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2026年5月2日土曜日

石とゆき交う

千代田路子写真展「石とゆき交う」に行ってきた。
会場の妙心寺退蔵院まで、わが家から17分でたどり着く。
千代田さんとお会いするのは30年ぶりくらいになるのか。
本部稽古場第1期生ですとは本人の弁。
再会の場が、妙心寺であったところが面白すぎる。
10日まで。




2026年4月23日木曜日

衣笠絵描き村

等持院稽古場がある、このエリアは、かつて「衣笠絵描き村」と呼ばれていた。
大正初期から昭和にかけ、京都の周縁地であったこの地域に、自然を求め、画家たちが移り住んできた。残されている当時の写真を見ると、ただの野っ原しか写っていない。堂本印象、木島櫻谷、小野竹喬等々。とはいえ、この地に住みはじめるまで、日本画家の名前などまったく知らなかった。
























櫻谷文庫HPより

私が借りている家屋が、小野竹喬に縁があることなど知らなかった。ごく最近、幼少期をこの近所で過ごした方と話している中で、この家の主が林司馬(はやししめ)という法隆寺の壁画修復に関わった画家であったことを知った。小野竹喬と林司馬は縁戚関係にあるらしい。

晴風学舎がうまれ、この近所が稽古場銀座になってきた。西は御室稽古場(野口順哉)、花園駅近くに花園稽古場(山中一弘)ができ、妙心寺を挟んで、その北側に等持院稽古場(角南和宏)。更に東に行くと西陣稽古場(戸村拓男)があって、すぐ先に寺之内稽古場(棚橋麗子)。東西4キロ、南北1.5キロという徒歩圏内に5箇所稽古する場が集まっている。絵描き村ならぬ稽古村が出現したようなものである。回り稽古常設区だ。

2026年4月20日月曜日

古伊万里

稽古に見えている方から骨董のお店を再開しますとのお知らせをいただいていたので、散歩がてら顔を出すことにした。いい感じの器が並べられていて、つい、古伊万里の湯呑みに手が出てしまう。家に帰って、ふたつ並べてみると、同じ図柄なのに、違った人が絵付けしたことは明らかで、そのおおらかな感じが愉しい。




御用のない方

この掲示の前を通るたびに立ち止まり、はたして、僕のような罪深い人間ほど、この場所に御用があるのではないかしらと考えこんでしまうのです。






2026年4月10日金曜日

整体が消えた?

今月に入って、なぜか稽古の感じがちがう。
いったい何がちがうんだろうと考えているうちに、ひとつの答えにたどり着いた。

整体が消えた。
受付簿から整体協会の名前がなくなったことは確かだけれど、それで操法が変わるか? やっていることを整体操法と呼ばず、生観(しょうかん)法と名称は変わったけれど、やってることは同じはず、同じつもりなのに、それでも何かがちがう。

僕はそれほどまで「整体」という言葉に囚われていたということなのか…。
場が変わるとは、こういうことなのか。

2026年4月8日水曜日

Doho International

Doho Internationalは、30年前、今はブラジルにいる田中敏行さん、舞踏の室野井洋子さん(故人)と僕の3人で作ったグループで、最初は「動法プロジェクト」と名乗っていた。30年前、身体教育研究所の本部稽古場で稽古していた仲間である。ただ活動実績はない。三人それぞれ、動法を媒介とした、脱国境的な活動を目論んできた。夢見てきたといった方が実態に近いかもしれない。お互いをハブにして、人の交流が細々と続いてきた。室野井さんが亡くなり、その空白を埋めるように、ここ十年、ヨーロッパでの活動が増えた渡辺恒久さんー裕之先生の英語論文の翻訳者ですーが加わり、新生Doho Internationalとなった。

ブラジル在住の田中さん働きは大きい。ブラジルで暮らし始めて30年を超える。期せずして、サンパウロの大学の身体芸術コースで教科を担当するなかで、少なくない生徒たちを日本に送って来た。その受け入れ先の一人が私ということになる。だれが田中敏行を「発見」したのか、ここは訊いておかなければならない。

ヨーロッパの状況は、昨夏、書いた「飛地と迷子」の通りで、渡辺さんと話してみて、この文章が的外れでないことは確認できた。いろいろ動いている。日本のなかも動いている。なんせ、晴風学舎って生まれたてですから。Doho International的なものの必要性は高まっているように思います。

