2025年4月29日火曜日

宇宙の途上で出会う 4

第3章を通り抜け、とうとう第4章に突入。

第3章はボーアの哲学の解説に費やされている。
運動量と位置を測定するには異なった実験装置が必要とされる。つまり、両者を同時に観察することはできない。

装置を変えれば観測される現象の性質も変わるということである。(p.134)

筆者のバラッドは安易なアナロジーを戒めるよう丁寧に論を進めていくが、位置と運動の相補的な関係性など、つい内観的整体技法とつなげて考えてしまう。

それにしても、哲学を日本語でやるって難儀なことですね。
一応、日本語の体をなしているのだが、明治漢字語満載の日本語は難解すぎる。

たとえば、こんな感じ。まあ、もとの英語も難解で、どっちを読んでも外国語なのです。

つまり、測定装置は、問題となっている概念の意味を確定する可能性の条件であると同時に、問題となっている性質の測定において、一方が他方をしるしづけるというように、確定的な境界と性質をもった(部分)系が存在する可能性の条件でもある。つまり、装置は現象内部で「対象」が確定的な境界と性質をもつようになる可能性の条件を提供するのであり、ここで「現象」とは、対象と装置の存在論的分離不可能性のことなのである。(p.141)

In other words, the measurement apparatus is the condition of possibility for determinate meaning for the concept in question, as well as the condition of possibility for the existence of determinately bounded and propertied (sub)systems, one of which maries the other in the measurement of the property in question. In particular, apparatuses provide the conditions for the possibility of determinate boundaries and properties of "objects" within phenomena, where "phenomena" are the ontological inseparability of objects and apparatuses.


明治時代、漢字を用いて西洋からの概念を翻訳していった人たちには漢文の素養があった。
その素養が失われている現代日本人は、この明治漢字語を使いこなせなくなっているのかもしれない。



2025年4月18日金曜日

遍路2025 伊予路へ

初心に戻って歩き遍路再開。
土佐路から伊予路へ。
39番延光寺から40番観自在寺を経て宇和島駅まで。
遍路転がしとまではいかないまでも標高差のある峠越えの道が続く。
初日二日目はお天気雨と強風に煽られての山道峠越え。
そういえば、土佐路ではコンクリ道の上ばかり歩いていた。
南伊予の広葉樹で被われた山々は美しい。
杉の緑に違和感を覚え、唐突に姿を現すソーラーパネル群に憤る。
マンサンダルは山道で力を発揮してくれる。岩場でも滑ることなく地面を摑む。
足運びは小刻みになり、足首から先は消える。
足先の消えない左足には必ずマメができる。
三日目でようやく歩くコツがつかめてきて、もう少し続けられればと思うのだが、いつもここで打ち止めになる。
コロナ禍以降、食事の提供をやめたという宿が増えている。高齢化も理由のひとつだろう。遍路にとってコンビニはオアシスだが、コンビニのおにぎりと菓子パンだけで歩き続けるのはつらい。

柏坂越えの途中。霞んで見えるのは九州なのか。






2025年3月30日日曜日

3月の読書

青い星、此処で僕らは何をしようか* 後藤正文・藤原辰史 ミシマ社 2024
音のない理髪店* 一色さゆり 講談社 2024
軽いめまい* 金井美恵子 講談社 1997
八九六四 完全版* 安田峰俊 角川新書 2021

2025年3月18日火曜日

日帰り東京

早起きして日帰り東京。
品川で新幹線を降り、京急線に乗り換える。
ホームは羽田に向かうらしい荷物を抱えた旅行者でごったがえしている。青物横丁で降りて、鮫洲を目指して旧東海道を歩きはじめる。下町の風情は相変わらずだが、再開発が進んでると聞いていた割にどことなく寂しい。新旧入り混じったことで、逆にガチャガチャ感が増しているように見える。

懐かしの大井町稽古場。
三十数年の歴史を刻んできたこの稽古場も、ゴールデンウィーク明けには取り壊されるという。何百時間も座った二階の控室で、Mさんや、午後からの稽古に現れた常連の何人かと言葉を交わす。それぞれが年齢を重ね、この場所に多くの時間が積み重なっている。それももうすぐ消えてしまう。

