2016年4月13日水曜日

たそ彼の妖怪たち

『たそ彼の妖怪たち』(水上勉 幻戯書房 2003)という本を読んでいる。水上勉は13歳から数年間等持院で小僧だった。この本は、同時期小僧をしていた二歳年上の衣斐陽三という少年への追悼として書かれたものである。ただ、等持院の新住民としては、昭和初期のこの地域についての記述により興味をそそられてしまうのは、いたしかたのないところ。

日夏耿之介、金子光晴らが震災後、関東から避難してきて滞在していたという伝聞が述べられ(p.100-101)、更に、「私が入った頃は境内に東亜キネマ撮影所があったので、間借りする映画人が多かった」(p.116)とある。このことは、立命館大学のマキノプロジェクトというサイトで知った。記述はさらに続き、「尾上松之介や河部五郎や嵐寛寿郎が撮影に来ない日がないほどで、境内での撮影があると小僧も借り出された。...石田民三などは、門前の鳥原というタバコ屋の二階からどてら姿で来て、小僧に銀紙を貼った板をもたせてライトがわりに俳優や女優の顔を照らさせたものである。」石田民三という映画監督のことはしらなかったが、鳥原というお店はいまでもあって、時々、等持院饅頭を買いに行く。

マキノプロジェクトには、「当初、等持院山門をくぐると参道の西側部分にステージ1棟、倉庫、俳優部屋、事務所があった。」という記述がある。つまり、ここ等持院稽古場は、旧東亜キネマ撮影所跡に建てられたと考えてよいだろう。1932年10月、東亜キネマ撮影所閉鎖とあるから、この場所が宅地になったのは、1932年(昭和7年)以降のことだと思われる。つまり、古都京都とはいえ、この場所に人が住んでいるのは、たかだか80年ということになる。もっとも、もともとがお寺の境内だったわけで、ずっと以前は墓地だった可能性がないわけではない。