女と文明 梅棹忠夫 中公文庫 2020
地球にちりばめられて* 多和田葉子 講談社 2018
星に仄めかされて 多和田葉子 講談社 2020
子ども疲れ、移動疲れ、理由はもろもろ考えられるけれど、最終的に、ここ5ヶ月間、僕には「コロナにかかる自由」がなかったのだという一点にたどり着いた。そう、僕はコロナにかかってはいけなかった。妊娠中の娘のところにコロナを運んではいけなかった。妊婦がコロナ感染した場合、帝王切開となる、そんなニュース記事がインプットされてしまっていたのだ。
コロナの最中は引きこもっていればよい、そのようなスタイルでコロナと向き合うつもりでいたのに、思わぬ出来事のため、移動自粛のさなか移動を余儀なくされてしまった。基本僕のスタンスは、「病気は必要な人がかかる」「病気によって、その人の体は改革される」というものなのだが、娘の出産に関しては、医療機関と関わらざるを得ないから、そっちの土俵に上がるしかない。つまり、全力でコロナに感染しないように努力するしかなかったわけだ。
そしてようやく、ぼくは「コロナに感染する自由」を取り戻した。
京都に帰ってきたら、無性に音楽が聴きたくなった。このところCDプレイヤーがやや不調なので、抽斗の奥からipod touchを引っ張り出してきて、macから音楽データを移し、dockの出力端子とアンプの入力端子をつないだ。容量8ギガしかないipod touchだけれど、普段、CDで聴いているものの枚数はそう多いわけではない。4ギガ分入れれば、丸二日かけっぱなしでもお釣りがくるくらいだ。一時は売り払ってしまおうかと思っていたipod touchだけど、あらためて触ってみると結構な名機に見えてくる。dockに載せると使い勝手もよい。涼しくなって、アンプから出る熱もそう気にならない。一日中、かけていた。
千葉に通うきっかけになった出来事から150日目の朝、元気な男の子が生まれてきた。この150日の間に、京都と千葉を往復すること8回、のべ70日近くを千葉で過ごしたことになる。こうなると、「暮らした」という方が適切かもしれない。究極の二重生活。小さな男の子たちとの暮らしは、住環境も食生活も京都での暮らしとぜんぜん違っていて、戸惑うことも多く、体調を崩しかける場面もあったが、なんとか乗り切った。これで、ひとやま越えた。
といっても、これで終わりというわけにはいかない。むしろ始まりだ。この二重生活は当分の間続くことになりそう。四連休の初日、帰りの新幹線に乗ったのだが、その混み具合は、まだ旧に復したとはいえないまでも、4月5月の一両にひとりふたりの乗客しか乗っていない異常な空気感のなかで息を潜めて乗っていたことを思うと隔世の感がある。このコロナ騒ぎってなんなんだろう。
五ヶ月のうちの半分留守していたということは、仕事をサボっていたということでもある。コロナ禍の最中で実際に稽古する人数は大きく減ってしまっていたことは事実だが、稽古できる環境を準備できなかったことで、迷惑をかけてしまったこともたしか。これからも、月の三分の一程度は留守することになりそうだが、少なくとも、稽古日程はあらかじめ出せるようにしたいと思っている。
それでも、ひとやま越えたという安堵感はある。