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2022年10月17日月曜日

AI時代の言語学習 2

 10/14 某語学学校見学。中級1のクラスを薦められたが、テキストをみると難しそうなので、初級2のクラスを見学。生徒の年齢層はやや高め。6人くらい集まっている。先生の声は聞き取れる。連用形の活用をテキストに沿って進めて行く。テンポよくというか、僕にはやや速すぎる。受講者との会話形式でのやりとりになると、皆さんの声が小さくて、やりとりをフォローできなくなる。ちょっと、この流れについていくのは無理だな〜。生徒の役割を演じるには、僕はもうすれっからしだし。90分マスクつけっぱなしというのもきつい。ということで、語学学校での韓国語学習は却下。こうなると自分用のカリキュラムを作るしかない。まあ、カリキュラムを作ることに関してはプロなんだけど。

というわけで、自分用のカリキュラムを考案することにした。
A ) 名文と呼ばれている平易で美しい韓国語のテキストをみつけてくる
B ) テキストをネイティブに読み上げてもらう
C ) テキストを書き写す 自分で声に出して読む
D ) テキストを辞書を引きながら訳していく
E ) 知らない用法を文法書を参照して、あるいは上級者に尋ねて学んでいく

なんだ昔ながらの寺子屋スタイルではないか。
でも、これを実行するためには、ふさわしい助言者が必要だ。
アドバイザー募集します。

2022年10月13日木曜日

AI時代の言語学習 1

 勢い余って、語学学校見学の申し込みをしてしまった。いえ、あくまで「見学申し込み」です。耳は遠くなり目はかすみ、着実に老化が進み、しかも、コロナの影響でマスク着用がデフォルトになっているこの状況で、はたして語学クラスへの参加って可能なのだろうか? 四十年ぶりに韓国語熱が再燃していることはたしか。これも、「韓国文学の中心にあるもの」を読んだせいである。でも、なんで、韓国語クラスに一気に跳んでしまうのか、自分でもよく理解できてない。七十になって、思っていたよりも残された時間は長いかもしれないとふと思ってしまったことが後押ししていることは間違いなさそう。

 韓国語の辞書など、とおの昔に手放してしまった。ただ、40年前と語学学習の環境は様変わりしている。インターネットのせいであるというか、お陰であるというか。翻訳サイトをつかえば、日本語を入力すると、すぐに韓国語が出力され、読み上げてくれさえする。至れり尽くせりというほかない。韓国映画だっていくらでも観ることができる。こんな環境があれば、独習だって可能だろう。オンラインレッスンという道もある。ただ、それらが身体性を欠いている限り、メインの学習法に据えようがない。

 ともかく明日見学行ってくる。

2022年9月10日土曜日

アン・ソンギ

韓国文学の中心にあるもの」を読んで以来、韓国熱再燃。実現しなかった未来ーパラレルワールドとして、韓国韓国語というものが、僕の中であるらしい。その後ろに、曽祖父角三郎の姿もちらちら見える。

で、アン・ソンギ。韓国を代表する俳優。てっきり年上だと思っていたら、1952年生まれ。まったくの同世代ではないか。僕にとって、1976〜86の十年間が、一番、韓国が近しい存在であった時期。ソウルを訪ねるたびに、理解できない韓国語をものともせず、映画館に足を運んでいた。もっとも、アン・ソンギの姿をスクリーンではじめてみたのは、京都で自主上映された「風吹く良き日」だったかもしれない。

アマゾンプライムで韓国映画が結構な数見られることをしり、このところ、韓国映画を続けざまに見ている。「ペパーミント・キャンディー」「南山の部長たち」「黒水仙」「シルミド」「光州5・18」。いずれも、近現代史を題材にした映画。ここ70年の間、海峡を挟んで日韓の民衆が経験したものの違いに目眩を覚えるほどである。すくなくとも、僕らは、国が戦場になり、自らが難民となって右往左往した経験はないし、国軍に銃を向けられるといった経験もしていない。そのような経験をしている人たちを横目で見ながら、あるいは、見て見ぬふりをして、高度成長に邁進してきたのだ。

続けざまに韓国映画を見て、歴史の中で圧殺されてきた民衆の怨嗟の声を伝え、果たされることなのなかった同輩たちの未来を成仏させようという、映画人の強い意志を感じるのだ。「韓国文学の中心にあるもの」は「韓国映画の中心にあるもの」であり、なぜ、韓国映画は骨太なのかという素朴な疑問への答えでもあった。

