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時差ボケと熱帯夜
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聴力補助
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大井町稽古場閉鎖
大井町稽古場ができたのが1993年であるから、いまから18年前ということになる。本部稽古場が二子玉川につくられたのが1988年であるから、それから5年が経過している。つまり、身体教育研究所(当時はまだ整体法研究所と呼ばれていた)の本部稽古場が活況を呈し人が溢れはじめ、また助手として連日連夜、裕之先生のもとで稽古していた助手たちも育ってきたので、本部稽古場以外に活動の場を広げるために作られた、稽古場第2号というのが、大井町稽古場に与えられた立場である。スポンサーは剱持先生/整体コンサルタント(2008年に逝去)。裕之先生をずっと影で支えて来た四天王と呼ばれた古い整体指導者の一人である。
助手三人体制による大井町稽古場の運営は順調であった。この時期(1993~1998)が一番活気があったかもしれない。その理由は、稽古会の受け皿が大井町稽古場しかなかったからである。稽古場3号となる鎌倉稽古場が開設されたのが1996年である。
大井町稽古場第2期は整体法研究所が身体教育研究所と名前を変え、技術研究員制度が整備された1998年に始まる。従来の整体コンサルタントであった人たちが身体教育研究所に「移籍」し、身体教育研究所の技術研究員として活動を始めた。整体指導室も稽古場に看板を書き換えた。稽古場の数も一気に増えた。ここから担当者の一人であった戸村が京都に移る2002年までは、戸村を中心に据え、それに大井町稽古場に続いて1996年に開設された鎌倉稽古場との兼務になる松井、それに事務局との二足の草鞋を履くことになる角南が補佐する形で加わった。
2002年、戸村は関西の稽古拠点となるはずだった山崎稽古場を担当するために大井町稽古場を去っていった。これを機に、大井町稽古場は松井を中心に据え、それを角南、剱持(小田原稽古場との兼務)が補佐するという体制に変わった。2003年に横浜稽古場が開設されて数年は、大井町/横浜/鎌倉三稽古場共通登録という試みもされ、稽古の裾野を広げることに貢献してきた。大井町に関していえば、十年間、松井/角南/剱持体制が続いてきた。活気のある時期、活気のない時期、様々であったが、概ね、登録者25~30名という範囲で稽古会が続いてきた。
大井町稽古場の特徴をいくつか挙げるとすると、(1)参加者は関東一円の広い範囲からやってくるー言い換えると地元密着型でない、(2)若者の出入りが多いー本部への通過点になっている、(3)課外活動の多様さー田んぼ手伝いから句会まで、といった点である。この多様さが大井町稽古場のエネルギー源といってよい。
そして2011年3月11日、震災がやってきた。東日本大地震は地面を揺るがしただけでなく、多くの人の人生を揺すぶった。大井町稽古場をも大きく揺らせ、新しい時代へと一気に押し出した。大井町稽古場第4期のはじまりである。
2011/10