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あざみ野通信 014 1987.8.15
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●河上さんのこと
河上綾子さんは、僕が京都時代の一時期住んでいたアパ-ト「明美荘」の管理人さん。明治生まれのはず だから70歳代の後半か。いまでも、かくしゃくと管理人としての仕事をこなしている。コ-ヒ-が大好き で、専門店にコ-ヒ-豆を買いに行き、自分で挽いてはサイフォンで入れる。一時期流行った「自立した 女」の先駆者のような人で、コ-ヒ-をご馳走になっては 昔の話を聴かせてもらっていた。 京都市の北、大原の大きな材木問屋の末娘として生まれた河上さんは随分やんちゃな子供だったらしい。お 兄さんと一緒に通っていた柔道を無理やりやめさされ、書道を習いに行かされ面白くなかった話、中学時代 のある夏休み、結婚したお兄さんの住む東京へ親に無断で行った話、そして、京都に帰ろうとした直前、関 東大震災にでくわし足止めをくってしまった話..... 武勇伝は数知れない。
そんな河上さんも、女学校卒業と同時に、お見合い、そして結婚。もっとも、河上さんに言わせると、ある日、突然、訳も分からず大勢人のいるところに連れて行かれ、後になって、そこにいた一人の男性と結婚するのだと言い渡されたという。ちゃんと顔も見てないのに嫌だと言ったけれど、「そんなことは、結婚してみないと分からないだろう」と言われ、「なるほど、そんなものか」と自分で納得して一緒になったという。
結婚した相手は商社マンで、この人についてアメリカまで行くことになる。昭和 10 年前後のことらしい。 勿論、船で行く訳で、ハワイまで一週間、そこから、また一週間かけてサンフランシスコに着いたという。 船酔いもひどく、アメリカ本土に到着したた時はさすがにホッとしたそうだが、帰りにも、また二週間船に 揺られるのかと思うと、今度はゾッとしたという話は随分昔のこととはいえ笑えなかった。ご主人の任地は ポ-トランドだったらしい。サンフランシスコから、今度は、汽車の旅である。
戦争は河上さんの暮らしにも大きな変化をもたらした。夫を戦争にとられ、子どもと二人だけで暮らすことになったが、それで生活が苦しくなったかというとそうでもなかったらしい。それまで、夫の手から渡さ れていた生活費が、今度は、夫の会社から直接送られてくるようになり、それで初めて、夫の給料の額を 知って驚いたという話も聞かせてくれた。面白いエピソ-ドは他にもある。頼まれて軍用犬を飼い始めたら、 その犬のために肉の配給が沢山届き、肉には不自由しなかったとか、請われて専売公社で働き始め、ここで は煙草をもらい、近所の人に分けてあげると、お礼にお米が返ってきたとか、戦争中でも物質的には随分恵 まれていたようだ。この平和な(?)暮らしも戦争終結前後になって崩れていく。まず、一人息子を病気で 亡くし、更には、復員してきた夫が、還ってきて僅か三日目にメチルを飲んで死んでしまう。息子を死なせ てしまったことをどう伝えようかと悶々としていた矢先の出来事で、正直ホッしたともいう。暗いはずの話 なのだが、語り口に悲惨さは微塵も感じられない。過ぎ去った時間の長さもさることながら、河上さんのさ ばけた人柄のせいだろう。
河上さんの戦後は「独り暮らし」を始めるところから出発する。親戚の人の紹介で病院の付添婦として出るようになるのだが、物事をはっきり言ってしまう性格が災いして敵も多かったが、同時に、ひいきにしてくれる人も多く、時には、指名されて名家に出張にも出かけたそうである。休暇をとって香港に行ったこともあり、その時はその時で、団体行動からはずれ、香港人と結婚している日本人女性と知り合い、その夫婦のやっているレストランを手伝うことになったとか。結局、香港には丸一月滞在したという話だ。
そんな河上さんがどういう経緯で明美荘の管理人になったか、そこのところは聞き漏らしてしまった。特別愛想がよいわけでもなく、むしろ、表面的には不愛想な部類に入る人かもしれない。アパ-トの住民は20代の男女が多かったから、時には苦言を呈してくれる河上さんを煙たがるむきもあったが、僕などは不思議に相性が良かった。
明美荘を出てからも、仕事場から近かったので、年に数回の割りで話に伺っていた。京都を離れてからは、さすがに会うチャンスは少ないのだが、5月末、僕の結婚記念パ-ティ-を京都でやって貰った時、声をかけたら出かけてきてくれた。旧明美荘のメンバ-も集まっていたのでちょっとした同窓会気分を味わうことができた。その時聴いた話では、河上さんは最近、ボケ防止にと三味線を習い始めたそうである。
○明美荘 東海道線西大路駅の近く、京都市南区にある木造二階建の古いアパ-ト。昭和の初めに近くの工 場で働く工員のための寮として建てられたそうである。広い廊下を挟み、四畳半プラス板間一畳の部屋が並ぶ。 総部屋数18。各階に共同炊事場とトイレ、一階に洗濯機有。若い独身者が多いが中高年の単身者、夫婦づ れも住んでいた。家賃は1万3千円(現在も同じらしい)。78 年9月から 82 年2月までの3年半ここで 暮らした。小栗栖さん、済木夫妻も一時期このアパ-トで一緒で、不思議な半共同生活を送っていた。我々 四人を訪ねてくる人たちも多く、京都の宿泊所の機能も果たしていたように思う。料理好きの済木さんを中 心にパ-ティ-も頻繁に催され(来客があれば即パ-ティ-)、僕の主催したカレ-パ-ティ-に20人 (四畳半の部屋に!)集まったこともある。ここに出入りしていた顔ぶれのうち今でも京都に住んでいる人 はほんの一握りになってしまい、時代の流れを感じてしまう。