2022年8月2日火曜日

韓国文学の中心にあるもの

韓国映画はよく観る。映画の中で交わされる会話が時々理解できるのが嬉しい、と言った程度の韓国映画ファンなのだが、その質の高さ、感性の豊かさに彼我の差を感じてしまう。昨年だったか、「ハチドリ」を観て、こんな映画撮れる監督日本にはいないんじゃないかと、その瑞々しさに感銘を受けた。もっとも、その少しあと、「ドライブ・マイ・カー」を観て、前言訂正したのだけれど。それでも、全体のレベルでいえば、韓国映画が先をいっていることはまちがいない。骨格のたしかさが違う。この違いはいったいどこから来るのか謎だったのだが、「韓国文学の中心にあるもの」(斎藤真理子著 イースト・プレス)を読んで腑に落ちた。そう、映画の(当然のことだが、文学にも)社会的役割として、歴史を読み込んでいくことが作り手、受け手双方に自覚されている。

韓国に行けば、「ユギオ」という単語は日常的に耳にすることになる。ユギオ、韓国語で625、1950年6月25日、つまり朝鮮戦争勃発の日。ただ朝鮮戦争について僕らは知らない。知らなさすぎる。ソウルで短期間暮らし(40年前、3ヶ月だけ語学留学していたことがある)、人の会話の中に「ユギオ」という言葉を聴きながら、北に故郷をもつ人の話を聞きながら、その意味するところを、まったく理解していなかったことに、今更ながら愕然としている。朝鮮戦争特需によって太平洋戦争で疲弊していた日本の経済は立ち直り、高度成長への足がかりをつくっていく、といった通りいっぺんの理解しかもっていなかった。この朝鮮戦争の最中にこの世に生まれてきた僕としては、他人事ではないはずなのに、ずっと他人事にしてきたのだ。朝鮮半島で何百万という人たちが右往左往している姿を見ないことにして、高度成長に浮かれていたのだ。

しかも、安倍元首相狙撃事件で浮かび上がってきた統一協会という存在。これもまた、ルーツをたどると、朝鮮戦争が大きな分水嶺となっている。日韓間のグロテスクな闇が露わになった2022年夏。一冊の本よって自分が揺すぶられる経験は最近してなかった。この揺れはしばらく続きそう。この本にとりあげられていた「こびとが打ち上げた小さなボール」(チョ・セヒ著 斎藤真理子訳 河出書房新社)を読みはじめた。1978年の出版ということは、僕がはじめて韓国に足を踏み入れた頃に書かれた本だ。

2022年3月16日水曜日

韓日ダンスフェスティバル1995

韓日ダンスフェスティバル1995のDVDが回ってきた。
1995年、つまり27年前の映像。
室野井洋子さん、森(竹平)陽子さん、ふたりとも美しい。
楽屋でカメラに収まっている松井くん、榎田くんのハンサムぶりに驚愕。
え、こんなに男前だったっけ。

近々、等持院稽古場で上映会やります。

↓  当時の文章が出てきたので蔵出ししておきます。


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あざみ野通信 071 1995.11.13
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 韓国公演のための稽古をやっている最中に、何度か稽古場に足を踏み入れたことがある。なんとも形容しがたい空間がそこにあった。舞踏の室野井洋子さんと日舞の森陽子さんが一緒に踊る。こういう組み合わせは稽古場以外では考えられない。ダン先生曰く、室野井さんの踊りは、客体を消し、内観的身体だけを動かすもの、一方の森さんは逆に内観的身体を消し、客体だけを動かしていく踊りだと。僕が最初に稽古場で感じた、この形容しがたい空間はソウルでも出現した。そういう意味では、この公演は大成功と呼べるのではないか。踊りというものを「自己表現」として扱っている公演者が多かった中、稽古場組の出し物は異質だったと思う。「感応を用いた空間芸術」とでも呼ぶべきものだ。人は、その空間に形成される空気を感じることによってのみ、それを味わうことができる。

