2025年12月27日土曜日

ふりかえり2025

 歳取るとともに一年が短くなるというが、まったくその通りで、暑すぎた夏の記憶(この夏の京都市は61-68で記録更新。つまり、猛暑日が61日、熱帯夜は68日に及んだ。こんな街は京都だけである。)だけが鮮明で、あと何があったか不覚にも、よく覚えていない。であるのに、あと五日で今年が終わってしまうというではないか。孫たちがやってきて、このまま新年を迎えてしまうと、今年がどんな一年であったか忘れてしまいそうなので、記録と記憶を元に、一年を振り返ることにする。

 まずはお遍路。2月、4月、11月の3回、四国に出向き、38番札所金剛福寺から45番岩屋寺まで250キロを歩いた。正確にいうと、うち30キロはバス利用である。お遍路四年目にして、ようやく全行程の6割を打ち終えたことになる。ともかく土佐路が長かった。まさに修行の道場。来年からは、岩屋寺から松山市に入り、瀬戸内海に沿って歩くことになる。瀬戸内路に入っても、まだ難所はあるようだけれど、往復に費やす時間は短くなってくるはずである。

 12年ぶりのヨーロッパ行きは、一番のビックイベントだったはずなのに、冒頭に書いた京都の夏の暑さにやられて、今年前半の出来事は忘却の彼方に飛んでいってしまいそうである。それでも、秋になって、ドイツ、オーストリアの稽古会で会ったうちの何人かが京都を訪ねて来てくれたので、幻ではなかったことを確認することができた。ヨーロッパの物価の高さを実際に体験すると、インバウンドブームの本質が過剰な円安にあることがよく理解できる。元凶はアベノミクスです。

 長年ホームグラウンドとしていた大井町稽古場が3月末をもって閉鎖になってしまった。もう更地にされ、その後に新しい家が建っていることだろう。ひとつの歴史の終わり。ヨーロッパに行っている間に起こった身体教育研究所の整体協会からの分離独立騒動。この話を聞いてから僕はずっと怒っていた。周囲の人たちの付和雷同ぶりも気に入らない。そう、この秋、ずっと怒っていた。いまや大多数となった稽古会が整体の入口だった人たちと、身体教育研究所を闘いながらゼロから作ってきた人間とでは、歴史観が違っている。

 困ったことに、自分が稽古会でやっていることの9割は、この我儘師匠に教わってきたことで、しかも、ここにきて、人為を離れるための技法がさらに進化深化している。観客然としている立場ではないのだが、この続きを見ないわけにもいかない。さて我が身をどう処するべきか。怒りはまだおさまってない。が、結論は出た。

2025年12月26日金曜日

整体法研究所のころー1992年5月

 1992年というと、僕が整体協会の事務局に入って6年目、稽古場が立ち上がって4年目の年になる。その頃の稽古場というと、まだ指導者養成の場という看板を上げていて、整コンを目指す人たちも稽古に参加していた。稽古場の指導者制度、つまり、技術研究員、動法教授資格といったものが確立されるのは1998年まで待たなければいけなかった。整体協会の中で指導者と呼ばれるのは、整体コンサルタントであり、活元コンサルタントであった時代の話である。

 その時の僕の身分は、まず整体協会事務局資料室員、かつ、本部稽古場運営担当を兼務。資料室員といいながら、稽古場担当の比重がどんどん高くなっていた頃である。しかも、助手と呼ばれていたダン先生の弟子たちが増えていき、つまり、その人たちを統括する中間管理職でもあった。時折、自分の稽古会でのマクラで、「僕の不幸は、ダン先生が師匠ではなく上司として現れたことだった」と話すことがあるのだが、これは誇張ではない。

 京都から東京に移った理由のひとつは、僕自身整コンを目指していたからである。事務局で仕事しながら段位試験も受け、この年、整体コンサルタントの試験も受けた。ただ整コンになるということは、独立することであり、事務局も辞め、どこかにーたとえば、実家のあった岡山にー指導室を構えることを意味していた。

 整体コンサルタント試験が終わり、そろそろ結果が発表されるころのある日、ロイ先生に呼ばれた。おそるおそる会長室に顔を出すと、ロイ先生は困ったような顔で、「キミはどうしたいのかね」と問われた。つまり、事務局に残って、ダン先生の手伝いを続けるのか、それとも整コンとして独立するのか。何日か猶予をもらうことにし、その後、返事をした。

 どの道を選んだかは、ここに書くまでもない。自分で下した決断の重さを消化するために休暇を取って旅に出ることにした。友人を恃んで、一週間、カリフォルニアに逃げた。(当時の記録を掘り起こしてみると、信じがたいことに、東京ーサンフランシスコの往復運賃が66,000円とある。)

 もちろん、整コン試験の合格者の名前に僕の名前は含まれてなかった。ただ、試験官だった柳田先生、吉田先生、堅田先生といった大御所と呼ばれていた人たちの講評にどのような内容が書かれていたのか、今でも、少しだけ気になる。ロイ先生にはご迷惑をかけた。

