で、アン・ソンギ。韓国を代表する俳優。てっきり年上だと思っていたら、1952年生まれ。まったくの同世代ではないか。僕にとって、1976〜86の十年間が、一番、韓国が近しい存在であった時期。ソウルを訪ねるたびに、理解できない韓国語をものともせず、映画館に足を運んでいた。もっとも、アン・ソンギの姿をスクリーンではじめてみたのは、京都で自主上映された「風吹く良き日」だったかもしれない。
アマゾンプライムで韓国映画が結構な数見られることをしり、このところ、韓国映画を続けざまに見ている。「ペパーミント・キャンディー」「南山の部長たち」「黒水仙」「シルミド」「光州5・18」。いずれも、近現代史を題材にした映画。ここ70年の間、海峡を挟んで日韓の民衆が経験したものの違いに目眩を覚えるほどである。すくなくとも、僕らは、国が戦場になり、自らが難民となって右往左往した経験はないし、国軍に銃を向けられるといった経験もしていない。そのような経験をしている人たちを横目で見ながら、あるいは、見て見ぬふりをして、高度成長に邁進してきたのだ。
続けざまに韓国映画を見て、歴史の中で圧殺されてきた民衆の怨嗟の声を伝え、果たされることなのなかった同輩たちの未来を成仏させようという、映画人の強い意志を感じるのだ。「韓国文学の中心にあるもの」は「韓国映画の中心にあるもの」であり、なぜ、韓国映画は骨太なのかという素朴な疑問への答えでもあった。