 室野井さんに「表現する自分というものを意識していますか」と訊いてみた。「昔は、あったかもしれないけれど、今はない。料理をつくるのと同じ感覚で踊っています。下拵えをして、それを横に置いて、次の作業に移り、といった感じです」なかなか説得力のある答えであった。ソウルでの公演を見ているとき、「室野井さんはプロだなあ」と、ふと思った。なにをもってしてプロというのか、そこのところははっきり意識しなかったが、あとで考えると、舞台の上で何が起ころうと、すべて自分一人で背負ってやるという心意気、覚悟、そんなものを室野井さんの姿から感じたらしい。かといって、気負いとは違う種類のものだ。

(1995/11/1記)

2019年9月26日木曜日

キム・ジヨン

テレビをみないので「嫌韓」番組のことはしらない。ただ本屋に「嫌韓本」が並んでいることは知っているし、そのような本屋からは自然足が遠のく。ツイッターをやっていて面白いなと思うのは、たかだか100人しかフォローしてないのに、その時々のトレンドが虫眼鏡で拡大されるように画面に現れてくるから、へぇー、韓国からの観光客が減ってるんだ、くらいの情報はちゃんと僕の耳にも届いてくる。そんなときほど、韓国に行ってみなきゃと、天邪鬼のぼくは思ってしまうのだけれど、残念ながら予定が立たない。

82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著)を読んでみようと思ったのは、この本の翻訳者である斎藤真理子さんのインタビュー記事「女が勉強してどうなるのか」の時代から『キム・ジヨン』までをネットで見かけたからだ。どういうルートでこの記事にたどりついたかまでは覚えていないのだけれど、この記事を読んだあと、「読んでおくべき本のリスト」にキム・ジヨンは付け加えられた。いつものように図書館にリクエストしてみたら、なんと予約待200件。所蔵冊数も多いから数ヶ月待ちというところか。こうなると俄然買ってでも読むというモードに入ってしまい、本屋に行く機会を待っていた。

一番近所にある大きな本屋さんというと、立命館の学生生協。大学のキャンパスに足を踏み入れることはあまりないのだけれど、街中に行く予定もないので、とりあえずチェックしてみることにした。しかし、キム・ジヨンはみつけられず。その日の夜、仕事から帰ってきて着替えを済ませた連れ合いが、めずらしく「この本読んでみる?」と一冊の本を目の前に差し出してきた。思わず声を上げてしまった。なんと、パソコンの画面で見たことのある顔のない女性の上半身の絵を表紙に使った本がそこにあった。キム・ジヨンである。半年近く前に予約しておいた本が届いたという連絡が図書館からあったので何日か前に取りに行き、もう読み終えたという。

さて、僕などフェミニズムに理解のある男を装っていたとしても、最後に出てくる精神科医レベルなんだろうな、と自戒を込めてコメントしておく。この問題、「性と文化の革命」における父権的制度ともつながっているので、稿を改めて考えてみることにする。

2017年11月7日火曜日

留守

五日間留守にしていただけなのに埃が溜まっている
まず廊下から掃きはじめる
箒で掃いて、そのあともう一度掃除機をかける
稽古室に掃除機をかけ、その次に真ん中の広い部屋を掃きはじめる
障子の桟に埃が溜まっていたので、ハタキをかけ、さらに掃除機で吸いとる
台所と書斎を掃除し終わったら、もうお昼になっていた
全館一度に掃除するなんて、ひさしぶりのことだ
掃除すると随分部屋が広くなる

*****

四泊五日の韓国旅行
たくさん食べて、たくさん歩いて、たくさん紅葉を観た
四泊別々のところに泊まるなんて、僕の旅パターンではないけれど、その分濃厚だった
ずっと韓国語にさらされていたので、ちょっとだけ昔の記憶が蘇ってきたが
もともとたいしたことないので、やはり、たいしたことなく終わってしまった

ずっとお坊さんと一緒だった
インチョン空港まで出迎えてもらい、
最後はお坊さんの秘書という方にプサン空港まで送ってもらった
お寺をめぐり、何人ものお坊さんとも会ったが、
結局、自分が仏教の人ではないということを確認しに行ったようなものだ
やっぱり僕は整体の人です








2017年10月28日土曜日

韓国行

来月、韓国に行くことにした
先月お坊さん連れで訪ねてきてくれた、ソウル在住の若い友人にお世話をかけることになる
ソウル〜智異山〜釜山を巡る予定
ご近所の木田さんも同行することになった
はじめての関空、はじめてのLCC、座席指定にも追加料金がかかるんだ
よって、どの席に座れるか、当日、空港にいってみないとわからない