まずは、日本国内のネットワークづくりから始めよと思います。ご賛同の方、ご協力をお願いいたします。

2026年4月3日金曜日

春爛漫

春爛漫。
桜の名所は行かねども、散歩途中の花で満足。

切りすぎてダメにしてしまったかと心配していた庭の木槿が芽吹いていた。


晴風学舎の看板も掛けました。

家の中には雛人形。旧暦でいうと、今日はまだ2月16日。




2026年4月2日木曜日

實りの書

動法基礎の稽古を終えて、二条駅近くのギャラリーで開催されている「實りの書」展へ。
横浜鎌倉広島から20年前、大井町、横浜、鎌倉三つの稽古場が合同で稽古していた時代の女子たちが集結していて、期せずして同窓会となる。

「實りの書」展は12日まで開催。作者在廊日は9日、12日だそうです。

實りの書
2026.3.31(火)-4.12(日)

♢場所♢
〒604-8381 京都府京都市中京区西ノ京職司町69−1 2階
CAFE&GALLERY WAKU(JR・地下鉄「二条駅」から東に徒歩6 分)

♢時間♢
10:00〜18:00(定休日/月)

2026年3月31日火曜日

13725日

 2026年3月31日(身体教育研究所終了日)-1988年9月2日(本部稽古場開館日)=13725日

2026年3月21日土曜日

動法2026

あと10日で整体協会とはさようならだ。
当面、月刊全生は読みたいから、一般会員は継続の予定。それでも、長年、職員として関わってきたわけで、やはり寂しい。今月末が最後になる京都研修会館での稽古会にしても、1990年から続いているわけで、36年の歴史がある。今の気分とすると、2009年に事務員を卒業して、独り立ちした時の感じか。よるべのなさと、期待感が入り混じっている。

さて、4月から心機一転といきたいところだが、なんせ70を超えた爺さんになっている。稽古場がはじまって十年くらいは、稽古場は動法の場であった。当時、わたくし30代。稽古場が始まって十年後でも40代半ば過ぎ。青年ではないか。当時50代だったおばちゃんたちも、若者と一緒に竹の棒を振り回していたわけで、いや、たいしたものだと今になって思う。この世代の生き残りは、さすがに少なくなってきたが、しぶとく稽古を続けている人たちもいる。汗と涙の時代です。

跪坐ひとつできない、当時の足首の固さはなんだったんだと思う。第一世代が跪坐ができるようになると、第二世代は苦もなくそれができてしまうという不思議。第一世代は、文字通り外形から入ったわけで、ひたすらマゾヒストとなって、稽古に励んでいた。
この時の教訓。
1 自分の限界は自分では見定められない。
2 そこに他者が入ると、限界と思っていたものの先があることがわかる。
3 解像度を上げることで自分で自分を追い込むことができる。

で、4月から、再び動法と取り組むことにした。
毎週、「動法基礎」という名前で、動法の稽古をします。動法をちゃんとやってない人たちが増えてきてる風なので、今一度、鍛え直す。自分が年取ってきて、やってくる高齢の人には優しく甘くなってしまっているが、年齢関係なく、ちゃんと動法には取り組んだ方がよいというのが結論。とはいえ、ハード系の稽古にはならない。私自身のための稽古でもある。

2026年3月16日月曜日

戦争鬱

朝刊の一面が戦争の記事だと、それだけで気が滅入る。
政治家は自己保身のために戦争を始め、無辜の市民の命を奪う。
トランプはエプスタイン文書から目を外らせるためにイランを空爆し、日本の首相は、TM文書の追求を恐れ国会を解散させた。権力者は陰謀論の犬笛を吹き、愚鈍な市民は、その犬笛に踊らされる。

僕が育ったのは昭和30年代ということになるが、まだ、周りの大人たちの間では、先の戦争の記憶は色濃く残っていて、戦時中のひもじさを語る年若い叔母もいた。神社のお祭りには軍服を着た傷痍軍人の姿もあった。僕など、このような風景を目撃した最後の世代になるのだろうか。

