丸2日外に出てなかったので、妻と二人、近所のイズミヤまで散歩することにした。妻が完全着物生活に入って半月、ずいぶん慣れてきた様子だが、歩き方が下手だ。手を繋いで歩きながら、膝をゆるめて、膝頭をちいさくして、腕と胴体を切り離すように、とアドバイスしていくうちに、下駄の音がどんどん小さくなり、ひょこひょこ跳び歩く感じが消えていく。内股同士が擦れる感じになって、お尻も小さくなってくるよねと本人も納得。そうか、池田くんの「からだ育て研究所京都」に倣って、飯の種に自前の研究所を立ち上げればいいんだ。即座に「内観コーチング研究所」という名前が降りてきた。メニューは手を繋いで先生とお散歩。30分3000円でどうだ。美女と手を繋いで散歩する。なんという役得。いやそれとも、介護を受けている老人に見られるのが関の山なのか。あと3日早く思いついていれば、「角南、身体教育研究所を離脱、新研究所立ち上げ!」と東スポの見出しに負けない素晴らしいエイプリルフールネタになったのに、と悔しがる。
2割引きで買ってきたアップルパイを頬張り、おい、皮ばっかりでリンゴが少ないぞと悪態をつきながら、来年のエイプリフール用にささっと書いた前段の文章を読み返してみた。これでは、読んだ人がどこに食いついてくるか予想できる只の惚気文でしかない。しかも、重大な欠陥があることを発見。美女だけを相手にできるわけがない。来る人は拒まずだから、どんな年齢、性別、性指向に対応する覚悟がなければ、このプロジェクトをはじめるわけにはいかない。え、覚悟? そう、男同士で手をつないで外を歩くとなると覚悟がいる。美女だけを思い浮かべ、このことに気づかなかった僕はアホである。というか、偏った性意識がすでに露呈している。そう考えていくと、逆に稽古会という場の特異性が前景化してくる。稽古会で組む相手は男女いろいろ。というか、あまり相手が男性か女性か意識したことがない。稽古するとは触れることでもあるだが、稽古をしている限り、自分の中で性ということが意識されることがない。
ところが、稽古場から一歩外に出れば、人の目を気にする、あるいは縛られている、つまり言い訳をしている私が出現するのだ。それなら、自動車教習中の車が「教習中」という看板を掲げて街を走っているように、「稽古中」というタスキをかけて街中を散歩すればよいかというと、これはもっと恥ずかしいだろう。稽古会で追究しているのは、どうすれば「カタをもってひとにふれられるか」ということだ。カタに入るとは、私を極小化していくということで、当然、性的指向といったものも極小化されていく。稽古場という様式もまたひとつのカタである。ふれるという行為はもともと性というものと結びつけられ易いものだ。そのような眼差しで見られると、そのような身体が浮き出てくる。そういう構造にある。逆にいうと、性的な眼差しから離脱する、自由になるヒントもきっと「カタ」のなかにあるに違いない。と、ここまで書いて、手を繋いで外を歩く覚悟が固まってきた。さあ来い。いや来ないかも。どっちにしたって、オレたちはマイノリティーではないか。
もし「内観コーチング研究所」を立ち上げようという方いらっしゃれば、事前にご連絡ください。顧問料を申し受けます。