何年ぶりの韓国になるのか?
一番最近で2004年、すでに13年経っている
この時は、ヨーロッパ往復することで溜まったマイレージを使った一泊二日のソウル一人旅

その前はというと1997年、なんと20年前
この時は、山口での合同稽古会を終えたあと下関に移動
そこから関釜フェリーで釜山に渡った
同行者は松井さん
慶州、束草と東海岸を北上し、雪岳山を訪ね、最後はソウルに出て、
そこから東京に飛行機で帰ってきた
合同稽古会で疲労困憊し、長距離バスでまた疲労困憊し、体調を崩した中での道中
松井さんひとりソウルに置き去りにしたんだった

韓国に一番頻繁に行ったのは80年代
数えてみたら10回
大半は、FWCの研修旅行の引率で、毎回一週間から10日の韓国滞在
これに延世大学語学堂への語学留学を足せば、都合半年以上韓国内で過ごしたことになる
僕の人生の中で、中断したものの筆頭が韓国語学習といってもよいくらい

さて今回はどのような旅になるのか

2017年9月24日日曜日

婆子焼庵

韓国・智異山からのお坊さん2名を伴って、ソウル駐在6年となるAさん来宅。6、7年ぶりの再会となる。近所のキダさんのお店で肉なし(お魚はo.k.とのことだったので、魚あり)イタリアン。ヘチマのスープなんてはじめていただいたが秀逸。ここ一月、食欲のない状態が続いていたのに、美味しくいただけた。いっそ、「精進イタリアン」をはじめればよいのに。Aさんに読ませようと探し出してきた「韓国への旅」を自分で読み直しているうちに、三年前に訪ねたきりになっている「宝慶寺」のことを思い出し、そのつながりで、スティーブ・ジョブズと交流のあった「乙川弘文」という僧侶の評伝にたどり着いた。その評伝のなかで「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という公案について、宝慶寺のご住職が語っている。「(弘文さんは)願って地獄に落ちたんだ」というご住職の言葉は大仰に聞こえるが、出家者にとって大問題であることは理解できる。僕など、もう一度地獄に落ちてやろうかしらとおもうのだが、この点、整体は道教系なのか。さらにそこから「宿なし興道」と呼ばれた名僧の名前が出てきたので、「沢木興道聞き書き」を取り寄せて読み始めたら止まらない。これを縁に智異山に紅葉観に行こうかなどと考えはじめている。

2017年9月17日日曜日

韓国語

大井町稽古場に来ていた若い友人がいる
ここ何年か、ソウル駐在で仕事をしているとのこと
夏の終わり、暇なので、二泊三日でソウルに行こうかと連絡を取ってみた
すると、9月に若いお坊さん二人の案内のため京都来る予定にしているとのこと
じゃあ、僕のソウル行は延期して、京都で会うときに相談乗ってもらおうという話になった
へぇー、お坊さんか
30年前、韓国の山寺を訪ねたことを思い出し、その時の旅日記を発掘したので、
「蔵出」と称して、このブログに持ってくることにした  → 韓国への旅1986
よく一人で動き回り、さらに案内までしている
それくらいの韓国語力はあったわけだが、30年使ってないと、もうだめだな〜

ちなみに、この旅日記に出てくるT和尚は永平寺を経て、今は福井の山奥にある修行道場の住職をされている。Rさんは、兵庫県北のお寺の住職となったが、何年か前に遷化されたという便りをきいた。Yさんは、アメリカ留学等を経て、いまは某大学で教鞭をとっている。嗚呼30年。

2017年7月5日水曜日

追悼 室野井洋子

7月3日、室野井洋子さん逝去。
室野井さんで最初に思い出すのは、1995年、稽古場総出でソウルで開催された「韓日ダンスフェスティバル」に出かけたことだ。当時の日誌を引っ張り出してきて下に再掲する。固有名詞いっぱい出てくるけれど、そのまま載せてしまいます。

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韓国公演日誌  -  韓日ダンスフェスティバル 1995

