去年の秋から紙の新聞を復活させて読んでいる。 京都新聞には共同通信系の書評欄が毎
週土曜日に掲載されているのだが、 書評欄を開くたびに、もう一週間経ってしまったのか
と、時の速さを嘆かずにはいられない。 僕の読書は90パーセント市立図書館に依存しているのだけれど、新聞の読書欄を参考に予約を取ることが増えた。 書評欄に載るのは、その本が出版されて数ヶ月後のことが多いので、たいがい図書館ですでに購入されている。京都新聞の地元率はとても高く、 書評欄を読んだ僕と同類の人たちとの予約競争になる。とはいえ、緊急に読みたい本というのは、そう多いわけでもない。岡崎公園にある府立図書館ものぞくことがある。ただ遠くて、自転車では行けない、というか行かなくなった。それでも、バス地下鉄を使えば1時間かからない。混んでないし、市立図書館にない専門的な本も置いてあったりするから、もっと頻繁に利用してよいはずなのだが、心理的に遠い。
最近、 本の厚さが増していると思いませんか? 図書館で借りられるのは2週間まで。 他
の人の予約がなければ、 さらに2週間ということになる。 僕が借りたい本に限って厚さが増しているのかもしれないが、2週間で読みきれない本が増えてきたきた気がして仕方がない。そういう時は本屋で買うしかない。 ところが、買った本の方が 「積読」 になってしまうケースが多い。 そう、 図書館から借りてきた本を優先して、 買った本を後回しにしてしまう傾向は間違いなくある。 「数の発明」 (ケイレブ・エヴェレット みすず書房) など2年以上そのままにしているのではないかな。
ひとり出版社をやっている知り合いが何人かいるが、素直にエライと思う。 どうやって
仕事として成り立たせてるんだろうと、 いつも不思議に思うのだが、本作りにかける熱量、書き手と読み手をつなごうとする意欲がすごい。どう考えても、 初版千部くらいの規模で回していると思うのだけれど、 しっかり点数も出している。出版は斜陽産業だと言われてひさしいけれど、働いている人たちはの意気は軒高だ。 古本屋稼業というのも謎の仕事だ。 定価の1割くらいで引き取って半値で売り、 その利鞘で食ってくというビジネスモデルが不思議でならない。本屋に行けばあいかわらず次々と新刊本が並んでいる。 奥付きを見てどれくらいの重版されているのか確認してしまう癖はお世辞にも上品とはいえないけれど、 ついやってしまう。 「百年の孤独」 の文庫版が平積みされていて、 版を重ねているのをみると、この国に暮らす人たちの民度はまだまだ捨てたものではないと思う。 それとも、 僕が立ち回る範囲が偏りすぎていて大きな変化を取り逃しているのか。
このブログに 「x月の読書」として、その月に読んだ本のリストを載せている。ほぼ自分
用の備忘録なのだけれど、 月10冊として年に百冊、 50年で五千冊ほどの本を読んできた勘
定になる。 読んだ端から忘れていくというのが僕の流儀だから、 ただただ活字を食い散らかしてきた、だらしのない消費者のひとりということになる。でも、一冊の本を世に出すために投入されている書き手作り手の労力を省みると、もっともっと本を味わねばと、いまさらながら反省している。