さすがに、朝鮮戦争の記憶はない。十代も半ばに入ってからはベトナム戦争。20代になってすぐ合衆国にいったとき、ベトナム戦争はまだ続いていた。アメリカという国は戦争をしていたが、その国家に刃向かう若者の姿は輝いて見えた。ニクソンが大統領だった時代だ。そのニクソン辞任のスピーチをニューヨークで見た。夜中に酒を飲んで暴れまわるベトナム帰りの元海兵隊の男もいた。PSTDという言葉はまだ知らなかった。インドから、バンコク経由で日本に帰る途中、サイゴン陥落のニュースを知った。

戦争難民という存在を目の当たりにしたのはベナレス(バナラシ)からカルカッタ(コルカタ)へ向かう列車の中。脚の不自由な中年女性が物乞いをしていた。第三次印パ戦争による難民だったと気づいたのは、大分あとになってからだ。

ここまで書いてきたことは、半世紀前の思い出話。
いま、僕らが享受している平穏な暮らしなど、爆弾一発で崩れてしまう。

*****

キャロル・ギリガンの『抵抗への参加』を読んでいる。サブタイトルは「フェミニストのケアの倫理」。思春期の少女たちへのインタビューを通して、少女たちが家父長的社会へ入っていくときに何を諦めさせられているかを解読している。僕が心理学の本を読みはじめたころ、ギリガンは、すでにフロイドの心理学に内在する家父長的なるものへの批判をはじめていたのだ。

1950年代に生まれた僕など、戦後育ちとはいえ、家父長的な価値観を内面化して成長してきた。それでも、マチズモ的な価値観と比較的(あくまで比較的でしかないのだが)距離を置いて成人していったのは、いま振り返ると、母方の大家族のもとで育ったことが影響していることがわかる。貧乏人の子沢山の次女だった母の周りには、年下の弟妹が大勢いて、僕は二十歳前後の叔父叔母に囲まれて育った。左官だった祖父が威張っているのを見たことがない。むしろ、怖かったのは祖母の方だ。西日本の農村地帯に残る母系的な文化風土もあったことだろう。

1970年代80年代、京都で暮らしていた十年、周囲には当時のウーマンリブ系の女性たちが大勢いた。考えてみれば、不思議な十年間。岡山の田舎で育ち、数年の海外放浪期間を経て、京都の租界地に着地したようなものだ。黒川創が『この星のソウル』で描写しているような、アメリカのリベラル思想と日本、東アジアの社会運動が交差する不思議な空間に身をおきながら、いわゆる「運動」とは距離をとっていた。

そんな頃、野口晴哉の教育論と出会う。

*****

野口晴哉の教育論において、人生の出発点は胎児期におかれる。つまり、受胎と同時に教育が始まる。潜在意識教育論法講座と銘打たれた一連の書籍は、人がどのような道筋を通って成長していくのかを丁寧に説いている。この延長線上に、裕之先生の「育児講座」があり、その後、「双観法」「独観法」という整体の技法へと繋がっていく。つまり、人間にとって、他者とともにある状態がデフォルトなのか、それとも、一個の独立した人間である状態がデフォルトなのか、どちらを出発点に置くかという問題である。

二年前、近所のカフェで整体入門的な講座をやった時、整体の育児論を軸に話を進めることにした。その会の直前、『ケアの倫理』という本を偶然手にし、この講座に「整体育児論はフェミニズムと出会えるのか?」という隠れテーマがあることに気づいたのだった。僕はここまで、いろんなテーマで書き散らかしてきたけれど、家父長制という言葉も、フェミニズムという単語もまったく出てきてないのに、ここにきて、こんな壮大なテーマと出会うのかと、自分でも驚いた。

フェミニズムが「ケア」というものによって、家父長制を解体しようとしてきた試みと、「双」という集注を起点にした人間の探究は、どこかで出会うべきではなかろうか。僕がずっと所属してきた身体教育研究所という組織は、どちらかというと、ホモソーシャルな関係性の中で運営されてきた。それを下支えしてきたのは女性たちなのだが。もし、整体が権力に靡かない存在であり続けるのであれば、それはおそらく、内なる家父長的なるものと向き合わざるを得なくなる。これは、大きなテーマだ。

*****

いまのこの不機嫌に名前をつけるとすれば、戦争鬱しかない。

2026年3月13日金曜日

消滅する調和

 晴風学舎への移行準備の一環としてパソコンの中を整理していたら、本来、 僕のところにあってはいけないはずのファイルを発見。20年前の身体教育研究所の課題答案。紙で提出されていた答案60人分を夜鍋仕事で入力していたものらしい。はたして、これは仕事としてやったのか、それとも自発的にやったのか。今となっては不明。

