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2026年9月26日土曜日

君を見上げて

年に一度、あるいは二度、連れ合いは不調を訴え、眠りモードに入る。
今週なかば、用事で行った大阪から帰ってきて、そのまま、眠りモードに入ってしまった。人混みを歩いたのも引き金になったのかもしれない。たまにトイレに立って(這って)ゲーゲーやってるが、まるまる60時間、布団の中にいた。

四日目になって、ようやく起き出してきた。まだふらふらする様子だが、少しづつ冬眠から覚めてきた感じ。立ち上がった姿をみると、ちょっと違和感がある。顔が上の方についている。もともと、短躯の僕より背は高いから、少し見上げるのはいつものことだが、いつもの角度だと、鼻口は見えるが、目を合わせられない。あらら、背が伸びてる。50近くなっても、背は伸びるらしい。

冬眠中の様子だと予定していた広島行きは無理だろうと宿はキャンセル、一人分の新幹線切符も払い戻してしまっていたのに、「やっぱり、広島に行こう」とのたまう。なに、このちゃぶ台返し。明日、切符が買えればという条件付きだが、広島に向かうことにした。

そういえば、「君を見上げて」というタイトルの小説、山田太一が書いてたな。

2026年9月14日月曜日

条件

8歳の孫がジージに弟子入りしたいという。
これは嬉しい。三兄弟のなかでは一番素質があるかもしれない。
ガッツはある。なんせ、3歳で家出して京都まで来た人なのだ。
次男坊ゆえなのか、気働きも抜群。

では、弟子入りの条件はどうしよう。

前回の回り稽古が終わったあと、等持院稽古場で担当指導者5人の座談会をやったのだが、その時に稽古場に入る者の「心構え」の話が出た。二子玉川に稽古場ができた当初、裕之先生がオリエンテーションの時に話されていたことである。

次の者、稽古場に入るべからず、という否定形ではじまる。
1. 自らの体を全力で使うことを惜しむ者
2. 自らの感覚を疑う者
3. 自らの身体をおそれる者

正確な文言ではないかもしれないが、概ね、以上に挙げたような内容だった。裕之先生がどういう意図でそう話されたのか、僕らは、それらを、どう受け止めていたのか。時代的背景も含め、今一度、吟味する意味がありそうだ。

そう、弟子入りに条件の話でした。
8歳の孫にはすでに上記3条件を満たしていそうだ。
というか、ここにたどり着くまで一代目は苦労する。
ダン先生がいっときよく「整体三代」と言っていた意味もここにあるのだろう。

欲張りジージは考える。
これにさらに条件をつけるとすると、何があるのだろう?

1 )   10代20代のうちに海外で暮らす。最低一年。
 マイノリティ経験のない人に指導者は向かない。ま、整体の水で育っていれば、自分がマイノリティであることは、どこかの段階で気づくことになるのだが。言語を通して、自分を相対化する経験も大事。
2)家事ができること。
 料理、洗濯、身の回りのことが自分でできなきゃダメでしょう。力仕事もできたほうが良い。DIY的プリコラージュ能力は必須。

 要するに自分に足りないものを列挙しているだけではないか。

2026年9月8日火曜日

書字計算法

 寝苦しい夜が続いていたので、地球は「熱的死」に向かっているにちがいないと考えた。昔々、この熱死をテーマにしたSFを読んだ記憶があるのだが定かではない。エントロピーが飽和して動かなくなった世界。図書館で、この言葉をキーワードに検索したら『停滞空間』というタイトルの短編集が引っかかってきたので、借りて読むことにした。どっかの図書館の書庫で眠っていたらしい。アイザック・アシモフなんて、懐かしい名前ではないか。自分の読書ノートを探っても、ここ40年間、アシモフの名前は出てこない。さかんにSFを読んでいたのは20代まで遡るらしい。

 この短編集に収められているのは、1950年代の作品。まだ、コンピュータは黎明期でしかない。なのに、AIを思わせるコンピュータが人間のすべての問いに答える「世界のあらゆる悩み」、人が自分で計算することができる能力を有することが奇跡とされる「ナンバー計画」等々、今の時代を予言する小説が連なっている。