【10月23日】
5時 起床。6時20分 榎田君が迎えに来てくれる。シビックの背には稽古場の戸板がくくりつけられている。渋滞には全くひっかからず成田着8時。市内で時間をつぶし、9時成田空港到着。10時半 ユナイテッド航空の窓口で手続き開始。予想通り、戸板・毛氈の大物、重い粘土の手続きに手間取る。11時半、超過料金なしで手続き完了。12時50分 ユナイティッド航空で成田発。15時15分 ソウル金浦空港着。17時 受け入れ側の用意してくれた車で、宿泊先のコグン(古宮)ホテルへ。18時 ホテル近くの、韓式食堂で日本側公演者・スタッフ、韓国側スタッフで夕食会。20時20分 地下鉄誠信女大入口で十年来の友人である李哲旭氏と落ち合う。在仏20年の老シェフ(元韓国空軍パイロット)の経営する小さなフランス料理店で会食。ホテル帰着22時半。

【10月24日】
10時半 ホテル発。地下鉄、恵化駅のそばにある会場の文芸会館へ。ホテルから徒歩で15分。打ち合わせ開始。13時30分 初日は、打ち合わせと場当たりだけの予定が、突然、通しのリハーサルに変更される。全員、消耗感に打ちひしがれる。レンガづくりの空間がすべてを冲にしてしまう。15時 李兄妹と合流。学生街の小さな料理店で昼食。16時 森・室野井は会場に戻り稽古、新井・榎田・角南はいったんホテルに戻った後、松井君を迎えにプラザホテルへ向かうことにする。18時 松井くんと合流。南大門市場へ。20時 恵化へ戻り夕食。李兄妹と合流するが、消耗感がひどく、翌日、公演会場で再度会うことにし、ホテルに戻る

【10月25日】公演当日
10時 松井君と2人で朝食。10時半 文芸会館前で李文昌先生と会う。氏の事務所に行く。11時 文芸会館で準備、リハーサル。前日とは打って変わり、メリハリが出た。これなら本番も大丈夫。16時半 午後の部公演。やや固い印象はあるが上出来。日本側の最初の公演者ということで、森・室野井は、テレビ各局の取材を受ける。19時半 夜の部公演。午後の部より、透明感あり。21時半 公演終了後、片づけ。22時 角南以外は初日出演者の打ち上げへ、角南は李哲旭氏に見つけてもらった稽古場応援団(小須田・橋・早川他)との打ち上げ会場へ。23時半 出演者組到着。24時 ホテルへ戻り、打ち上げ2次会 就寝4時。

【10月26日】
12時 文芸会館から荷物の搬出。李哲旭氏が頼んでくれていたはずのトラックが到着せず、流しのトラックに頼み込み、荷物を空港まで運ぶ。手続きは問題なし。17時 ホテル着。19時半 文芸会館で夜の部の公演をみる。

【10月27日】
9時 ホテル発。東大門市場へ。12時 語学研究院に河正子女史を訪ねる。歳とってないことに驚く。肩の力が以前より抜けて暖かみが出てきている。おそるべし、孫の力。14時 景福宮で李哲旭氏が森陽子さんの写真を撮る。ミンピ暗殺をテーマにしたゲリラ公演を覗く。15時半 松井・森・角南は明洞へ。ロッテ百貨店免税店。ロッテホテルのスカイカフェテリアで一服。19時 文芸会館に戻り、最終日の公演を観、シンポジウム参加。土方巽夫人である元藤氏の講演。22時 公演終了。新村で打ち上げ。午前2時にお開き ホテル着3時。就寝4時。

【10月28日】
9時 起床。午前便で帰る森さんを見送る。11時 室野井・松井・角南の3人で明洞へ。全州ピビンパの店で昼食。庶民的な店だが、学生食堂的なところでばかり食べていたから嬉しい。ユッケ、パチョン(お好み焼き)、焼肉、石鍋ピビンパ。14時 リムジンバスで空港へ。17時 金浦空港発。成田着、 19時半。榎田君が出迎えてくれる。高速が渋滞してるとのことなので夕食をとったのち帰途につく。あざみ野着 24時ちょうど。

(初出 あざみ野通信1995.11)

1986年5月30日金曜日

【蔵出し】韓国への旅 1986.5

<白雲山上蓮台へ> 

一旦東京に移ってしまうと、T和尚との約束を何時果たせることになるか分からないので、引越荷物をバタバタと一週間でまとめ、ソウルに向け旅立った。これまで、学生を連れて韓国を旅したことは何度もあるのだが、今回は、京都にある小さな禅寺のお坊さん達と一緒に韓国仏教の名刹や修行道場を廻ることになっている。

