2025年3月30日日曜日

3月の読書

青い星、此処で僕らは何をしようか* 後藤正文・藤原辰史 ミシマ社 2024
音のない理髪店* 一色さゆり 講談社 2024
軽いめまい* 金井美恵子 講談社 1997
八九六四 完全版* 安田峰俊 角川新書 2021

2025年3月18日火曜日

日帰り東京

早起きして日帰り東京。
品川で新幹線を降り、京急線に乗り換える。
ホームは羽田に向かうらしい荷物を抱えた旅行者でごったがえしている。青物横丁で降りて、鮫洲を目指して旧東海道を歩きはじめる。下町の風情は相変わらずだが、再開発が進んでると聞いていた割にどことなく寂しい。新旧入り混じったことで、逆にガチャガチャ感が増しているように見える。

懐かしの大井町稽古場。
三十数年の歴史を刻んできたこの稽古場も、ゴールデンウィーク明けには取り壊されるという。何百時間も座った二階の控室で、Mさんや、午後からの稽古に現れた常連の何人かと言葉を交わす。それぞれが年齢を重ね、この場所に多くの時間が積み重なっている。それももうすぐ消えてしまう。

大井町稽古場から大井町駅に向かい、今度は東急線で二子玉川。
二子玉川は相変わらずの賑わいだが、もはや京都での田舎暮らしに完全適応している僕には別世界。どこもかしこも、落ち着きのない風景になってしまった。本部稽古場の隣にあった二階建てのアパートも取り壊されて5階建てのマンションに変貌中。ただ、稽古場の中の空気だけはいつもどおり静謐。

用事を済ませて今度は新横浜へ。
以前ならあざみ野経由新横浜が定番のルートだったのに、数年前から乗換アプリが自由が丘経由のルートを表示するようになった。試してみると、まあまあ便利。崎陽軒のシウマイ弁当を買い込む間もなく新幹線のホームへ。豊橋でのポイント故障の影響とかで40分遅れで京都到着。

東京との心理的距離の遠さを再確認しに行ったような日帰り旅行だった。

補聴器の誘惑

ここ十年何が変化したかというと耳が遠くなったことだろう。

まず、ダン先生の講義が聴き取れなくなった。この40年間、だれよりもダン先生の話は聴いてきたから、もう十分と言えなくはないけれど、講義の中身を一年後に白誌で知るというのは、いかにも悔しい。最近は、難聴者のためにミライスピーカーが導入されて多少は話についていけるようになったとはいえ、肝腎なところを聞き逃している。実習が始まると最悪で、スピーカーから離れたところで稽古していると、もうついていけなくなる。休憩時間の雑談の輪にも加われない。

対面で話していると、大体通じる。あくまで大体であって、人によっては至近距離であっても相手の言っていることが聞き取れないケースも多々あって、いかにも情けない。さてどうする。最近、アップルのイアフォンが補聴器がわりになるというCMを観て、またそのCMで流れてくる難聴者の聞こえ具合が実にリアルに再現されていて、まったくいやらしいったらありゃしない。

さて、整体人として、この状況とどう向かい合うべきなのだろうか。もともと近視で、30代前半までは眼鏡をかけていたのだが、ある時点で使うことをやめてしまった。眼鏡を外したら視力が戻ったかというと、そんなことは全然なくて、単純にぼんやりとした世界を受け入れただけでのことなのだが、無理矢理焦点が合うように作られている眼鏡の不自然さから解放された感と対象物との間の空気を捉えられるメリットは何事にも代えがたく、運転免許の更新時にやる視力検査の時以外、眼鏡をかけることも無くなってしまった。その視力検査にしても、なぜか歳とともに正解率が高くなって、60代後半になって眼鏡不要のお墨付きをもらってしまった。視力ってなんだ、という話。旅行に行くときなど、念のために眼鏡を荷物の中に入れておいた時期もあったが、結局使うことなく旅を終えることが当たり前になってしまい、最近では100パーセントの眼鏡なし生活を送っている。

