2024年6月21日金曜日

夜学終了ー世界史の中で「整体」を考える

三回に渡って行われたYour夜学「からだを失くした現代人のための身体教育論」無事終了。結局、からだを失くした人は現れずー考えてみれば当然のことで、このタイトルに反応する人は、自分が体を失いつつあることを自覚している人だー普段、等持院稽古場で稽古していながら、顔を合わせたことのない人たちの交流の場になってしまった感はあるけれど、中間地点で集まれたことはとてもよかった。これまでご縁のなかった人たちともお会いできたし、なにより、人前で話す機会を得ることで、自分のやっていることが、大袈裟にいうと「世界史」のなかで、どのようなポジションでいるのかーなんで自分はこんなことをここでやっているんだろうかという素朴な疑問なのだがーを考える機会となった。 

凡人にとって、自分が生きてきた年数分しか歴史を遡ることは難しいようで、僕など齢72にして、1952年から72年分、歴史を遡れるようになった。とはいえ、70年遡ったとしても1880年代、すでに明治の世は始まっている。この間、日本人の身体観はどのように変化していったのか。西洋文明が怒涛の如く流入した明治期、モノが急速に増えはじめた高度成長期。高度成長期を通過してきた僕など、その時期の変化を肌感覚で知っている世代なので、ついつい、そこに焦点を当てて話を進めてしまうのだけれど、よくよく考えてみると、1980年代にはじまった、パソコン、インターネット、スマホの出現といった出来事ーIT革命と呼ばれているのかーは、高度成長期に匹敵する変化をこの社会に与えてきたのかもしれない。

今回、会を進めるにあたり、晴哉先生の著作と並行して何冊かの本を補助線として紹介していった。列挙すると、「はらぺこあおむし」「身の維新」「ケアの倫理」「近代の呪い」といったもの。最終回で紹介した渡辺京二さんは「増補 近代の呪い」(平凡社ライブラリー 2023)の中で、「普遍」という人間中心主義的価値を取り入れることによって世界は西洋文明化されていかざるを得なかったと説き、二回目の会で取り上げた岡野八代さんは、「ケアの倫理」のなかで、西洋の男たちが築き上げてきた「普遍」という価値感に「ケア」ー整体の観点からすると「双」ということになるのかーの倫理でもって楔を入れようとしてきたフェミニズムに焦点を当てている。

まとめの話になったとき、イリイチのコンビビアリティという言葉が出てきたのは自分でも意外だった。いまだに相応しい日本語に出会ってないけど。おまけに、Tools for  Convivialityの訳者は渡辺京二さんだー未読だけどーそして、祭りの話に。なるほど、祭りというのは、西馬音内盆踊にせよ、諏訪神社の御柱祭にせよ、祭りを中心に一年を過ごしている人たちがいて、その人たちは体を失くしてはいない。近くにいる人たちとの丁寧できめ細かな関係性。僕は、この仕事ー機度間の追求としての整体ーを続けていくだろう。この世が放射能で溢れようとマイクロプラスチックで埋め尽くされようと、西洋化文明社会の帰結として、それは受け入れる。ただ、孫たちが生きていく未来を思うと、世界を少しでもマシなものに変えたいと思う。