KE721 便で大阪空港を出発。金浦国際空港到着後、定宿の雲堂旅館に電話したのだが、満員で部屋はないという。夜までにはまだ時間があるので、とりあえず、市内までエアポ-トバスで行き、光化門の近くにある知人の仕事場に電話。突然のことにさすがに驚いたらしいが、構わないというので仕事時間中ではあったがお邪魔する。H女史は言語教育研究院という語学学校の韓国語セクション責任者で、ソウル在住の外国人(日本人も外国人です。念のため)にサイレントウェイという方式で韓国語を教えると同時に、教師を指導養成する立場にもある40代後半の女性。いつもながらエネルギッシュに仕事をこなしている。再会を喜ぶとともに、共通の友人知人の消息を伝え合う。ここに来ると流れるような綺麗な韓国語を耳にすることができる。教師は皆、年令に関係なく知的でユ-モアに溢れている。しかも、研究熱心。

曹溪宗(禅宗)のお坊さんであるM和尚には、あらかじめT和尚たちと一緒に来るからと連絡しておいたのだけれど、なかなか居場所がつかめない。ソウル市内には居るはずなのだけれど。若い友人に手伝ってもらい、知り合いの仏教書籍の店や、M和尚のお弟子さんのお寺に電話するのだがそこにも居ない。とにかく、旅館の電話番号を教え連絡を待つことにする。連絡が入ったのは翌晩。いつもながら便利とは言い難いところに部屋を借りている。とにかく、地図を頼りに市内バスに乗り、打ち合せにでかけることにする。教えてもらったバス停の名前だけを手掛りに夜のソウルを動くのは難儀で、結局、バス停をひとつ乗り過ごし、また戻るということをしながら、なんとか目的地に辿り着くことができた。相談の結果、僕が単独でプサンまでT和尚一行を迎えに行き、その足で、慶尚南道にあるM和尚のお寺、白雲山上蓮台に案内することで話がまとまった。

ソウルからプサンまで高速バスで移動。アジア大会とオリンピックを控え、ソウルの地下鉄も路線があっというまに増え、漢江の南にある高速バスタ-ミナルへも地下鉄でに行けるようになった。韓国の高速バス網は驚くばかりで、ソウル-プサン間 450キロを5時間半で結び、しかも、朝6時から夜6時まで5分間隔で出ている。そして低料金。すざまじい数の人間が毎日動いている訳だ。途中何箇所かには、緊急時(理論上、韓国は今でも戦争状態にあります)に滑走路として使えるよう中央分離帯のない直線路も設けられている。夕刻6時プサン到着。宿は愛隣ユ-スホステルと決め、早速、西光寺に電話してみる。あちらも準備万端整っているらしい。夜のプサンへ。魚市場近くの食堂へ夕食に入り刺身定食を頼むと、小骨が残っている魚の切身が皿に山と載ったものが出てきた。夕食後、安聖基主演の映画を観る。

プサン金海空港に僧衣にバックパックとスニ-カ-姿で現れたT和尚を出迎える。R和尚も一緒。Rさんは日本の外に出るのが文字通り初めて。でも、その割りにはリラックスしている。これから三人で白雲山上蓮台禅院を訪ねる。咸陽行直行バスは晋州までは高速道、その先は田舎道を走って行く。咸陽まで、途中の休憩を入れて3時間半。乗客にはお年寄りや子供連れも多く幹線のバス路線と違い生活の匂いが溢れている。咸陽から白雲山の麓の村まではタクシ-を使い、そこからは徒歩。麓で雑貨屋をやっている人がお寺に連絡の電話を入れてくれた。途中まで誰かを迎えによこしてくれるとのこと。実にのどかな田園風景。韓国の田舎にくると、自分が育った昔を思い出す。畑あり、田あり、牛がいて犬も散歩している。畑の間の小径を山に向かって抜けて行く。晩秋の紅葉も見事だったが5月の新緑も美しい。小川を石づたいに渡り、ますます細く、急勾配になっていく径を登っていく。半分くらい登った頃だろうか、上の方から人が下りてくる。M和尚の弟子のSさん、それに、お寺に住んでいるらしい若者。我々から無理矢理荷物を取り上げて運んでくれる。最後の胸突八丁の坂を登りきると視界がさっと開ける。白雲山上蓮台に到着。汗びっしょりの体も、まるで毒素が抜けていったようで快い。時間はすでに夕刻。食事の支度か、それとも、オンドル用に燃している薪か、煙突から白い煙が上がっている。

