2025年6月18日水曜日

エルヴィン・フォン・ベルツ

Stuttgart近くのBöblingenという街に住む知人宅に食事に呼ばれた。
そこで出た話題のひとつに草津温泉のある群馬県草津町とこの近所のBietigheim-Bissingen(ビーティヒハイム・ビッシンゲン)市の姉妹都市の関係。この姉妹都市交流に、ここの女主人が通訳として関わったという。

なんで草津温泉なのかというと、日本の温泉療法を世界に紹介したエルヴィン・フォン・ベルツというドイツ人医師の存在がある。ベルツ博士は明治期にお雇い外国人として日本の医療制度確立に長年尽力した人物で、その出身地がビーティヒハイム・ビッシンゲン市ということなのだ。

このベルツ博士の話は、ダン先生の講話に時々出てくる。そう、人力車の車夫の話。質素な食事しか摂ってないにもかかわらず底抜けのスタミナを発揮する車夫に、栄養学的に豊かな食事を与えたら、車夫はその力を全く出せなくなったという話。

ドイツに来て一週間。控え目に食べているつもりなのに、つい食べすぎてしまい、お腹がもたれた感じが抜けない。隙間の稽古をやろうとしているのに、当地の食事は、その隙間を埋めようとしているかのようである。ちょっと気をつけなければ。

2025年6月15日日曜日

コモンとしての身体

12年ぶりにドイツで稽古会。
フランクフルトのDiakonessenhausという修道会の施設の一室を借りての小さな会。
よい雰囲気。半世紀続いている会の歴史を感じている。

体を捌く、隙間を捉えるをテーマに3コマ。
主語、所有格のはっきりしている言語の中で暮らしている人たちにとって、隙間は誰に所属するのか。

コモンとしての身体、という言葉が降りてきた。
ただ、話の中にこの単語をちらっと入れたら、スッと引かれたような気がした。




2025年6月13日金曜日

車と街並み

ドイツ3日目。
Recklinghausenという小さな街に住む知人宅でお世話になっている。
助手席に座って街中を車で走っていると、車と街並みが一体化していることに驚く。
家の前に、道路脇に車はいっぱい停まっているのだけれど、それが風景を邪魔してない。
京都だと車が街並みの風景に及ぼす異化感が半端ないのだけれど、ここではそれがない。
つまり、京都に、あるいは日本の街並みに車は基本似合わないのではなかろうか。



2025年6月2日月曜日

聴力補助

聴力補助機能付イアホンを使いはじめて一ヶ月。世の中は音で満ちている。雑音で溢れかえっているとも言い換えられる。そんな中で、人は必要な音を取捨選択して聞き分けて生活している。なんという高度な技なんだろう。音を増幅する機能によって、人の声は近くに聞こえるが、紙のカシャカシャ音とか、換気扇のザーザーという耳障りな音も同時に増幅される。

これまでなら最初から諦めていた大人数の会話の輪にも加われる。師匠の講義も以前よりフォローできている感じではある。不思議なもので、聞こえる状態はイアホンを外した後もしばらく継続する。内部に向かっていた集注が、イアホンを付けたことで外に向かい、その外に向かう集注が保持されるということなのだろうか。

でも、自分が聞いている声は、一体どのような声なのかという疑念は晴れない。きっと、これから先、対象の声を自動追尾する機能とか、対象だけの声を拾う機能とか、自動翻訳してしまう機能とか、どんどん付け加わっていく予感はあるけれど、果たして、それは声を聞いていることになるのか。所詮は、電気なしには成り立たない技術でしかないことを肝に銘じておかないと足元を掬われそうだ。

イアホンを外すと平和が戻ってくる。この静かな環境の中で、本当に僕は何も聞いていないのか。それとも、この娑婆に溢れている音以外のものに耳を傾けているのか。聴くという行為は奥深い。

2025年5月27日火曜日

5月の読書

働くことの人類学* 松村圭一郎+コクヨ野外学習センター編 黒鳥社 2021
明治のことば* 齋藤毅 講談社学術文庫 2005
江戸の読書会* 前田勉 平凡社ライブラリー 2018
この星のソウル* 黒川創 新潮社 2024

2025年5月23日金曜日

この星のソウル

黒川創ファンを自認しているが、手元に置いている本はない。ただ、この「この星のソウル」だけはいつか著者にサインを貰うために買っておこうと本屋に出かけたのだが、出版から3ヶ月も経つと存外在庫がなかったりする。セルフレジを使っている大型書店は基本避け、小さめの本屋を目指すのだが、それでも見つけられない。余波舎ならあるだろうと目星をつけて行ったのに、他の本はあるのに、この本に限ってない。とうとう諦めて取り寄せてもらうことにした。

と、ここまでは前置き。なぜ、この本に限って購入しようと思ったか。フレンズワールドカレッジという、私にとっては母校とも呼べる固有名詞が活字となって記されているからである。かわら版のデジタルアーカイブを作ったときにも思ったのだが、記憶はどんどん風化して忘れ去られていく。活字というのは、そのような歴史に爪痕を残すことでもあるのだ。フレンズワールドカレッジ(京都)を記憶に留めておくには今がタイムリミットなのだが、やるエネルギー残ってるかな。

閔妃暗殺という日本近代史の暗部を中心に据えた日韓の歴史、70年代から現代にいたる筆者自身の韓国との関係、そして、変貌するソウルの姿。それら異なった時間の流れをひとつの作品としてまとめ上げている。同じ時代、似たような場所を彷徨った者のひとりとして、このような作品が世に出たのは嬉しいし有り難い。



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2025年5月20日火曜日

身体観を変える

出発まであと三週間。

ヨーロッパ行きが決まったのは去年の10月だったから、十分な準備期間はあったはずなのに、あっという間に時間が過ぎてしまった。この間なにしてきたかというと、稽古の内容を考えるというよりも、自分の整体人生を振り返り、稽古場の歴史を辿っていた。

2回稽古会をやることになっているのだけれど、後半の方は、整体になじみのない人に、しかも通訳なしの英語でやるという無謀な選択をしてしまったので、体とはなんぞや、カタとはなんぞや、内観とはなんぞやといったことを英語で話そうと作文に励んでいる。考えれば考えるほど、頭の中はカオスに向かう。

内観を英語で説明しようとすると、えらいことになってしまう。なんで、身体観を変えろ変えろと言われ続けてきたかやっと分かった。身体観が変わらなきゃ、内観なんてできない。今ごろそれ言うかと突っ込まれることは重々承知。でも、身体観が変わるとは、世界観、人生観が変わることでもある。

途中から、紹介されて読みはじめた難解な量子論の本は補助線として有効。客観と内観は、ニュートン力学と量子力学ほど違う。つまり、世界の記述の仕方が異なっているのだ。

今更ながらの発見の連続。