2022年5月22日日曜日

定型

 お遍路に定型はあるのかというと、おそらくない。遍路用品として挙げられているのは、金剛杖、白衣、菅笠、教本、輪袈裟、数珠、納経帳と続く(四国遍路ひとり歩き同行二人解説編 へんろみち保存協力会編)。このうち、しょっぱな僕が買い求めたのは、白衣、教本、輪袈裟、納経帳くらい。「南無遍照金剛同行二人」と書かれた白衣を着れば、これだけでお遍路さんに変身してしまう。これに菅笠をかぶり、金剛杖を手にすれば、変身は完璧だ。僕の場合、まだ白衣だけで、頭にはキャップを被り、杖は自分で用意したものだから、お遍路度は低い。稽古着姿だから、修行者に見られている可能性はあるかもしれない。実際歩いていると、日差しよけ、雨よけには、菅笠はあった方がいいのかなとも思う。

 この定型の姿は、そう昔からあったわけではない。四国遍路は、もともと宗教者が修行として歩いていたものが、江戸期ぐらいに一般化し、明治大正期くらいに、よりツーリズム的な要素が流入してくる。この現在の定型を作ったのは、昭和初期の「遍路同行会」という組織らしいことに行きつく。このあたりは『四国遍路』(森正人 中公新書 2014)からの受け売り。うーん、さもありなんというか、大正、昭和初期って、そういう精神修養が流行っていた時代だから、その流れの中に、四国遍路も組み入れられたということだ。伝統と呼ばれてるものって、案外、百年かそこらのものが多いのは、いつものことだ。

 ただ、白衣=遍路という記号化の働きは強力だ。個人の属性がすべて捨象されて、遍路という修行者に変身してしまう。そんな移動する人間を日常の生活の風景の中に迎えいれている四国のひとたちは、それだけで偉いと思う。遍路姿で歩いていると、通学途中の小中学生とすれ違い、トラックで仕事する人に追い抜かれ、自分ちの庭で花の世話をしているおばちゃんと挨拶を交わす。この見る/見られる関係における眼差しの交差は柔らかい。

 さて、遍路見習いも三回目。鶴林寺、太龍寺という二つの札所をめぐる遍路ころがしという難所ルートで、きっちり「ころがされ」てしまいました。前回の焼山寺道よりは楽と感じたものの、山を降りてきてから足の裏をみると悲惨な状態になっていました。結局、今回は22番札所平等寺で打ち止め。たしかに、遍路ころがしと呼ばれているところは、アップダウンが大きくてつらいしきつい。でも、本当の遍路ころがしは、舗装道路を歩くことだろう。ということは、四国遍路道の9割が遍路ころがしということになる。

【鶴林寺に登る途中から太龍寺山を望む。この写真に写っている川まで降り、そこから太龍寺に向かってひたすら登っていく