このブログは半ば自分の備忘録として書いているのだが、「稽古覚書」として稽古してきたなかで気づいたこと、覚えていることをメモしていくことにします。
【きまらない】
稽古会がはじまっても、まだやることが決まらない、そんなときがある。毎度ではない。そんなときは、皆の前で話しながら、同時になにをやるかを考えている。それでも決まらないときは、決まらないまま、エイっと、誰かを前に出す。「xxさん出てきてください」と声をかけると、スッと前に出てくる。その僅かな空気の動きが初動となって稽古がはじまる。問題なのは、誰を前に出すか、ということ。大井町稽古場でやっていた頃、スズキくんという、当時まだ学生だった若者がいて、随分、彼には助けられた。空気が動く人と、そうでない人がいるのだ。これで、空気が動かなければ、もう八方づまりである。ただ、土壷にはまりかけたことはあるが、落ちたことはまだない。
【正座】
正座はいまでも苦手である。ひとの話を聞きながら座っている時というのは、すぐ足がしびれてくる。いまでも公開講話2時間はつらい。ところが、話す側に回ると全然平気なのだ。おっ、あいつ痺れてきたな、くらいの余裕を持って眺めている。自分がつらくなってきたら、そこで休憩を入れればいいという余裕のなせる技なのか。
【サピア=ウォーフ仮説】
ユズルさんの傘寿のお祝いのときだったか、稽古場でやっていることを話ししたら、「ダン先生はトランスパーソナルのことをやりはじめたのね」、という反応が返ってきた。トランスパーソナルという言葉の前提になっているものは、もちろん、パーソナルという言葉であって、はじめに「個」ありきということだ。言語によって、その前提となるものが異なることを痛感した。「言語によって世界の切り取り方が異なる」というサピア=ウォーフ仮説というのがあるらしいが、いまでは昔の理論として忘れさられているとのこと。えっ、どこがだめなのと僕など思ってしまうのだが、このあたりの経緯をどなたかご教示いただければありがたい。