白雲山という1200メ-トル程の高さの山の中腹にあるこの小さな禅院は、随分長い間放置されていたものをM和尚が再興したものだとという。再興の途中と言ったほうが正確かもしれない。急な斜面に簡素な建物が三棟だけ建っている。在家の人も何人か住み込んでいて、食事をはじめ、日常生活の世話をしてくれている。本尊の置いてある棟が本堂であり、座禅堂であり、また、食堂でもある。食事はオンドルの床の上にステンレスの食器を並べていただく。勿論、菜食。山菜は新鮮で豊富。それにご飯がとにかく美味しい。山の清水-「薬水」と呼ばれている-を使って炊いているせいだろうか。韓国だけあってキムチ(但し、ニンニク抜き)も欠かせない。
コツッコツッという歯切れのよい木魚の音が山に谷に木霊する。時刻は早朝4時。寺の一日が始まる。セ-タ-を着込み、懐中電灯を手に外に出る。息は白い。夜明け前の星が空いっぱいに輝いてる。暗闇のなか、三三五五人々が本堂に集まってくる。M和尚が現われたところで朝課開始。三帰回文に続き、般若心経を詠み始める。同じ般若心経なのだが韓国語読みでやると随分違ったものになる。節まわしも独特。石牛さんの声は朗朗としている。でも、無虚和尚がやると、なんだかコミカルに聴こえてしまう。小さな木魚を左手に、ばちを右手に持ち、礼拝とともにポクッ、ポクッ、ポクッ、.... と鳴らしていくのも面白い。お経の詠み方にしても日本のお寺(といってもT和尚の寺しか知らないのだが)で聴く丁寧、正確無比のお経に比べると、いかにも素朴で骨太なかんじ。お経が終わると座禅。座布団の上にめいめい座る。暝目してもしなくてもいいらしい。今度は、竹を割った扇のようなものを手で打ち、バシッと音をたてて、開始終了の合図とする。朝課が終わる頃には朝もしらんでくる。朝食までは休憩。部屋に戻り、また布団に潜り込む。

午前中、お寺から少し離れたところにある土窟とよばれている暝想室に行ってみる。いわば独り篭もって「摂心」をやるような小さな庵。見晴らしも抜群によい。T和尚、Rさんはかわるがわる部屋の中央に坐り、坐り具合を試している。午後、皆で白雲山に登ることになる。木立の間の細い道を登って行く。傾斜は麓から上蓮台までの道よりずっと険しい。しばらく行くと平坦な草地に出たのでここで休憩。もう既に汗びっしょり。頂上はまだ遠い。また少し登ると、今度は、見晴らしのきく大きな岩のところに出る。そして、この岩からほんのちょっと離れた処にもう一つの岩が見える。座禅石、つまり、その上に坐って座禅をする岩だという。さっそく、Rさんはその岩に坐り座禅のポ-ズ。Rさんの後に下界がパノラマとなって広がる。

M和尚とT和尚は、因縁のライバルのようなところがある。実際、お互いを、評価しながら、批判的に眺め、張り合っているような面があり、双方をよく知っている僕としては、こうして二人のお坊さんと一緒に旅すること自体とても興味深い。

<海印寺へ> 
白雲山を下り、海印寺へ向かう。まずハミャンまで戻り、そこからバスを乗り継いで行く。我々三人にM和尚とSさんが加わり総勢五名。海印寺は韓国三大古刹の一つに数えられている由緒あるお寺で、特に八万大蔵経で有名である。欝蒼とした森のなかにあり、大小の寺院、僧堂、それに僧侶養成のための大学もある。僕にとっては3回目の訪問。 僕が初めて韓国に来るきっかけとなった76年夏のFIWC (フレンズ国際) ワ-クキャンプに参加した際、日帰りのバス旅行で訪れ、また、84年冬には、出会った次の日に無虚和尚に連れられて来たことがある。真海和尚によると、この海印寺は永平寺の雰囲気によく似ているとのこと。海印寺ではM和尚の師匠にあたるI禅師の知足庵にお世話になる。我々が着いた時には、日本を遅れて出発したYさんが既に到着していた。Yさんは、インド哲学、実質は仏教学を専攻している大学院生。授業の関係でT和尚とは一緒に出発できず、海印寺で合流する予定にしていた。プサンからちゃんと一人でここまで辿り着いたようだ。