 しかも、その課題というのが、昨秋の資格更新時に課題で出されたのと同じ、「稽古場で追求すべき整体とは、反対を与えない調和、根拠なき調和、消滅する調和のことであると表現されていますが、それらを解説しなさい」というもの。

 まずは、20年前の自分の答案と昨秋提出した答案とどれほど違っているのか比べてみる。結論からいうと、表現において、多少の進歩のあとは見られるが、内容的には同じ。進歩してないというべきか、ぶれてないというべきか。つまり、20年間、ずっと同じところにこだわりながら稽古してきた。進化せずとも、深化ありというところ。

 あらためて、他の人の答案に目を通してみる。結構、みなさんちゃんと書いている。稽古のことを言葉にする作業は難しい。上っ面な理解で書けば、人には伝わらないことを日々経験しているのが指導者という立場にいる人間だ。答案提出者の三分の一は、すでに故人となっている。歴史を紡ぐとはこういうことなのだ。きっと。

 このファイルは、ゴミ箱に放り込んでおくことにしよう。

2026年3月3日火曜日

辞表

整体協会に辞表を出す日が来るとは思わなかった。
整体協会に入会して48年、本部事務局に入社して40年、技術研究員となって18年。
ともかく、長い付き合いであることだけは確かである。

昨夏、師匠が突然、整体協会からの分離独立を宣言した。
おれになんの相談もなく、というのは、そもそも無理な相談だろうけれど、
一緒に闘ってきた自称同志としては、まったく青天の霹靂。
この感情を腹に納めるのに半年かかった。

こういう時は、先に逝ってしまった仲間たちに訊いてみるしかない。
それぞれの顔を思い浮かべながら、
「おまえさんたちが、オレの立場だったらどうする?」と声をかけてみる。
返ってくる答えは判で押したように皆同じで、逆に尻を叩かれる始末。

で、4月から新組織「晴風学舎」に加わることにした。
活動の中味はこれまで通りなのだけれど、一応、会員制の組織なので、
稽古してきた方たちにも、新組織への加入をお願することになる。

ゼロから立ち上げる組織。
前途多難の船出となりそうだが、幸いなことに、人材はいて、中味もある。
あとは、運営力。

これを機に稽古会費も上げようと思っている。
はい、便乗値上げです。

2026年2月7日土曜日

禁糖2026

吉田神社の鬼やらいの神事に行った翌日、急遽思い立って禁糖を始めた。順調に行けば、旧正月には終えられるはずである。外食しづらい禁糖期間中に泊まりがけの行事を入れることはないのだけれど、今年は、ばっちり白山稽古会が入っている、というか、白山にやってきた。

そうなると、食料持参の出張ということになる。タッパーにカレーを載せた白米を詰め、もうひとつのタッパーにはサラダ。おにぎりにふかしさつまいも。さらには、バゲットにチーズ。果物、ティーバッグも入れた。ちょっと準備過剰という気がしないでもないが、これには理由がある。

この時期北陸に向かうと、天気予報と列車の運行状況と睨めっこすることになる。一年前の2月は、結局雪で来られなかった。来られないのなら諦めもつくが、問題なのは、来たはよいが帰れなくなるパターン。随分前のことだが、雪でホテルに48時間缶詰になったことがある。まだ、北陸新幹線が金沢までで、サンダーバード一本で通っていたころの話だ。

明日の天気予報は雪。交通機関もあやしい。
雪国に缶詰というのも悪くないとはいえ、今は禁糖中だ。

そう、禁糖の話でした。
今回、タイミングが合ったのか、変化が速い気がする。


 

2026年1月6日火曜日

室野井洋子を稽古する

去年のヨーロッパ遠征の余波なのか、海外からの来訪者がポツリポツリとやってくる。
面白いのは、日本滞在中に知り合った友人を引き連れてやってくるというパターン。ウィーンでの稽古会に出たオーストリア人男子が、2回目には、フィンランド人男子2名連れてやってきた。一人は長年舞踏の稽古をしているという。そして3回目になると、今度は、2回目来た人が別の三人目、なんと今度は、日系ウルグアイ人女子を連れてやってくる。いったい、ここでやってることをどのように伝えているのやら。