 「ナンバー計画」は書字計算法という、僕らのいう筆算の話。その中に、17x23という2桁同士の掛算が出てくる。思わず、紙の上で筆算してみる。問題なくできて一安心。次に出てきたのが5738x7239という掛算。4桁の掛算なんて、随分やってないぞと思いながら、これにも挑戦。指で繰り上がりの数を数えたり、ちょっと苦労しながらやり遂げる。

 お目当ての、僕が熱的死と考えていた小説は含まれていなかったが、頭の体操はできた。次は6桁くらいの掛算に挑戦してみようか。ぼくらは、計算機が叩き出す数字を正しいと信じているが、本当に正しいのか、一度確かめた方がよい。



2026年9月3日木曜日

更ける

順調に老いていると書いたが、釈然としない。
ふけると言ったほうがしっくりする。
fuketuと入力すると、「老ける」と文字変換されるが、「更ける」も出てくる。
こういう時は古語辞典である。

【老い】
1) 老人となる。
2) 植物などが衰える。枯れかかる。

【更け】
1) 自然に時や季節が深くなる。
2) 年をとる。

(岩波古語辞典)

なるほど。
前言撤回。
「順調に更けている」にする。

2026年8月29日土曜日

糸瓜

ヘチマの花が咲いた!
百均で買ってくる台所用のスポンジは、マイクロプラスチックとなって下水に流れていく。ならば、それをヘチマで代替しようとこの春から挑戦してきた。種を買ってきて発芽させる。芽が出たと思ったら、虫にやられる。苗になった段階で地植えに変えると、また虫にやられる。こんなことを繰り返しながら、なんとか、鉢植えから一本、地植えから一本、それぞれ蔓を上に伸ばしはじめた。ヘチマの葉はゴーヤに比べると大ぶりで美しい。さて、実をつけるところまでたどり着けるか。

ちなみに、糸瓜は晩夏の季語。先週の筆動法の時間に書いてみた。





2026年8月28日金曜日

順調

目覚めはゆっくりだ。
生理的欲求で目を覚ますのだが、その欲求の現れ方がずいぶんゆるやかになってきた。トイレに駆け込むわけでもなく、慌てて冷蔵庫のドアを開けるでもない。家人が巻いてくれている煙草に火を点け、ゆっくり煙を吸い込んでいく。これが目覚めの儀式。

順調に老いている、と我ながら思う。
行動半径は日に日に縮まってきている。暑さのせいもあるけれど、人の多い街中に出るのは億劫だし、徒歩20分のコープに行くのさえ面倒くさい。石川も遠いが、月一回のことなので頑張って行く。東京千葉はさらに遠い。先日の整体観法講座も欠席。

耳はますます遠くなる。
集団のイベントへの参加にも腰が引ける。かろうじて、三日間の稽古会には出ているが、果たしていつまで続けられるか。耳が遠くなるということは、耳からのインプットはもう十分ですよと体が言ってるわけで、むしろ、集団からは身を引いて、ひとり思索にふける、来る人だけを相手に稽古する段階に入っているように思う。

と言いながら隠居への道は遠い。

2026年8月25日火曜日

フォルダ

人の人生に自分から踏み込むことはしないが、人の人生がやってくることは、ままある。体の中には過去というフォルダがあって、さまざまな経験の断片が時系列おかまいなしに放り込まれているようで、その中で断片たちは勝手に繋がり、勝手に成長を始めるらしい。

2026年8月24日月曜日

帰還

ここ数年姿を見せなかったヤモリを台所のすりガラスの向こう側に発見。
台所の窓はヤモリの狩場になっていたのに、狩られていた蛾の姿も最近見ない。



2026年8月13日木曜日

声の記憶

時間と共に風貌の記憶は薄れていく。それに比べると、声の記憶は風化しない。
この歳になると、鬼籍に入ってしまった知り合いの数が増え、電話帳のリストのうち、2割を占めるようになった。亡くなったからといって、電話帳から消すのは忍びなく、(故人)と付け加えて、そのまま入れている。

