2025年8月6日水曜日

京都十年 その2

 京都に戻ってきてからの十年、なぜ昭和のラジオ少年が整体の道を志したのかということを、ずっと考えていたように思う。不思議っちゃあ不思議でしょ。科学技術全盛の時代に育ち、真空管ラジオを組み立て、自作機でアマチュア無線をやっていた少年が、紆余曲折の末、野口晴哉の思想と出会い、整体の道に入る。

 科学とはなにか、科学技術とはなにか、稽古会に来ていた人の主宰する読書会などで、整体の話をしようとすると、どうしても、自分がどこからやってきたのかについて考えざるを得なくなる。そうして、日本人はどのように科学技術を受容してきたのかという歴史にまで射程を広げざる得なくなっていった。そして、自分自身が、時代の流れの中で、ラジオ少年となっていったのか、少しづつ理解するようになった。→ 読書会メモ

 そんなラジオ少年が、いきなり異文化に放り出される。そこからが第二幕、20代ということになる。三年弱の期間の中で咀嚼できなかった体験をどう理解していくのか。そもそも、体験するとはどういうことなのか。人が学ぶとは、どういうことなのか。そんな疑問がライフワークとなっていく。そう、ライフワークとは、大きな異化感から生まれる。その糸口として、整体を学び始める。→ 学ぶということ

 現在地にたどり着くまでの過程は、積み重なる偶然の産物に過ぎない。もちろん、折々、種々の選択をしてきたことは、その通りだけれど、その選択にしても、十年前、この家に一目惚れした時のように、「ふと」選んでしまうのだ。最初は小さな選択であったとしても、ものごとが動きはじめると、とんでもない未来が立ちあらわれてくるのが、人生の面白いところでもある。あれよれよという間に70代になってしまった。

2025年8月4日月曜日

お米が切れた。

とうとう、米櫃が空になった。
実家が兼業農家の稽古会参加者の伝手で譲ってもらった石川産の玄米。
米の値段高騰のニュースを横目で見ながら、まだ大丈夫と高を括っていたのだが、とうとう食べ尽くした。
スーパーの棚に米は戻ってきているが、高い。
銘柄米だと5000円。パールライスで3000円。カリフォルニア米も同じく3000円。
どれも白米、無洗米で、玄米は置いてない。
家庭用の精米機で七分付きのお米にするのがわが家の慣わし。
さてどうする。

米屋を目指すことにした。
配達から戻ったばかりの体の店主としばし雑談。
まだ新米は置いてなかったけれど、玄米が買えた。
滋賀産のコシヒカリ、5キロで4150円。
これで、新米が出回るまで、食いつなげそうだ。
米は米屋で買うべし。

2025年8月3日日曜日

京都十年 その1

 若い不動産屋のスタッフに連れられ、この家にやってきたのが2015年の8月3日。やはり、暑い日だった。40度を超えていたであろう閉め切られたこの家に足を踏み入れ、間取りを確かめた。引っ越してきたのが9月の25日だから、この日から2ヶ月経たないうちに、京都の街に降り立ち、第二次京都暮らしをはじめた。→ 前にすすむ6

 それから丸十年。第一次京都暮らしも十年だったから、同じくらいの時間をこの街で過ごしたことになる。といっても、20代と60代では、同じ10年といっても、まるでちがう。1970年代と2010年代の差も大きい。十年前、京都の街に降り立ったとき、すでに還暦を過ぎていたが、古稀を通り過ぎた今から振り返ると、まるで青年のようであった。

 平穏とはほど遠い十年間だった。2015年の秋に越してきて、コロナが始まったのが2020年。2020年の春から2023年の秋までは、コロナ禍にもかかわらず、毎月千葉に通った。平和な日常が戻ったと言えるのは、その後のことで、ここ数年のこと。

 30年ぶりに京都で暮らし始めた当初、ずいぶん街が小綺麗になっていたことに違和感を抱いた。言葉を変えるとテーマパーク化していた。観光地として整備されたというべきか。いわゆるインバウンドと呼ばれるものは、すでに始まっていたが、十年後のいまと比べるべくもない。

 京都に引っ越そうと思った理由のひとつは、毎月末行われている京都稽古会の存在がある。風景とすると、僕自身は、この稽古会の風景が好きだ。月に一度、西日本各地から人が集まってくる。2015年の段階で、季節によっては宿が取りにくいという状況は生まれていた。それが、インバウンド増加の影響で宿泊費が高騰してしまった。稽古会参加者にとっては死活問題である。

コロナ前とコロナ後。この五年間で、いろんなものが変わってしまった。

2025年7月30日水曜日

7月の読書

ノイエ・ハイマート* 池澤夏樹 新潮社 2024
家事か地獄か* 板垣えみ子 マガジンハウス 2023
森の探偵 宮崎学・小原真史 亜紀書房 2021
イマドキの野生動物* 宮崎学 農文協 2012
感情の向こうがわ 光岡光稔・名越康文 国書刊行会 2022
地図は語る* J・チェシャー O・ウベルティ 日経ナショナルジオグラフィック 2023

2025年7月22日火曜日

風景としての整体

風景としての整体というものはある。

では、どこまでが整体で、どこから整体でなくなってしまうのか?
やっている中身はともかく、畳の上で行うことで成り立つ整体というものはある。
では、フローリングの床でやった今回の稽古会ー当地ではワークショップと呼んでいるーはどうだったのか?

身体観が変わらないと整体は理解できない。
まったく、その通りで、身体観を変えていくことで、僕らは整体の道を進んできた、はずだ。では、身体観を変えるための整体という表現は可能なのか?