大井町稽古場から大井町駅に向かい、今度は東急線で二子玉川。
二子玉川は相変わらずの賑わいだが、もはや京都での田舎暮らしに完全適応している僕には別世界。どこもかしこも、落ち着きのない風景になってしまった。本部稽古場の隣にあった二階建てのアパートも取り壊されて5階建てのマンションに変貌中。ただ、稽古場の中の空気だけはいつもどおり静謐。

用事を済ませて今度は新横浜へ。
以前ならあざみ野経由新横浜が定番のルートだったのに、数年前から乗換アプリが自由が丘経由のルートを表示するようになった。試してみると、まあまあ便利。崎陽軒のシウマイ弁当を買い込む間もなく新幹線のホームへ。豊橋でのポイント故障の影響とかで40分遅れで京都到着。

東京との心理的距離の遠さを再確認しに行ったような日帰り旅行だった。

補聴器の誘惑

ここ十年何が変化したかというと耳が遠くなったことだろう。

まず、ダン先生の講義が聴き取れなくなった。この40年間、だれよりもダン先生の話は聴いてきたから、もう十分と言えなくはないけれど、講義の中身を一年後に白誌で知るというのは、いかにも悔しい。最近は、難聴者のためにミライスピーカーが導入されて多少は話についていけるようになったとはいえ、肝腎なところを聞き逃している。実習が始まると最悪で、スピーカーから離れたところで稽古していると、もうついていけなくなる。休憩時間の雑談の輪にも加われない。

対面で話していると、大体通じる。あくまで大体であって、人によっては至近距離であっても相手の言っていることが聞き取れないケースも多々あって、いかにも情けない。さてどうする。最近、アップルのイアフォンが補聴器がわりになるというCMを観て、またそのCMで流れてくる難聴者の聞こえ具合が実にリアルに再現されていて、まったくいやらしいったらありゃしない。

さて、整体人として、この状況とどう向かい合うべきなのだろうか。もともと近視で、30代前半までは眼鏡をかけていたのだが、ある時点で使うことをやめてしまった。眼鏡を外したら視力が戻ったかというと、そんなことは全然なくて、単純にぼんやりとした世界を受け入れただけでのことなのだが、無理矢理焦点が合うように作られている眼鏡の不自然さから解放された感と対象物との間の空気を捉えられるメリットは何事にも代えがたく、運転免許の更新時にやる視力検査の時以外、眼鏡をかけることも無くなってしまった。その視力検査にしても、なぜか歳とともに正解率が高くなって、60代後半になって眼鏡不要のお墨付きをもらってしまった。視力ってなんだ、という話。旅行に行くときなど、念のために眼鏡を荷物の中に入れておいた時期もあったが、結局使うことなく旅を終えることが当たり前になってしまい、最近では100パーセントの眼鏡なし生活を送っている。

随分前から、人生能力一定説ーつまり、なにかの能力が育つということは、他の何かの能力を捨てている。逆に、何かの能力を失うということは、他の違った能力が育っているに違いないという説を唱えている。これは、数年前、孫たちと濃密な時間を過ごすうちに浮上してきた説で、大人の足で3分で移動できる公園まで15分掛けて移動していくというのは能力と呼ばずなんと呼ぶのか。では、耳が遠くなることで、僕の中でいったいどのような能力が育って来ているのだろう。円滑な社会生活を送るために補助的機器を頼るべきか、それとも自分の中で何が育って来ているのかを見極めていくのか。整体人として進むべき道は明らかなのだが、それでも、揺れ動いてしまうのだ。

2025年3月11日火曜日

紙風船

 講義の中で「室伏くんが紙風船の稽古を流行らせててね〜」という師匠の話を聞いて、ググってみたら、なんとスポーツ庁のホームページで紙風船エクスサイズなる動画までアップされている。スポーツ庁長官って、ひょっとして偉い人なのか。

 彼が稽古会にはじめて現れたのは足柄で合同稽古合宿をやったときだと記憶している。1996年10月開催、参加者318名という記録が残っている。あれから30年近く経つのだ。本部稽古場にハンマーの球がゴロゴロ転がっていた時期もある。時に京都の研修会館の稽古会に現れ、女性陣に取り囲まれている写真も残っている。

