1992年というと、僕が整体協会の事務局に入って6年目、稽古場が立ち上がって4年目の年になる。その頃の稽古場というと、まだ指導者養成の場という看板を上げていて、整コンを目指す人たちも稽古に参加していた。稽古場の指導者制度、つまり、技術研究員、動法教授資格といったものが確立されるのは1998年まで待たなければいけなかった。整体協会の中で指導者と呼ばれるのは、整体コンサルタントであり、活元コンサルタントであった時代の話である。
その時の僕の身分は、まず整体協会事務局資料室員、かつ、本部稽古場運営担当を兼務。資料室員といいながら、稽古場担当の比重がどんどん高くなっていた頃である。しかも、助手と呼ばれていたダン先生の弟子たちが増えていき、つまり、その人たちを統括する中間管理職でもあった。時折、自分の稽古会でのマクラで、「僕の不幸は、ダン先生が師匠ではなく上司として現れたことだった」と話すことがあるのだが、これは誇張ではない。
京都から東京に移った理由のひとつは、僕自身整コンを目指していたからである。事務局で仕事しながら段位試験も受け、この年、整体コンサルタントの試験も受けた。ただ整コンになるということは、独立することであり、事務局も辞め、どこかにーたとえば、実家のあった岡山にー指導室を構えることを意味していた。
整体コンサルタント試験が終わり、そろそろ結果が発表されるころのある日、ロイ先生に呼ばれた。おそるおそる会長室に顔を出すと、ロイ先生は困ったような顔で、「キミはどうしたいのかね」と問われた。つまり、事務局に残って、ダン先生の手伝いを続けるのか、それとも整コンとして独立するのか。何日か猶予をもらうことにし、その後、返事をした。
どの道を選んだかは、ここに書くまでもない。自分で下した決断の重さを消化するために休暇を取って旅に出ることにした。友人を恃んで、一週間、カリフォルニアに逃げた。(当時の記録を掘り起こしてみると、信じがたいことに、東京ーサンフランシスコの往復運賃が66,000円とある。)
もちろん、整コン試験の合格者の名前に僕の名前は含まれてなかった。ただ、試験官だった柳田先生、吉田先生、堅田先生といった大御所と呼ばれていた人たちの講評にどのような内容が書かれていたのか、今でも、少しだけ気になる。ロイ先生にはご迷惑をかけた。
この頃から、稽古場の輪郭が徐々に形を取りはじめ、本部との路線の違いが大きくなっていく。稽古場がまだ整体法研究所と呼ばれていた時代の話である。