 この頃から、稽古場の輪郭が徐々に形を取りはじめ、本部との路線の違いが大きくなっていく。稽古場がまだ整体法研究所と呼ばれていた時代の話である。

2025年12月25日木曜日

年末年始読書週間

さてどこまで読めるか。



2025年12月11日木曜日

美容院で髪を切る

美容院に行くのはおそらく20年ぶりのことだ。
京都に来てからというもの、髪を切るのは近所のチェーン展開している散髪屋、しかも二、三ヶ月に一度と相場が決まっていたから、僕にすれば相当の飛躍である。

いきなり、70過ぎの爺さんが現れ、ちょっとパンクでヤンチャな感じにしてくれとリクエストされ、紹介者たるカミさんが、横からベッカム風がよいなどと口を挟むものだから、40代の美容師さんも困ったに違いない。

でも、さすがプロですね。手際よく髪全体の形を整え、そこから、こちらの無茶振りをかたちにしてく。小一時間のうちに、ヤンチャな新生スナジイが出現した。



2025年11月29日土曜日

11月の読書

松本清張の女たち* 酒井順子 新潮社 2025
僕の歩き遍路* 中島周平 西日本出版社 2022
ぼけと利他* 伊藤亜紗・村瀬孝生 ミシマ社 2022
異国トーキョー漂流記 高野秀行 集英社 2005
建築と利他* 堀部安嗣・中島岳志 ミシマ社 2025
トランジェクトリー* グレゴリー・ケズナジャット 文藝春秋 2025

2025年11月25日火曜日

イベント案内 「関西フォークムーブメントと社会運動──かわら版、ハンパク、フォーク集会」

立命館大学平和ミュージアムで12月20日(土)、「関西フォークムーブメントと社会運動──かわら版、ハンパク、フォーク集会」というイベントが開催されます。

12月20日 土曜日 14時〜17時 無料 予約不要

 https://rwp-museum.jp/event/20251220_01/




遍路2025 杖を忘れる 

お遍路は杖と一緒に歩く。杖はお大師さまだという。
ただ、この杖の存在をぽっかり忘れることがある。頻繁にある。
一週間の時間が生まれたので遍路に出た。立冬を過ぎているから冬遍路である。
まずは宇和島に向かう。

いっと最初から忘れた。思いのほか早起きしたので、準備万端整えて、予定より早く家を出発して、最寄りのバス停に向かう。数百メートル歩いたところで、杖を忘れていることに気づく。慌てて家人に電話。途中で杖を受け取り、今度は違うバス停に向かって歩きはじめる。

無事宇和島駅に到着。改札を出て駅構内の端っこの喫煙所に向かう。一服して、その日の宿のある方向に歩き始める。数十メートル歩いたところで、杖がないことに気づく。慌てて戻る。遍路初日で二度も杖を忘れるという失態。前途多難だ。

遍路4日目。大洲から内子を通り抜けて大福という旅館を目指す。車道をひたすら歩く一日。内子に入る。内子に来るのは二度目、八年ぶり。前回は夏の人形浄瑠璃公演を観にきた。土地勘があるつもりで町に入ったが、どうも怪しい。ビジターセンター近くの公園のベンチで地図を広げ、前回泊まった宿の場所を確認し行ってみることにする。宿は閉まっていて、その前のベンチに座り、その先を考えていたのだが、杖が手元にないことに気づく。どうやら、さっきの公園に起き忘れたらしい。ちゃんと、そこに戻れるかどうか。

遍路最終日。古岩屋から久万経由で松山市に入る。大街道という市の中心らしいとこでバスを降り、商店街のアーケードを抜け、街の概要を把握しながら、ずんずんとJR松山駅を目指す。あとはみどりの窓口で京都までの切符を買うのみ。連休がはじまるからなのか、行列ができている。その行列に並んでいるうちに杖がないことに気づく。置き忘れたとすれば、駅前でリュックを下ろしたところか。いや、駅前の横断歩道を渡る前にも一度、荷物を下ろしている。行列から抜けるわけにもいかず、やや悶々としながら順番を待っていた。

無事、杖と一緒に帰ってきたものの、今回、杖を忘れる回数が多過ぎた。
先を急ぐと、杖を忘れる。

今回の遍路は宇和島から岩屋寺へ、海から山への百キロの行程。岩屋寺は45番札所。とうとう八十八ケ所の半分を越えたことになる。GoogleMapには極力頼らず、紙の地図を参考にしながら歩くようにした。この方が断然、風景に目がいく。手持ちのスマホのカメラはしょぼ過ぎるので写真も撮らない。かといって、写真なしのブログも寂しいので、宇和島の鯛めし屋でもらった【鯛めしの食べ方】を載せておくことにする。あれはちょっとクセになる味だった。