 それにしても、あんな凶器にしか見えないものを、ブンブン振り回す競技ってなんだろうと、その後興味を持ってオリンピックや世界陸上を観ていると、もう野獣としか思えない筋肉隆々の選手たちが雄叫びを上げながらハンマーを投げている。筋肉増強剤全盛の時代で、ドーピング検査で引っかかる競技者も多かった。僕らからすると十分巨体の室伏選手が華奢に見えるほどであった。競技選手のドーピングには厳しいくせに、自身のドーピングには甘い観客というダブルスタンダードな変な世界。

 竹棒団扇ほどに紙風船が稽古道具として定着したという話はあまり聞かないが、室伏くん(もはや君付けでは呼べないけれど)が紙風船を抱えていると、ちょっと微笑ましい。ハンマー投げの球は7キロの鉄の塊。それに対して紙風船はわずか数グラム。大きさは似たようなものだろう。それを鉄人室伏がやるとコントラストが際立ってお洒落。動法とも内観とも言わず、無いものへの集注、つまり身体を引き出している。そりゃ、ラジオ体操よりも紙風船エクスサイズでしょう。



2025年3月3日月曜日

大井町稽古場閉鎖

今月末をもって大井町稽古場が閉鎖されることになったという。
京都に移ってくるまでの十数年を大井町稽古場で過ごしてきた私としては感慨深い。
なくなってしまう前に一度お別れにいこうと考えている。

大井町稽古場に関して書いた文章はないものかと、パソコンの奥を探ってみたら、「大井町稽古場の歴史をたどる」という文章が出てきた。東日本大震災の年、2011年に書いたものだ。どこかで発表したかどうか、誰かに読んでもらったかどうかも覚えていない。


【大井町稽古場の歴史をたどる】 

 大井町稽古場ができたのが1993年であるから、いまから18年前ということになる。本部稽古場が二子玉川につくられたのが1988年であるから、それから5年が経過している。つまり、身体教育研究所(当時はまだ整体法研究所と呼ばれていた)の本部稽古場が活況を呈し人が溢れはじめ、また助手として連日連夜、裕之先生のもとで稽古していた助手たちも育ってきたので、本部稽古場以外に活動の場を広げるために作られた、稽古場第2号というのが、大井町稽古場に与えられた立場である。スポンサーは剱持先生/整体コンサルタント(2008年に逝去)。裕之先生をずっと影で支えて来た四天王と呼ばれた古い整体指導者の一人である。

 助手三人体制による大井町稽古場の運営は順調であった。この時期(1993~1998)が一番活気があったかもしれない。その理由は、稽古会の受け皿が大井町稽古場しかなかったからである。稽古場3号となる鎌倉稽古場が開設されたのが1996年である。

 大井町稽古場第2期は整体法研究所が身体教育研究所と名前を変え、技術研究員制度が整備された1998年に始まる。従来の整体コンサルタントであった人たちが身体教育研究所に「移籍」し、身体教育研究所の技術研究員として活動を始めた。整体指導室も稽古場に看板を書き換えた。稽古場の数も一気に増えた。ここから担当者の一人であった戸村が京都に移る2002年までは、戸村を中心に据え、それに大井町稽古場に続いて1996年に開設された鎌倉稽古場との兼務になる松井、それに事務局との二足の草鞋を履くことになる角南が補佐する形で加わった。

 2002年、戸村は関西の稽古拠点となるはずだった山崎稽古場を担当するために大井町稽古場を去っていった。これを機に、大井町稽古場は松井を中心に据え、それを角南、剱持(小田原稽古場との兼務)が補佐するという体制に変わった。2003年に横浜稽古場が開設されて数年は、大井町/横浜/鎌倉三稽古場共通登録という試みもされ、稽古の裾野を広げることに貢献してきた。大井町に関していえば、十年間、松井/角南/剱持体制が続いてきた。活気のある時期、活気のない時期、様々であったが、概ね、登録者25~30名という範囲で稽古会が続いてきた。

 大井町稽古場の特徴をいくつか挙げるとすると、(1)参加者は関東一円の広い範囲からやってくるー言い換えると地元密着型でない、(2)若者の出入りが多いー本部への通過点になっている、(3)課外活動の多様さー田んぼ手伝いから句会まで、といった点である。この多様さが大井町稽古場のエネルギー源といってよい。

 そして2011年3月11日、震災がやってきた。東日本大地震は地面を揺るがしただけでなく、多くの人の人生を揺すぶった。大井町稽古場をも大きく揺らせ、新しい時代へと一気に押し出した。大井町稽古場第4期のはじまりである。

  2011/10