随分前から、人生能力一定説ーつまり、なにかの能力が育つということは、他の何かの能力を捨てている。逆に、何かの能力を失うということは、他の違った能力が育っているに違いないという説を唱えている。これは、数年前、孫たちと濃密な時間を過ごすうちに浮上してきた説で、大人の足で3分で移動できる公園まで15分掛けて移動していくというのは能力と呼ばずなんと呼ぶのか。では、耳が遠くなることで、僕の中でいったいどのような能力が育って来ているのだろう。円滑な社会生活を送るために補助的機器を頼るべきか、それとも自分の中で何が育って来ているのかを見極めていくのか。整体人として進むべき道は明らかなのだが、それでも、揺れ動いてしまうのだ。

2025年3月11日火曜日

紙風船

 講義の中で「室伏くんが紙風船の稽古を流行らせててね〜」という師匠の話を聞いて、ググってみたら、なんとスポーツ庁のホームページで紙風船エクスサイズなる動画までアップされている。スポーツ庁長官って、ひょっとして偉い人なのか。

 彼が稽古会にはじめて現れたのは足柄で合同稽古合宿をやったときだと記憶している。1996年10月開催、参加者318名という記録が残っている。あれから30年近く経つのだ。本部稽古場にハンマーの球がゴロゴロ転がっていた時期もある。時に京都の研修会館の稽古会に現れ、女性陣に取り囲まれている写真も残っている。

 それにしても、あんな凶器にしか見えないものを、ブンブン振り回す競技ってなんだろうと、その後興味を持ってオリンピックや世界陸上を観ていると、もう野獣としか思えない筋肉隆々の選手たちが雄叫びを上げながらハンマーを投げている。筋肉増強剤全盛の時代で、ドーピング検査で引っかかる競技者も多かった。僕らからすると十分巨体の室伏選手が華奢に見えるほどであった。競技選手のドーピングには厳しいくせに、自身のドーピングには甘い観客というダブルスタンダードな変な世界。

 竹棒団扇ほどに紙風船が稽古道具として定着したという話はあまり聞かないが、室伏くん(もはや君付けでは呼べないけれど)が紙風船を抱えていると、ちょっと微笑ましい。ハンマー投げの球は7キロの鉄の塊。それに対して紙風船はわずか数グラム。大きさは似たようなものだろう。それを鉄人室伏がやるとコントラストが際立ってお洒落。動法とも内観とも言わず、無いものへの集注、つまり身体を引き出している。そりゃ、ラジオ体操よりも紙風船エクスサイズでしょう。



2025年3月3日月曜日

大井町稽古場閉鎖

今月末をもって大井町稽古場が閉鎖されることになったという。
京都に移ってくるまでの十数年を大井町稽古場で過ごしてきた私としては感慨深い。
なくなってしまう前に一度お別れにいこうと考えている。

大井町稽古場に関して書いた文章はないものかと、パソコンの奥を探ってみたら、「大井町稽古場の歴史をたどる」という文章が出てきた。東日本大震災の年、2011年に書いたものだ。どこかで発表したかどうか、誰かに読んでもらったかどうかも覚えていない。


【大井町稽古場の歴史をたどる】 

 大井町稽古場ができたのが1993年であるから、いまから18年前ということになる。本部稽古場が二子玉川につくられたのが1988年であるから、それから5年が経過している。つまり、身体教育研究所(当時はまだ整体法研究所と呼ばれていた)の本部稽古場が活況を呈し人が溢れはじめ、また助手として連日連夜、裕之先生のもとで稽古していた助手たちも育ってきたので、本部稽古場以外に活動の場を広げるために作られた、稽古場第2号というのが、大井町稽古場に与えられた立場である。スポンサーは剱持先生/整体コンサルタント(2008年に逝去)。裕之先生をずっと影で支えて来た四天王と呼ばれた古い整体指導者の一人である。

 助手三人体制による大井町稽古場の運営は順調であった。この時期(1993~1998)が一番活気があったかもしれない。その理由は、稽古会の受け皿が大井町稽古場しかなかったからである。稽古場3号となる鎌倉稽古場が開設されたのが1996年である。