I禅師は「宗正」という海印寺で一番高い地位にある方で、永平寺でいえば「管主」に相当する地位にいることになる。禅師は永平寺を訪れたこともあるそうで、日本仏教の事情にも詳しい。日本ではあまり知られていない韓国仏教の歴史や現状を親切に教えていただいた。出家仏教が中心の韓国仏教者にとって僧侶が妻帯する日本仏教の現状はある種の堕落に映るらしい。それでも、仏教研究学における日本の学者が果たしている役割は大きいそうで、日本で発行された仏教研究書がI禅師の書架に所狭しと詰まっている。

そもそもT和尚が韓国、特にこの海印寺を訪ねてみたいと考えたのには理由がある。曹洞宗の開祖である道元禅師から数えて六代目にあたる肥後の大智禅師というお坊さんがいた。そのお坊さんは、修行のため中国に渡り、その帰国の途中、船が難破してしまい朝鮮半島に漂着する。結局、朝鮮のある僧院で修行を続けることになるのだが、在高麗時に詠んだ漢詩数篇が残っているだけで、はたしてどのお寺で修行をしていたか判らないでいた。ところが、そのお寺が海印寺であり、また、詩にでてくる高僧は、現在、海印寺白蓮庵に居住されるL老師のようなお坊さんに違いないという説が十年程前、日本のある仏教学者によって言われるようになった。

T和尚のお寺で在日韓国人の若者を引き受けたり、韓国からM和尚が訪れてきたり、T和尚の在家の弟子が無虚和尚の許で暫く修行することがあったり、様々な縁が絡み合い、T和尚自身も韓国を訪れる気になったらしい。そこで、海印寺に来たからには、是非、L老師にお会いしたいと、I禅師を通して面会を願い出た。

L老師というのはめったに人に会わないことで知られており、国の大統領が面会を求めても、会いたくない時には会わないそうである。逆に、国の大臣を呼びつけることさへあるという話だ。伝説じみた人であることは間違いない。案の定、T和尚の面会希望は断られる。しかし、T和尚も情熱の人、三千拝(過去・現在・未来の計三千の仏の名前を一つ一つ詠みながら五体投地を繰り返す修行)をすれば面会を許されるでしょうかと食い下がる。それでも否定的な返事しか戻ってこないので、ついには、白蓮庵に押しかけるという非常手段をとることになった。総勢6名で白蓮庵に向かう。知足庵から一度谷を降り、そこから、再び山を登ったところにある。まず、M和尚が白蓮庵の若いお坊さんに声をかけ、面会を申し入れる。「老師はお会い致しません」との答えが返る。これを何度か繰り返し、結局、庵の中の一室にに通される。皆の緊張が更に高まる。特に普段はのんびりしている無虚和尚が何時になくピリピリしているのが伝わってくる。お茶が運ばれ、果物が運ばれる。「いつまでお待ちになっても老師はお会いになれません」と取次役のお坊さんは答える。「そこをなんとか」とM和尚は食い下がるのだが、とりつくしまもない。一時間たち二時間近く待っただろうか。結局、諦め、白蓮庵を辞することになる。帰り道、「お会いできなくて良かったのかも知れない」とT和尚。これで良かった、という思いが僕の中にもあった。こうしてT和尚が念願の海印寺を訪れただけで十分、この上、L老師に会ってしまえば、逆に、次に繋がっていかない、そんな気がしていた。僕にとっては、T和尚の仏教者としての真摯さ、M和尚の献身的とさえいえる態度に接することができただけで有難いと思った。

知足庵に二泊した後、僕は、T和尚一行と別れ、大邸経由でソウルへ戻り、帰国の途につくことになる。こうして、僕の十ウン回目の韓国旅行は終わることになるのだが、それまで学生を引率してあちこち回ったのとは一味違う旅となったことはいうまでもない。T和尚一行は、その後、慶州・釜山を回り、フェリ-で日本に無事帰って来たそうである。僕は、ソウルから東京へ直行し、その翌日から整体協会で働き始めることになる。つまり、東京暮らしの第一歩を踏み出した。1986年の5月28日のことである。

宇奈根通信 #10 1987.4.20  + あざみ野通信 #13 1987.7.5