故人を振り返っていくと、その人を声で記憶していることに驚く。
半世紀も前に亡くなった祖父母の声をちゃんと覚えているし、三十年近く前に亡くなった母親の声の記憶も鮮明だ。その人との近さが反映されているようにも思える。それに比べると、視覚的記憶の方があやしく感じるし、覚えていたとしても、案外、写真の記憶だったりする。

耳は遠くなったが、昔の声はよく聞こえる。

お盆ですね。

2026年8月12日水曜日

旅はつづく

 この夏の課題図書はインゴルドの「教育とは何か」(亜紀書房 2025)。若い友人たちからインゴルドの名前は聞いていたが、著書にあたるのははじめて。文化人類学者インゴルドが旧態依然とした教育システムをデューイの教育論に立ち返って語るという建て付けの本である。原題は、Old Ways, New People、副題がAnthropology and/as Educationとある。

 振り返ると、僕がここにいるのは、1973年秋、デューイ、イリイチ、フレイレの本に出会ったからだと言えなくもない。これらの思想に出会って感動したとか、そういう話ではなくて、この人たちの著書を英語で読まざるをえない環境の中で、強烈な異化感、消化不良感が、以来ずっと続いているといった方が正確だろう。逆説的だけれど、これだけとっても、FWC(Friends World College)で学べてよかったと思えるのだ。

 その異化感と向き合う過程の中で、補助線として現れたのが野口晴哉の成長論、人間論。その補助線がいつのまにか主線に入れ替わってしまったというのが、ここ半世紀の要約である。3人の中でデューイを一番後回しにしてきたから、インゴルドを先導役に、デューイの世界に踏み入っていくのも良いのではないかしらね。

 まだ読みはじめたばかりだけれど、バラッド同様、新しい造語を作りだし、英語の構造そのものに挑んでる感じがあって好感が持てる。



2026年8月5日水曜日

おかのり

 おかのりの苗を分けてもらったので庭に植えてみた。どんどん蔓を伸ばして葉を付けていくのだが、使い方がよくわからなかったので放置していたのだが、ゴーヤと一緒にどんどん上に伸びていって屋根に届きそうなので、いい加減収穫せねばと葉を摘みはじめた。まずは茹でてみる。味見してみると、ちょっとほうれん草に似た味わいで粘りがある。これならおひたしにして鰹節散らせて食べればいけそうだ。たしかに、おかのりとはよくいったもので、海藻の食感。これで毎度の食卓に一品増やせるではないか。8月は、ゴーヤとおかのり、それに佐伯さんから買ってくるナスで乗り越えられそうだ。



2026年8月3日月曜日

自己紹介

ここ一週間くらい、妙にこのブログを見にきてる人が多い気配があったのだけれど、今日、新しい風韻が届いて、その謎が解けました。今月中旬くらいと予告されていた風韻がもう発行発送されてたのですね。ならば、ちょっと、自己紹介しておかねば。

はじめまして角南です。
京都で世界一小さい(おそらく)稽古場を開いています。
38年前、整体協会に本部稽古場が開設されたとき、事務局で働いていたのですが、暇そうにしていたせいなのか、稽古場運営の事務方を任されることになり、以後20年、途中からは、稽古担当も兼ねながら事務局に籍を置いていました。2009年、二足の草鞋はもう限界と無理やり事務方を卒業し、給与のない生活に突入。2015年に拠点を東京から京都に移し、はや11年になります。青年老やすく学なり難しで、70代中盤に突入。そうそう、近年、耳遠くなってコミュ障気味です。以後、お見知りおきを。

今回の風韻に寄稿した原稿の元々のタイトルは「稽古場の冒険」。適当に改変してくださいといって編集部に渡したのですが、予想の上を行ってくれました。原稿の最終行に「おのおの方、準備はできましたか」という脅し文句が入っていたのですが、これもオミット。僕としては、芭蕉の引用も含め、「旅」を裏テーマにしていたのですが、ちゃんと伝わってそうですね。月刊全生からの写真がデカデカと使われている。38年前の秋ですね。竹を構えているのは佐々木正則さん。四半世紀前かもっと前、裕之先生はしきりに「21世紀の整体にしなきゃいけない」とおっしゃっていた。新しい世代の文章を読んでいると、それが「脱整体」というかたちで実現しつつある。期待しかない。






