2026年10月30日金曜日

10月の読書

日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか* 井上章一 新潮選書 2026
ふんどしニッポン* 井上章一 朝日新書 2022
ネット右翼になった父* 鈴木大介 講談社現代新書 2023
ニワトリと卵と、息子の思春期* 繁延あづさ 婦人之友社 2021
土になる* 坂口恭平 文藝春秋 2021

2026年10月28日水曜日

戦争

映画は映画館で観る。とはいえ、最近は人混みに出るのが億劫で、映画館に足を運ぶ回数が減った。にもかかわらず、今月はなぜか三度も映画館に足を運んでいる。意図してなかったけど、どれも戦争映画。リアルな戦争を知らない戦後世代ではあるけれど、結局のところ、戦争の時代はずっと続いている。

スピルバーグの「ディスクロージャー・デイ」は金沢で観た。東京から通っていた時期は、金沢駅の周辺に宿をとっていたから、夜暇になると駅前のフォーラスで映画を観るのが定番化していた。最近は、松任に引きこもるようになって、インバウンドで混雑している金沢駅から足が遠のいていた。地球外の知的生命体の存在が明らかになれば、地球人は愚かな争いを止めるだろうというスピルバーグはオプティミストすぎるだろうと思うけれど、ま、スピルバーグはスピルバーグである。

イーストウッドも引退しちゃったし、監督の名前に釣られて映画を観にいくことはへってしまったが、西川美和の映画は観にいく。「わたしの知らない子どもたち」は、戦争孤児になってしまった女の子が、髪の毛をばっさる切って、男の子として戦後の混乱を生き延びていく冒険成長譚。西川美和の映画では必ず一箇所泣かせどころがあるのだけれど、やっぱり術中にはまってしまった。

僕は基本ミーハーで、ミニシアターよりシネコンの大きな画面でゆったり座って観るのが好きだ。ただ「NAZA」のような映画は大きな劇場では掛からない。ネット予約しようとしたが、今回のPHP騒動でシステムが動いてないので、当日券を求めて上演30分前に京都シネマへ。NAZAとは、巻き添えにしてよい民間人の略称。20NAZAまでなら上官の許可なくても現場判断で殺傷できるという。携帯電話の位置情報とAIによって、人々の情報は筒抜け。ゲームをやるように、スクリーン越しに人々を殺している。現在進行形のジェノサイドである。

図書館から「キャッチ22』『MASH」といった1970年代に撮られた映画のDVDを借り出して観た。第二次世界大戦、朝鮮戦争が舞台。半世紀前に劇場で見ているはずなのに、ほんと断片しか覚えてない。

戦争はずっと続いている。

2026年10月27日火曜日

出会う

 公開講話(等持院)は、一応、会員でない方に、この会の趣旨や、やっている稽古について紹介する会ということになっている。だというのに、今月の会(10/14)にはそれなりに整体歴の長い人たちばかりが集まって来た。とはいえ、それぞれバックグラウンドは違うし、整体との出会い方もまちまち。ドイツで日本の指導者と会った人、ブラジルでの動法のワークショップが整体とのなれそめだった人、晴哉先生の直の弟子の先生に長年指導を受けてきた人。結局、一時間以上、日本語英語ちゃんぽんな状態で、一人ひとりの経験を語り、ものごとが伝わっていくことの不思議を話す会になってしまった。そういえば、これまでこういう時間を持ててなかったですね。

 僕はいつも、ここに現れる人たちに、あなたのテーマはなんですかと訊いている。この場所にたどり着いということは、すでに本人たちが自覚しているいないに関わらず、理由があるはずで、言い換えれば、それがなんなのか一緒に探っていきましょう、そういう場だと僕自身考えている。少なくとも、僕にとっての稽古場というのは、そういう場としてある。ここが技術を学ぶ場だとも思っていない。そもそも教えるほどの技を持ち合わせていない。僕にあるのは、ずっと問い続けてきたという経験だけだ。

2026年10月24日土曜日

図書館派だが

図書館派である。
本を増やしたくないからである。
だが、本は増えるのである。
なぜか?
結局、買ってしまうからである。
なぜ買うのか?
2週間の貸し出し期間に読みきれないからである。
手元に置いておくべき本があるからである。
すると、困ったことが起きる。
古本は別にして、まっさらな本が来る。
当たり前である。
これが困る。
なぜか?
手垢が付いてない本ははじめから読んでいくしかないのである。
図書館で借りて途中まで読んでいたとしてもである。
つまり、読書体験とは、ページをめくる作業なのである。
もうひとつある。
手元にある安心感から、最後まで辿りつかないことがままある。
つい、返却期限のある図書館本を優先させるからである。
本棚は読みかけでの本であふれることになる。

2026年10月23日金曜日

呑み込む

六双の屏風に収められた漢詩を見て驚いた。
漢詩であるからして漢字が書かれているにちがいない。
でも、漢字には見えない。
漢字がかなに呑み込まれている。そう思った。

漢字から万葉仮名がうまれ、かな文字が考案され、女手として使われ、
男たちは漢字表記に留まった。
それがいつのまにか、男手が男手のまま女手化していた。
この見立てって、書道史上正しいのか?
良寛は漢詩をどのように詠んでいたのか?
専門家に一度訊いてみたい。
日本語おそるべし。

【追記】購入してきたカタログに収められている写真を眺めると、上に記した「かなにハックされた漢字」というニュアンスが希薄であることに気づく。実物とコピーの違いは大きい。


2026年10月22日木曜日

理会

 折口信夫の「日本藝能史六講」を読んでいるのだけれど、折口の言葉の使い方がすごく興味深い。たとえば、今では「理解」と書くところを「理会」という字を当てている。「ことわりをほどく」のか「ことわりとあう」のか。同じ「かい」でも「解」と「会」では、だいぶ印象が違ってくる。

 池澤夏樹が「日本語のために」のなかで、こんなことを書いていた。「right」の訳語としては、「権利」よりも「権理」の方がふさわしかったのでないかと。「利」の字を当ててしまったがために、「権利」は声高に主張するものになってしまったのではないかと。

 漢字ひと文字が背負っている歴史が、造語の中に滲み出てくる。連句を作っていても、そこを「柔らかい」と漢字を使うのか、それとも「やはらかい」とかな表記にすべきか、いつも迷う。言葉はむずかしい。



2026年10月17日土曜日

Art of Unlearning

 千葉に来ている。娘の机に置いてあった、五味太郎の「勉強しなければだいじょうぶ」という本をパラパラとめくっていたら、「中国の友人に、勉強という言葉は、無理して頑張るという意味で使うと教えてもらった」(p.19)という一文に行き当たった。これは別に、中国だけの話ではなくて、日本だって同じようなものだ。

 勉強が好きな人は多い。小学校中学校で優等生だったか僕なんかも、「勉強好き」だったと思う。でも、これって学校という明治以来の制度によく適応できていましたというだけの話でしかない。むしろ、その勉強好きを壊すことを20代から70代のにいたる今日までやってきた気がする。

 整体をお勉強にしている人は多い。勉強ってなんなのかを一言でいえば「体がない」。人間のことを知ろうとしているのに、そこに体がなければ、いくら勉強しても人間にはたどり着けない。こんなこと当たり前のことなのに、それに気づくまで10年20年かかったりする。それくらい、勉強=学校化の呪縛力は強い。

 もし、僕が今から本を一冊書くとすれば、タイトルは「Art of Unlearning」にする。