2020年11月17日火曜日

Seitai as an Art of Living

だっこ」でつかった、「Seitai as an art of living」という表現に何人かから反応があったので補足。 

 面白いもので、日本語で表現するより、いったん英語にしたほうが、ストンと肚に落ちることがある。「生きる技としての整体」よりも「Seitai as an art of living」のほうが表現としてきれい。もっとも、この場合、最初に英語があって、それを翻訳した風がある。つまり、日本語としてこなれていない。おそらく、「技」という単語と「art」という単語のズレに起因しているのだろう。「技」がより緻密さに向かうのに比べ、artの方には、もう少しあそびがある。 

そんなことを考えているところに片桐ユズルさんがやってきたので、しばし翻訳談義。僕が、artという単語の不思議さに気づいたのは、E・フロムの「愛するということ」を読んだときのことだから、1970年代の前半にさかのぼる。原題が「The Art of Loving」と知ってへぇーと思った記憶がある。一方、ユズルさんが翻訳したいと思っているもののひとつに、A・ハクスリーの「The Art of Seeing」という本があって、むかしむかし、「眼科への挑戦-視力は回復する」というタイトルで邦訳出版されたことがあるとのこと。これでは、いかにもハウツー本と思われてしまう。もし、いま付けるとすると「ものの見方」くらいになってしまいそうだが、いささかインパクトに欠ける。やっぱり、カタカナで「アート・オブ・シーイング」かね〜、とユズルさん。

それはともかく、「生きるためには技がいる」といっても、みんなピンとこない。この技というものは、文化の中で伝承されてきたものであるはずなのに、文化なき民となってしまった僕らの世代のところで、その技は途切れてしまった。テクノロジーがartを駆逐した状態。子どもを育てるにも技がいる。ちゃんと死んでいくにも技がいる。日々の暮らしにも技がいる。野口晴哉の著作の中に、あるいは、僕らがやっている稽古の中には、生きるための技=artが溢れているではないか。僕らが身体教育を謳う所以である。

(追記 ワザとアートという二つの単語によって喚起されるイメージの違いって、結局、音韻的なちがいに遡ることになるのではなかろうか 11/24)