2022年8月2日火曜日

韓国文学の中心にあるもの

韓国映画はよく観る。映画の中で交わされる会話が時々理解できるのが嬉しい、と言った程度の韓国映画ファンなのだが、その質の高さ、感性の豊かさに彼我の差を感じてしまう。昨年だったか、「ハチドリ」を観て、こんな映画撮れる監督日本にはいないんじゃないかと、その瑞々しさに感銘を受けた。もっとも、その少しあと、「ドライブ・マイ・カー」を観て、前言訂正したのだけれど。それでも、全体のレベルでいえば、韓国映画が先をいっていることはまちがいない。骨格のたしかさが違う。この違いはいったいどこから来るのか謎だったのだが、「韓国文学の中心にあるもの」(斎藤真理子著 イースト・プレス)を読んで腑に落ちた。そう、映画の(当然のことだが、文学にも)社会的役割として、歴史を読み込んでいくことが作り手、受け手双方に自覚されている。

韓国に行けば、「ユギオ」という単語は日常的に耳にすることになる。ユギオ、韓国語で625、1950年6月25日、つまり朝鮮戦争勃発の日。ただ朝鮮戦争について僕らは知らない。知らなさすぎる。ソウルで短期間暮らし(40年前、3ヶ月だけ語学留学していたことがある)、人の会話の中に「ユギオ」という言葉を聴きながら、北に故郷をもつ人の話を聞きながら、その意味するところを、まったく理解していなかったことに、今更ながら愕然としている。朝鮮戦争特需によって太平洋戦争で疲弊していた日本の経済は立ち直り、高度成長への足がかりをつくっていく、といった通りいっぺんの理解しかもっていなかった。この朝鮮戦争の最中にこの世に生まれてきた僕としては、他人事ではないはずなのに、ずっと他人事にしてきたのだ。朝鮮半島で何百万という人たちが右往左往している姿を見ないことにして、高度成長に浮かれていたのだ。

しかも、安倍元首相狙撃事件で浮かび上がってきた統一協会という存在。これもまた、ルーツをたどると、朝鮮戦争が大きな分水嶺となっている。日韓間のグロテスクな闇が露わになった2022年夏。一冊の本よって自分が揺すぶられる経験は最近してなかった。この揺れはしばらく続きそう。この本にとりあげられていた「こびとが打ち上げた小さなボール」(チョ・セヒ著 斎藤真理子訳 河出書房新社)を読みはじめた。1978年の出版ということは、僕がはじめて韓国に足を踏み入れた頃に書かれた本だ。