京都での田舎暮らしに完全適応している僕には別世界。どこもかしこも、落ち着きのない風景になってしまった。本部稽古場の隣にあった二階建てのアパートも取り壊されて5階建てのマンションに変貌中。ただ、稽古場の中の空気だけはいつもどおり静謐。

用事を済ませて今度は新横浜へ。
以前ならあざみ野経由新横浜が定番のルートだったのに、数年前から乗換アプリが自由が丘経由のルートを表示するようになった。試してみると、まあまあ便利。崎陽軒のシウマイ弁当を買い込む間もなく新幹線のホームへ。豊橋でのポイント故障の影響とかで40分遅れで京都到着。

東京との心理的距離の遠さを再確認しに行ったような日帰り旅行だった。

補聴器の誘惑

ここ十年何が変化したかというと耳が遠くなったことだろう。

まず、ダン先生の講義が聴き取れなくなった。この40年間、だれよりもダン先生の話は聴いてきたから、もう十分と言えなくはないけれど、講義の中身を一年後に白誌で知るというのは、いかにも悔しい。最近は、難聴者のためにミライスピーカーが導入されて多少は話についていけるようになったとはいえ、肝腎なところを聞き逃している。実習が始まると最悪で、スピーカーから離れたところで稽古していると、もうついていけなくなる。休憩時間の雑談の輪にも加われない。

対面で話していると、大体通じる。あくまで大体であって、人によっては至近距離であっても相手の言っていることが聞き取れないケースも多々あって、いかにも情けない。さてどうする。最近、アップルのイアフォンが補聴器がわりになるというCMを観て、またそのCMで流れてくる難聴者の聞こえ具合が実にリアルに再現されていて、まったくいやらしいったらありゃしない。

さて、整体人として、この状況とどう向かい合うべきなのだろうか。もともと近視で、30代前半までは眼鏡をかけていたのだが、ある時点で使うことをやめてしまった。眼鏡を外したら視力が戻ったかというと、そんなことは全然なくて、単純にぼんやりとした世界を受け入れただけでのことなのだが、無理矢理焦点が合うように作られている眼鏡の不自然さから解放された感と対象物との間の空気を捉えられるメリットは何事にも代えがたく、運転免許の更新時にやる視力検査の時以外、眼鏡をかけることも無くなってしまった。その視力検査にしても、なぜか歳とともに正解率が高くなって、60代後半になって眼鏡不要のお墨付きをもらってしまった。視力ってなんだ、という話。旅行に行くときなど、念のために眼鏡を荷物の中に入れておいた時期もあったが、結局使うことなく旅を終えることが当たり前になってしまい、最近では100パーセントの眼鏡なし生活を送っている。

随分前から、人生能力一定説ーつまり、なにかの能力が育つということは、他の何かの能力を捨てている。逆に、何かの能力を失うということは、他の違った能力が育っているに違いないという説を唱えている。これは、数年前、孫たちと濃密な時間を過ごすうちに浮上してきた説で、大人の足で3分で移動できる公園まで15分掛けて移動していくというのは能力と呼ばずなんと呼ぶのか。では、耳が遠くなることで、僕の中でいったいどのような能力が育って来ているのだろう。円滑な社会生活を送るために補助的機器を頼るべきか、それとも自分の中で何が育って来ているのかを見極めていくのか。整体人として進むべき道は明らかなのだが、それでも、揺れ動いてしまうのだ。

2025年3月11日火曜日

紙風船

 講義の中で「室伏くんが紙風船の稽古を流行らせててね〜」という師匠の話を聞いて、ググってみたら、なんとスポーツ庁のホームページで紙風船エクスサイズなる動画までアップされている。スポーツ庁長官って、ひょっとして偉い人なのか。

 彼が稽古会にはじめて現れたのは足柄で合同稽古合宿をやったときだと記憶している。1996年10月開催、参加者318名という記録が残っている。あれから30年近く経つのだ。本部稽古場にハンマーの球がゴロゴロ転がっていた時期もある。時に京都の研修会館の稽古会に現れ、女性陣に取り囲まれている写真も残っている。

 それにしても、あんな凶器にしか見えないものを、ブンブン振り回す競技ってなんだろうと、その後興味を持ってオリンピックや世界陸上を観ていると、もう野獣としか思えない筋肉隆々の選手たちが雄叫びを上げながらハンマーを投げている。筋肉増強剤全盛の時代で、ドーピング検査で引っかかる競技者も多かった。僕らからすると十分巨体の室伏選手が華奢に見えるほどであった。競技選手のドーピングには厳しいくせに、自身のドーピングには甘い観客というダブルスタンダードな変な世界。

