311で何が変わったかというと、つまりは「身体」が変わったとしか言いようがない。震災以来、私の中でずっと続いていた賞味期限切れ感、付焼刃感の源はここにあったのではないか。身体そのものが変わってしまった結果、二十年間追い続けてきた「近代的・医療的身体観」からの脱却ーひとつの規範としての「昔の日本人の身体感覚」という方法論もまた、その有効性に揺らぎが生じてしまった。そういうことだったのでないか。身体は世界と呼応する。時代と呼応する。放射能の影響で身体が変わったのではない。放射能の危機がここに在るという世界に転じたことで、身体もまた変わってしまったのだ。そして、新しい身体には新しい方法論が必要となる。明治維新や高度成長によって身体は変わった。パソコンやインターネットの出現によって身体は変わった。きっとその通りだ。しかし、それらとの比較によって震災後の身体は語れない。震災が起るまでは、あと20年これまでの延長線上でこれまでの路線で続けていけば、もう少し違ったものが観えてくるのではないかと進歩史観的に楽観していたところがある。しかし、そうは問屋が卸してくれなかった。まことに有難いことである。