ドイツで長年続いている稽古会に参加している日本人の方が、ウィーンのワークショップにやってきて、動法を初めて経験する当地の人が「カタ」に入るのを目撃してカルチャーショックを受けたと、事後、メールで感想を送ってくれた。新しい身体観に触れたことは確かだろう。でも、それは、整体と出会ったのか?

Feldenkraisをやっている人が、あるいは、seikihoなるものをやっている人が稽古に来て新しい身体観に触れる。その後、その人がやることは、Feldenkrais 2.0に、seikiho2.0に変わるかもしれない。でも整体にはならないだろう。このようなかたちで新しい(新しいのか?)身体観が広まっていくのを、僕らは素直に言祝ぐべきなのか?

結論の出ない宿題をもらって帰ってきた。

時差ボケもようやく抜けてきたのでー夏バテ気味ではあるけれどーヨーロッパ2025シリーズは、これで一区切りとします。

2025年7月14日月曜日

ブラジル組

ウイーンでの稽古会にブラジル組が参加してくれた。
サンパウロで活動する田中さんの仲間たちである。

ひとりは4年前、コロナ禍のとばっちりで、ゲーテ協会の招きで日本に来るはずだったのに、”online residency program”なるものに甘んじなければならなかったL。ベルリンを拠点とするダンサー/コレオグラファー。ZOOMでしか会ってなかった本人が生身の触れ合える人間として、目の前に現れた。→ skima

もうひとりはJ、奥さんと二人でオランダのDelftという街からやってきた。12年前、ブラジルに田中さんを訪ねた時、世話を焼いてくれたJは、その後、ボストンで5年暮らし、今は、オランダで暮らしているという。多感な青年が、逞しいややオジサンの要素まで付け加えて姿を見せた。→ road to brasil 2013

そのJ、稽古会の前日、録音機材と撮影用の三脚まで持って僕らの宿に現れた。延々2時間、幼少期から、青春時代、整体との出会い、さらにその先のことまでインタビューされた。かつて、こんなに自分のことを喋ったことはない。稽古場には30人の指導者がいて、ひとりひとり語ることは違うだろう。僕に整体を語る資格はないけれど、ひとりの整体の徒として経験したことなら話せるかもしれない。そんな風にインタビューは始まった。2時間喋ったらもう疲労困憊。ただ、本番へのよい助走にはなったように思う。“My story with Seitai “というタイトルの本が一冊書けそうなくらい濃密な時間だった。

Jとは、東京で会い(大井町稽古場)、サンパウロで会い、そして、ウイーン。3大陸で同一人物と会う機会って、そうはないよね。ものごとの伝わっていく様は不思議という他ない。

2025年7月12日土曜日

正念場

 整体の稽古会のため、毎月、石川に通っている。かれこれ一五年になる。金沢からローカル線で三つ目の松任という駅で降りる。松任は加賀の千代女の生まれ育った土地で、駅の近くに千代女の里俳句館もある。その目と鼻の先に中川一政記念美術館という小さな美術館がある。真鶴にあるものに比べると随分と規模の小さなものなのだが、空いた時間が生まれると立ち寄って、一政翁の作品に触れることにしている。

 この美術館で求めた一政翁の絵葉書をフレームに入れて机の上に置いて日々眺めている。「正念場」と書かれた墨書で九七歳の作とある。一政翁の作品は晩年のものほど素晴らしいのだが、それにしても九七歳の正念場って、いったいどのような正念場なのであろうか。


 ウォークマンが世に出たのが一九七九年のことだから、半世紀近くが経とうとしている。ウォークマンがiPodにとって代わられ、それがさらにスマホに置き換わって、イアホンで音楽を聴くのがすっかり定着してしまった風であるが、その習慣を身につけることなく七〇の歳を超えた。


 ところがである。この歳にしてイアホンをつけることになってしまった。原因は難聴にある。まさか老化が耳に現れるとは十年前には想像もしなかった。至近距離で会話している分に支障はない。ところが大勢の中にいるともうお手上げで、言葉が自分の上を飛び交っているのに、一人だけ無音のドームの中に閉じ込められているようで、まことにつらい。ふたば会に出席することも重荷である。それよりも、雨音が聞こえないのが寂しい。


 このような状況をどう受け止めるべきなのだろう。ここ数年は聴こえづらさという現象を受け入れ適応しようとしてきた。つまり孤独の道を選んで過ごしてきた。たしかに、年取ると共に行動半径は狭まり人付き合いも減ってはくるのだが、はたして、これを唯唯諾諾と受け入れるべきなのだろうか。聴覚補助機能を持つイアホンを使いはじめて気づいたのは、自分は聴くという行いを諦めていたという事実であった。外部補助に頼ることなく生きるという生活信条が逆に廃動萎縮ー使わなければ衰えるーを招いていた。


 それにしても、世界は音で溢れている。騒音だらけといってもよい。イアホンを付けていると、周りの音が均等に増幅され、音の嵐の中に放り出される。ここから必要な音だけを取り出して聞き取っていくなんて、なんと難易度の高い技を駆使して人は生きているのだろう。不思議なものでイアホンを用いて「聞こえる」とわかると、イアホンを外しても、少なくともしばらくの間は音の解像度が上がった状態で「聞こえる」のだ。さて休眠していた聴く力は蘇るのだろうか。それとも静かで平和な世界に引き返すのか。正念場である。


【初出 『会報 洛句』2025/7】 


7/12、時差ボケが抜けぬまま松任へ。美術館を覗いたら、「正念場」の現物が掛かっていた。初見ではないはずなのだが、思っていたよりも小ぶりの作品だった。また絵葉書を買ってしまった。