 竹棒団扇ほどに紙風船が稽古道具として定着したという話はあまり聞かないが、室伏くん(もはや君付けでは呼べないけれど)が紙風船を抱えていると、ちょっと微笑ましい。ハンマー投げの球は7キロの鉄の塊。それに対して紙風船はわずか数グラム。大きさは似たようなものだろう。それを鉄人室伏がやるとコントラストが際立ってお洒落。動法とも内観とも言わず、無いものへの集注、つまり身体を引き出している。そりゃ、ラジオ体操よりも紙風船エクスサイズでしょう。



2025年3月3日月曜日

大井町稽古場閉鎖

今月末をもって大井町稽古場が閉鎖されることになったという。
京都に移ってくるまでの十数年を大井町稽古場で過ごしてきた私としては感慨深い。
なくなってしまう前に一度お別れにいこうと考えている。

大井町稽古場に関して書いた文章はないものかと、パソコンの奥を探ってみたら、「大井町稽古場の歴史をたどる」という文章が出てきた。東日本大震災の年、2011年に書いたものだ。どこかで発表したかどうか、誰かに読んでもらったかどうかも覚えていない。


【大井町稽古場の歴史をたどる】 

 大井町稽古場ができたのが1993年であるから、いまから18年前ということになる。本部稽古場が二子玉川につくられたのが1988年であるから、それから5年が経過している。つまり、身体教育研究所(当時はまだ整体法研究所と呼ばれていた)の本部稽古場が活況を呈し人が溢れはじめ、また助手として連日連夜、裕之先生のもとで稽古していた助手たちも育ってきたので、本部稽古場以外に活動の場を広げるために作られた、稽古場第2号というのが、大井町稽古場に与えられた立場である。スポンサーは剱持先生/整体コンサルタント(2008年に逝去)。裕之先生をずっと影で支えて来た四天王と呼ばれた古い整体指導者の一人である。

 助手三人体制による大井町稽古場の運営は順調であった。この時期(1993~1998)が一番活気があったかもしれない。その理由は、稽古会の受け皿が大井町稽古場しかなかったからである。稽古場3号となる鎌倉稽古場が開設されたのが1996年である。

 大井町稽古場第2期は整体法研究所が身体教育研究所と名前を変え、技術研究員制度が整備された1998年に始まる。従来の整体コンサルタントであった人たちが身体教育研究所に「移籍」し、身体教育研究所の技術研究員として活動を始めた。整体指導室も稽古場に看板を書き換えた。稽古場の数も一気に増えた。ここから担当者の一人であった戸村が京都に移る2002年までは、戸村を中心に据え、それに大井町稽古場に続いて1996年に開設された鎌倉稽古場との兼務になる松井、それに事務局との二足の草鞋を履くことになる角南が補佐する形で加わった。

 2002年、戸村は関西の稽古拠点となるはずだった山崎稽古場を担当するために大井町稽古場を去っていった。これを機に、大井町稽古場は松井を中心に据え、それを角南、剱持(小田原稽古場との兼務)が補佐するという体制に変わった。2003年に横浜稽古場が開設されて数年は、大井町/横浜/鎌倉三稽古場共通登録という試みもされ、稽古の裾野を広げることに貢献してきた。大井町に関していえば、十年間、松井/角南/剱持体制が続いてきた。活気のある時期、活気のない時期、様々であったが、概ね、登録者25~30名という範囲で稽古会が続いてきた。

 大井町稽古場の特徴をいくつか挙げるとすると、(1)参加者は関東一円の広い範囲からやってくるー言い換えると地元密着型でない、(2)若者の出入りが多いー本部への通過点になっている、(3)課外活動の多様さー田んぼ手伝いから句会まで、といった点である。この多様さが大井町稽古場のエネルギー源といってよい。

 そして2011年3月11日、震災がやってきた。東日本大地震は地面を揺るがしただけでなく、多くの人の人生を揺すぶった。大井町稽古場をも大きく揺らせ、新しい時代へと一気に押し出した。大井町稽古場第4期のはじまりである。

  2011/10

2025年2月18日火曜日

SKIMA

4年前、コロナ禍の真っ最中、リモートで稽古したベルリン在住のダンサー/コレオグラファー、Lina Gomezさんから、そのときの稽古にインスパイアされ、「SKIMA」という作品が出来上がったというメールをいただいた。こんな風に作品化できるんだと、ちょっと感動。オンラインだけで、まだ本人とはお会いできてないのだけれど、この夏会えることを期待している。

https://vimeo.com/user21474509/skima





2025年2月14日金曜日

動く

 当時の僕らは、いつ師匠は整体の決定版を打ち出してくれるのだろう、そんな期待を持って日々稽古を続けていた。明日こそ、来年こそ…。師匠もまた、これこそが整体だ、と言い続けていた。ところが、その決定版の賞味期限は短く、今日これと言っていたものが、その翌日には、あれは間違っていたと覆される。へたをすると朝のコマで言っていたことが夜には否定される。このように日々期待を裏切られることが日常茶飯で、師匠の君子豹変ぶりに僕らはくたびれ果てていた。この当時が、いつのことであったのかすっかり忘れてしまったのだが、本部稽古場が始まって十年も経ってない頃ではなかったか。

