2024年6月13日木曜日

京都2024夏

どことなく草臥れた感じが抜けない。
こういうときは、水の力を借りるか、大きな岩の近くにでも行った方がよい。
熊野行きを考えたが予定が立たない。
近場でどこかないものかと「磐」で調べてみた。
何ヶ所か出てきたがーそういえば、船岡山だって磐だーピンとこない。
亀岡に出雲大神宮というのがあるらしい。
丹波の国一宮。
円町から電車で30分弱、千代川という駅で降り、そこからバス。
家を出てから一時間半ほどで到着。
参拝客も適度で、混み合ってはいない。
境内は清涼。

参拝を済ませ、帰りは旧道をたどって亀岡駅まで歩くことにした。
六キロほどの距離を歩きながら、この土地が、昔から開けていたことを知る。
そして、オーバーツーリズムによって、今、住んでいる京都という街が疲弊してることに思い至った。

そう、京都という町が草臥れてきている。観光客が悪いとは思わない。むしろ、ぎゅうぎゅう詰めのバスに揺られて寺社仏閣を回っている外国人観光客をみると気の毒でならない。半世紀前なら、海外からの観光客といえば、欧米人が多く、植民地的視線を感じることも多かったが、今は国籍が多様化し、どこか「憧れの国日本」にやってきた感がある。こっちが歳取って、しかも稽古着姿でいるものだから、バスに乗っても、席を譲られることが多い。地元民に配慮して観光しましょうというコンセンサスは、コロナ前よりは浸透している風がある。観光客に対して、基本、僕自身は好意的なスタンスだ。若い頃あちこち歩き回った経験は人生の糧になっているし、観光客の無邪気な顔をみることは、そういやではない。

ただ、オーバーツーリズムによって、京都という町が疲弊してきていることも確かだ。観光客がやってきて、お金を落として町が活気づく。産業として観光を捉えれば、その通りかもしれないが、その「消費」によって、土地の力は奪われている。亀岡の田舎道を歩きながら、そんなふうに思った。