 大井町稽古場第2期は整体法研究所が身体教育研究所と名前を変え、技術研究員制度が整備された1998年に始まる。従来の整体コンサルタントであった人たちが身体教育研究所に「移籍」し、身体教育研究所の技術研究員として活動を始めた。整体指導室も稽古場に看板を書き換えた。稽古場の数も一気に増えた。ここから担当者の一人であった戸村が京都に移る2002年までは、戸村を中心に据え、それに大井町稽古場に続いて1996年に開設された鎌倉稽古場との兼務になる松井、それに事務局との二足の草鞋を履くことになる角南が補佐する形で加わった。

 2002年、戸村は関西の稽古拠点となるはずだった山崎稽古場を担当するために大井町稽古場を去っていった。これを機に、大井町稽古場は松井を中心に据え、それを角南、剱持(小田原稽古場との兼務)が補佐するという体制に変わった。2003年に横浜稽古場が開設されて数年は、大井町/横浜/鎌倉三稽古場共通登録という試みもされ、稽古の裾野を広げることに貢献してきた。大井町に関していえば、十年間、松井/角南/剱持体制が続いてきた。活気のある時期、活気のない時期、様々であったが、概ね、登録者25~30名という範囲で稽古会が続いてきた。

 大井町稽古場の特徴をいくつか挙げるとすると、(1)参加者は関東一円の広い範囲からやってくるー言い換えると地元密着型でない、(2)若者の出入りが多いー本部への通過点になっている、(3)課外活動の多様さー田んぼ手伝いから句会まで、といった点である。この多様さが大井町稽古場のエネルギー源といってよい。

 そして2011年3月11日、震災がやってきた。東日本大地震は地面を揺るがしただけでなく、多くの人の人生を揺すぶった。大井町稽古場をも大きく揺らせ、新しい時代へと一気に押し出した。大井町稽古場第4期のはじまりである。

  2011/10

2025年2月27日木曜日

2月の読書

本屋がアジアをつなぐ* 石橋毅史 ころから 2019
沸騰大陸* 三浦英之 集英社 2024
外国語を届ける書店* 白水社編集部 白水社 2024
コペンハーゲン* マイケル・フレイン 小田島恒志訳 劇書房 2001
スペイン サンティアゴ巡礼の道* 高森玲子・井島健至 実業之日本社 2016

2025年2月20日木曜日

遍路2025 運ばれる哀しみ

四国遍路4年目。
38番札所金剛福寺にお詣りし、ここから歩きはじめる。
目指すは土佐路最後の札所39番延光寺。
日差しはあるが風は冷たい、しかも向かい風。
竜串の宿にたどり着いた時には結構へろへろ。
足裏にマメもできている。

2日目の宿は28キロ先の大月町。
この状態でたどり着けるのかやや不安。
途中の大浦分岐までバス移動にする。
距離にして13キロ。徒歩でいけば3時間の距離。
ここまで一筆書きの歩き遍路できたが、はじめて足裏が地面を離れることになる。

大浦分岐でバスを降り、月山神社を目指す。
途中から大月遍路道に入る。
月山神社に詣で、さらに進むと赤泊に降りる遍路道に入る。
よく整備されているが、滑落しそうな崖縁の部分もある。
地元小学生の応援メッセージが木の枝にたくさんかけられていて、つい読んでしまう。

遍路道を抜けるとあとは海岸沿いの道。
海沿いとはいえ、アップダウンは多い。
最後の上り坂を登り、日が高いうちに宿に到着。
バス移動の効果は大きい。
陽が傾いてからここまでの道を歩けば、ずいぶん心細かっただろう。
この日、すれ違った人ひとり。
道端で猿一匹と遭遇。

最終日。
ときおり、雪が舞っている。
バス3本乗り継いで延光寺。このあっけなさはなんだ。
不完全燃焼感は残るが、ともかく遠かった土佐路最後の札所にたどり着く。

さてここから先どうしよう。