 そんな日が続くなか、ある晩夢を見た。ジェットコースターに乗って自分が運ばれている。あるいは、キューブリックの「2001年宇宙の旅」の最終盤、ボーマン船長が光の中を超高速で落下していく様、そんな動きの中に身を預けている、そんな夢だった。「そうか、この運動の中だけに真実はあるんだ」とその刹那得心した。たった一瞬のことで、すぐ忘れてしまったのだけれど、その時の感覚だけは今でも体のどこかに残っている。

 この夢以来、「決定版」を待ち望むことは無くなった。



2025年2月5日水曜日

十年

 寒中見舞いに「第二次京都暮らし十回目の新年です」と書いて、そうか、十年前はまだ横浜で暮らしていたのだと思い至った。自分が十年前、どんな状態にいてどんなことを考えていたのか。当時のブログー私的備忘録を読んでみる。妻を看取り、父を看取り、寂しくなって冬の寒さが堪えていたらしい。「ダナン」(2月9日)という項目で暖地への脱出を計画し始めている。「前にすすむ」シリーズを書き始めたのは5月のことで、この年の9月に京都に引っ越してるなんて予想もしていなかった。怒涛の一年、いや十年の幕開けだった。

2025年1月22日水曜日

禁糖2025

禁糖つつがなく終盤へ。
普段の食事から、コーヒーとちょっとした菓子類が欠けるだけのことで、いつもとさほど大きくは変わらない。でも、ずいぶん真面目に食と向き合っている感はある。いかんせん腹が減る。今年はチーズ類をよく食べている。近所のパン屋さんのチーズチーズチーズというフランスパン生地の上にチーズ数種類おいて焼いたものがあれば満足。
先週末の白山稽古会もおにぎりフランスパンで乗り切った。
今週いっぱいで終える予定なのだが、昔のような我慢する感じがまるでなく、つまり、お祭り感を欠く禁糖ということになる。ま、こんなものか。

【追記 1/27】
禁糖終了。途中、味噌の仕込みなどもして充実。
腹部第2を乱すものとしてスマホがあることは間違いなく、禁糖と並行してスマホ断ちをすべきかもしれない。現代人には、こっちの方が大変だな。

2025年1月12日日曜日

なじむ

寝床から抜け出す前に自分のお腹に触れてみる。
え、もう禁糖なの?
腹部第2調律点が右手薬指でなじめば該当者となる。
うーん、去年より2週間もはやい。
おまけに来週末は白山稽古会がある。
とはいえ、2週間の禁糖生活に入れば、なんかの行事と重なることは避けられない。
で、いきなり禁糖開始。

では、なじむって、どういう感じなのか?
これを英語で説明できるのか?
日本語でだって説明はむずかしいぞ。
なじみの稽古って、稽古会の最初期からやっている。
二者が掌同士を合わせて、そのなじみを崩さないように、転がったり起き上がったりしていた。

同調の感じと言い換えても、伝わりづらい。漢字語だからなのか。
日常生活で使うとすれば「なじみの店」といったところ。
「なじみの店で食事する」とgoogleに問うと、Eat at a familiar restaurantと返してくる。
なじみをfamiliarと訳すのは、そう外れてはいない。つまり、すでに知っていること。
身体集注に入った時の「なつかしさ」というのは、忘れていたかもしれないけれど、すでに知っていた感覚。僕なんか、そのなつかしさに、いつも泣きそうになる。
からだに出会うとは、そのような経験。

禁糖に入ると、食い意地が張ってくる。
まずは、火鉢で餅を焼こう。

2025年1月10日金曜日

博覧強記

博覧強記の人は苦手である。
その頭の良さは認めるとしても、博覧強記ぶりが頭抜けた人とは距離を置いてしまう。

AIは博覧強記である。過去問を全部解いたことのある受験生みたいなもので、問い掛ければ、ちゃんとした(ようにみえる)答えが返ってくる。過去問になくても、過去問から類推して、ちゃんとした(ようにみえる)答えを返してくるに違いない。DeepLもchatGPTも優等生。この人たち(すでに擬人化がはじまっている!)に自分の語彙、文体を教え込めば、分身が生まれそうである。

人に似せたヒューマノイドロボットを作っていく過程で、不気味の谷現象というのが起こるらしい。つまり、その風貌が人に近づいていくと、あるポイントで人の方が拒否反応を起こしてしまう。AIの答えに対する薄気味悪さは、この不気味の谷現象に近いのだろう。あたかも、画面の向こう側に、自分の姿に似たいきものが座っているような錯覚を持つ。この異化感とどのように付き合っていくべきなのか、この先、重要になってくるはずなのだが、身体加工を唯々諾諾受け入れている現代人の多くは、そのような異化感を軽々と飛び越えていきそうだ。こわい時代だ。