2026年8月2日日曜日

愛宕山

白山稽古会の帰途、京都駅から円町に向かう電車の中から見えた愛宕山の夕焼けが綺麗だったので、円町駅のホームに降りてから写真を撮ろうとしたのだが、ビルに邪魔されてしまった。



2026年7月31日金曜日

穿つ

夫婦で会話してると、言葉の意外な誤用を発見することがある。
「そんなうがった見方しちゃいけん」(美作弁)というと、そんな言い回しは知らん(伊予弁?)という。こちらとしては、そういう深読みしすぎた理解の仕方は間違ってると言いたいのだが、調べてみると、この使い方は間違っているらしい。本来、穿った見方というのは、「物事の本質や真相を鋭く見抜くこと」を意味するとのこと。たしかに「穿つ」とは穴を開けるの意であるからして、この方が筋が通る。じゃあなんで、「うがった見方」が、捻じ曲がった見方という意味を獲得していったのか? 文化庁の広報誌にこんな記事があった。→「うがった見方」は,良くないのか。

2026年7月27日月曜日

ゴーヤ収穫

ゴーヤ第一号収穫。
十日前に小指の先ほどの大きさだった1号が立派なゴーヤに成長していた。
いよいよゴーヤシーズンの始まりです。



2026年7月19日日曜日

酷暑

明日から三日間、妙心寺での稽古会。
天気予報をみると恐ろしいことになっている。



2026年7月18日土曜日

旅学

 夏のこの時期になると旅心が付くのは、十代の頃、夏休みに入るたびに、リュックを背負って出掛けていた名残なのだろう。流石にこの歳になり、しかも猛暑日が続くと、出掛ける気力も失せ、せいぜいが図書館に行って旅の本を借りてきて読むくらいである。

 宮本常一が観光文化研究所(観文研)を立ち上げたのが1966年で、その活動は1989年まで続いたとある。数十年後、その活動を機関誌「あるくみるきく」を国会図書館に通って読み通し、修論にまとめたものが、さらに一般向けの書籍となって姿を表したのが、この一冊。宮本常一の旅学が、観文研の活動を通して、どのように若者たちを鍛え育てていったか。その過程を観文研に集った元若者たちをインタビューすることで浮かび上がらせている。その元若者たち多くは団塊の世代。ぼくより、ちょっとだけ上の世代にあたる。




2026年7月17日金曜日

ゴーヤ1号

グリーンカーテンとして植えたゴーヤ、今年も順調に葉を茂らせてくれている。
ゴーヤ1号を発見。去年は豊作だったけれど、今年はどうだろう。
苗をいただき、ゴーヤの隣に地植えしたオカノリも屋根に届く勢い。
ヘチマは、のんびり蔓を上に伸ばしてきている。はたして、実を収穫できるくらいまで育ってくれるか。



2026年7月14日火曜日

途中

結局、途中なのだ。
始めと終わりが措定されている故に、その間は、どの時点どの段階であっても途中になる。では、はじめとおわりは、どのように措定されうるのか。

2026年6月18日木曜日

整体が消えた 2

 三日間の稽古会が終わったのに、まだ月半ばであるというのが不思議でしかたない。30年間、京都の三日間が終わって、その月が終わるという日程になじんでいたから無理もない。稽古会のスケジュールも、以前よりゆったりしている。なによりも、会場まで歩いて行けるというのが、ありがたい。徒歩17分。自転車で10分。

 裕之先生の稽古からも、見事に整体が消えた。新しい顔ぶれも増え、これまでとは違った切り口になるだろうなとは思っていたが、僕の予想のはるか上を行っている。これまで40年間積み上げてきたものを、一旦横に置いて、ゼロから晴風に組み替えようとしているかのようだ。建物の壁を消して、動きだけで生成されていくかんじ。すごいな。
 
 月末に回り稽古がやってくるし、同時に、連句協会のための原稿締め切りも近づいている。連句を稽古化して、ついでに原稿のネタにもしたい。こんな都合のよい一石二鳥を目論んでいる。こんな風に考えられるようになったのも、整体が消えたせいかもしれない。