ここでやっていることに一番食いついてくるのはダンサーたち。ブラジルの田中さん繋がりで、ここ十年の間に十人くらいやってきたんじゃないかしら。みな、見えないものに集注しようとしている。

僕の中で、舞踏といえば室野井洋子ということになる。なんと亡くなって9年経つのだ。亡くなった翌年とその次の年、パートナーの高橋幾郎さんたちが編集し、出版にこぎつけた「ダンサーは消える」「踊る身体」を開いてみると、室野井さんが、そこに居る。後者は稽古記録のまとめである。室野井さんの稽古を言語化する力に舌を巻く。このテキストを使えるのは、きっと僕しかいない。今年は室野井洋子を稽古してみようと思う。





2025年12月27日土曜日

ふりかえり2025

 歳取るとともに一年が短くなるというが、まったくその通りで、暑すぎた夏の記憶(この夏の京都市は61-68で記録更新。つまり、猛暑日が61日、熱帯夜は68日に及んだ。こんな街は京都だけである。)だけが鮮明で、あと何があったか不覚にも、よく覚えていない。であるのに、あと五日で今年が終わってしまうというではないか。孫たちがやってきて、このまま新年を迎えてしまうと、今年がどんな一年であったか忘れてしまいそうなので、記録と記憶を元に、一年を振り返ることにする。

 まずはお遍路。2月、4月、11月の3回、四国に出向き、38番札所金剛福寺から45番岩屋寺まで250キロを歩いた。正確にいうと、うち30キロはバス利用である。お遍路四年目にして、ようやく全行程の6割を打ち終えたことになる。ともかく土佐路が長かった。まさに修行の道場。来年からは、岩屋寺から松山市に入り、瀬戸内海に沿って歩くことになる。瀬戸内路に入っても、まだ難所はあるようだけれど、往復に費やす時間は短くなってくるはずである。

 12年ぶりのヨーロッパ行きは、一番のビックイベントだったはずなのに、冒頭に書いた京都の夏の暑さにやられて、今年前半の出来事は忘却の彼方に飛んでいってしまいそうである。それでも、秋になって、ドイツ、オーストリアの稽古会で会ったうちの何人かが京都を訪ねて来てくれたので、幻ではなかったことを確認することができた。ヨーロッパの物価の高さを実際に体験すると、インバウンドブームの本質が過剰な円安にあることがよく理解できる。元凶はアベノミクスです。

 長年ホームグラウンドとしていた大井町稽古場が3月末をもって閉鎖になってしまった。もう更地にされ、その後に新しい家が建っていることだろう。ひとつの歴史の終わり。ヨーロッパに行っている間に起こった身体教育研究所の整体協会からの分離独立騒動。この話を聞いてから僕はずっと怒っていた。周囲の人たちの付和雷同ぶりも気に入らない。そう、この秋、ずっと怒っていた。いまや大多数となった稽古会が整体の入口だった人たちと、身体教育研究所を闘いながらゼロから作ってきた人間とでは、歴史観が違っている。

 困ったことに、自分が稽古会でやっていることの9割は、この我儘師匠に教わってきたことで、しかも、ここにきて、人為を離れるための技法がさらに進化深化している。観客然としている立場ではないのだが、この続きを見ないわけにもいかない。さて我が身をどう処するべきか。怒りはまだおさまってない。が、結論は出た。

2025年12月26日金曜日

整体法研究所のころー1992年5月

 1992年というと、僕が整体協会の事務局に入って6年目、稽古場が立ち上がって4年目の年になる。その頃の稽古場というと、まだ指導者養成の場という看板を上げていて、整コンを目指す人たちも稽古に参加していた。稽古場の指導者制度、つまり、技術研究員、動法教授資格といったものが確立されるのは1998年まで待たなければいけなかった。整体協会の中で指導者と呼ばれるのは、整体コンサルタントであり、活元コンサルタントであった時代の話である。

 その時の僕の身分は、まず整体協会事務局資料室員、かつ、本部稽古場運営担当を兼務。資料室員といいながら、稽古場担当の比重がどんどん高くなっていた頃である。しかも、助手と呼ばれていたダン先生の弟子たちが増えていき、つまり、その人たちを統括する中間管理職でもあった。時折、自分の稽古会でのマクラで、「僕の不幸は、ダン先生が師匠ではなく上司として現れたことだった」と話すことがあるのだが、これは誇張ではない。

 京都から東京に移った理由のひとつは、僕自身整コンを目指していたからである。事務局で仕事しながら段位試験も受け、この年、整体コンサルタントの試験も受けた。ただ整コンになるということは、独立することであり、事務局も辞め、どこかにーたとえば、実家のあった岡山にー指導室を構えることを意味していた。

 整体コンサルタント試験が終わり、そろそろ結果が発表されるころのある日、ロイ先生に呼ばれた。おそるおそる会長室に顔を出すと、ロイ先生は困ったような顔で、「キミはどうしたいのかね」と問われた。つまり、事務局に残って、ダン先生の手伝いを続けるのか、それとも整コンとして独立するのか。何日か猶予をもらうことにし、その後、返事をした。

 どの道を選んだかは、ここに書くまでもない。自分で下した決断の重さを消化するために休暇を取って旅に出ることにした。友人を恃んで、一週間、カリフォルニアに逃げた。(当時の記録を掘り起こしてみると、信じがたいことに、東京ーサンフランシスコの往復運賃が66,000円とある。)

 もちろん、整コン試験の合格者の名前に僕の名前は含まれてなかった。ただ、試験官だった柳田先生、吉田先生、堅田先生といった大御所と呼ばれていた人たちの講評にどのような内容が書かれていたのか、今でも、少しだけ気になる。ロイ先生にはご迷惑をかけた。

 この頃から、稽古場の輪郭が徐々に形を取りはじめ、本部との路線の違いが大きくなっていく。稽古場がまだ整体法研究所と呼ばれていた時代の話である。

2025年12月11日木曜日

美容院で髪を切る

美容院に行くのはおそらく20年ぶりのことだ。
京都に来てからというもの、髪を切るのは近所のチェーン展開している散髪屋、しかも二、三ヶ月に一度と相場が決まっていたから、僕にすれば相当の飛躍である。

いきなり、70過ぎの爺さんが現れ、ちょっとパンクでヤンチャな感じにしてくれとリクエストされ、紹介者たるカミさんが、横からベッカム風がよいなどと口を挟むものだから、40代の美容師さんも困ったに違いない。

でも、さすがプロですね。手際よく髪全体の形を整え、そこから、こちらの無茶振りをかたちにしてく。小一時間のうちに、ヤンチャな新生スナジイが出現した。



2025年11月6日木曜日

秘密基地

目下のところ、狭い台所を拠点にして暮らしている。
火を使う、狭い、ホットカーペットがテーブルの下に敷いてある。
つまり、この台所が家の中で一番暖かいという理由による。
去年の暮れ、長年使ってきたダイニングテーブルは脚を切られ和机に変身。
その机の前に正座して本を読むもよし、煙草を吸うもよし。
一動作で冷蔵庫の扉を開け、一動作でガス台の火を付けられる。
この机を起こしてしまえば、布団一枚敷くスペースは生まれるから、
この狭い台所だけで暮らせるんじゃないかと思うほどである。
照明は暗めにしてあるから、穴倉感濃厚。
まるで秘密基地じゃないか。

2025年10月27日月曜日

関西公演終了

チャーリーとトリーナの三日間にわたる関西公演無事終了。
音楽ホール、神社、寺院という三つの会場で、それぞれ異なる時間帯に催された演奏会。
受付周辺をうろうろしながら、アイリッシュハープと薩摩琵琶の音色に耳を傾けていた。
ちょっと距離のあるところから流れてくる音の心地よさというのがあることに気づく。
構えて聴くのではなく、聴こえてくる音に身をまかせる感じ。
演者と聴者という垣根が低い状態。

トリーナがひとりで演奏していると、ハープの音色として聴いているのに、そこにチャーリーの薩摩琵琶の音が入ってくると、ハープの音が、どんどんピアノの音に聴こえてきてしまうのはなぜなんだろう。

ふりかえれば、半年におよぶプロジェクトだったわけだ。
チラシ配りで、普段は行かないお店に出かけたり、音楽ホールの楽屋をフラフラしたり、はじめてする経験も多かった。

そして明日からは稽古会。